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「テレビの嘘を見破る」3
著者 今野勉
出版 新潮社
p103より引用
“事実の前にまず謙虚であること、”
演出・脚本家である著者による、
テレビのヤラセ問題についての一冊。
1993年に放映されたドキュメンタリー番組等、
具体的な例を数多く挙げてこの問題について書かれています。
上記の引用は、
ドキュメンタリストの姿勢についての著者の意見の一文。
画面に映される世界の自然等の素晴らしい事を、
確かめに行く事が出来ない今の自分の状況を謙虚に受け止めて、
毎日頑張りたいと思いました。
映像がどの様に作られるか興味のある方に。
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ドキュメンタリー番組の「やらせ」は「演出」として許容されるのであろうか。
この話をスパイラル形式で書き進めているため、結論が徐々に変わっていく。
そして最後は有耶無耶で終わっている。
テレビの嘘を見破る方法が書かれているのではない!
最近は情報自体に価値が出てきたため、素性が重要になってきたそうだ。
制作者はそれを明らかにする必要があるが、視聴者も制作手法を勉強しなくてはならないらしい。
ドキュメンタリー番組は、単に事実を記録したものではない。
そこに含まれる何らかの意図、それをどう判断するかは視聴者自身なのだ。
著者はドキュメンタリー番組の制作者でもある。
彼の作った作品は信頼できるのかもしれないが、お話としては面白くないだろう。
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作為=工夫とするならば、「嘘を見破る」というこの作品のタイトルさえも見事なレトリックが施されているに違いない。無意識に読者を誘う巧妙な手口は流石プロ。
ドキュメンタリー番組の制作においての事例をいくつか挙げて説明しているが、ヤラセや嘘を見破るというよりも、そのヤラセや嘘を前提にして結果的には全てを丸め込もうとする意図が感じられる。
テレビの向上的な工夫というよりも、視聴率主義への妥協的な作為が見え隠れしているような、改めてテレビの倫理性を疑ってしまうような仕上がり。
テレビを作る、見る側様々な立場からあらゆる意見が出そうな一冊。
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テレビの嘘を見破るということで、製作者サイドからそれが「やらせ」か「演出」かについて語られている本です。
正確には本書では、「テレビ」の嘘ではなく、「ドキュメンタリー番組」の嘘を検証するということになります。本書は2004年に書かれている本で、もうずいぶん古い情報となります(中古で買った本だからしょうがないけど)。その書かれた2004年からさらに古い1993年のNHKムスタン事件についても検証しています。
っということで、情報自体がずいぶん古いですね。
さて、内容についてですが、「やらせ」や「誇張」や「再現」「演出」など、さまざまな実例をベースに作り手の工夫といったところから、ここまでならどう?それじゃ、この例は?といった形で読者に投げかけてきます。
しかし、正直、文章でその例を挙げられても、ぴんとこない。映像分野なので、映像で語ってくれないとつらい。イメージできないところもあります。これはテキストの限界ですね。今後、電子ブックがはやっていくと、こういったところでは、動画が出てきて、わかりやすくなっていくんでしょうね。(おっと脱線)
さて、本書では、どこまでが許されて、どこまでが許されないか?
それをベースとしての作り手の苦悩
などが語られているわけですが、それは、作り手側の一方的な視点でのみ語られており、受けて側の視点の掘り下げが足りません。
結果的に、作り手側の言い訳にもとられてしまう内容となっています。
それがちょっと残念かなと。
受けての一人として思うところは、誰かの手を通して発信されている情報はすべて、その人の意識や意図が入るものでしょうから、ニュースにしろ、ドキュメンタリーにしろ、その情報発信者が何を訴えたいのかを見てあげることが重要かなと思います。
2011年の今では、視聴者はおおよそ、TV上の演出って理解していると思うんですけどね。その上で、自分が共感したもの(感情が動かされたもの)が事実だったのか、演出だったのか、捏造で作られたものだったのかが許せる、許せないの境界なのかもしれません。
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かつての「ドキュメンタリーの名作」には、登場人物すら「やらせ」「演出」のものがあった! 告発や暴露ではなく、テレビが映し出す「事実」とは何かを考える本。
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[2012.その9]番組の作り手が考えるドキュメンタリーのあり方。「やらせ」という言葉があらゆる所で使われている現在、何が「やらせ」なのか?「やらせ」、「虚偽」、「歪曲」、「捏造」...映像を作る上で避けて通れない宿題を提示してくれる一冊。
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今野さんの本。テレビにまつわる話題は最近多いが、来る時が来たとも思うし、これからはもっとだなとも思う。ドキュメンタリー映像の制作において交わされてきた論議やその制作現場の葛藤。「関係性の開示」というキーワードは時代の流れの中から執拗に迫られ出たある意味方法論。メディアリテラシーとは何か。今や映像の情報を利用する、分析するという意味でのリテラシーは熟成しないうちに、それを上回る勢いでネットのそれの方が格段に浸透している感。情報に接する際の受動か能動かという話はもはや情報の質という角度ではあまり意味がない。映像制作や番組制作サイド側が何を前提に制作をしているのか、前提としてるものは本当にあるのか。情報がよりパーソナライズされ提供されていくことが必至な状況の中で、最近よく言われるテレビの「公共性」とはどういう意味をもつのか。放送もひとつの解体された情報の要素として受け取られ消費されて行くことがこれからのリテラシーであるとすれば、今後の状況の中でメディアとしてテレビが果たしていく役割はどこにあるのか。とか。
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ドキュメンタリーのやらせはどこまで許されるか、について様々な作品の例を出して検証。
…なのだけど結局「ドキュメンタリーはどこまでも自由なものなのです」みたいな結論でモヤモヤ。どうせやらせのないドキュメンタリーなんてものはない!もう最初から割り切ってニセモノのバラエティ見てた方がいいわ!という気にすらなった^^;
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ドキュメンタリーのあり方を具体例を出しながら分かりやすく解説してくれた。
しかし、結論にはがっかり。。
まぁ物事を多方面から見る事の大切さと答えが無いのが答え、ということもあるのだと再確認させられ楽しかった。
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ドキュメント作品を作る上での再現場面がどこまで許されるべきか? 記録と事実の違いを考えさせられます。
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「自分たちのやる行為は、ただの都合のいい絵空事なのではなくて、よんどころのない事情で撮影できない、ある想定しうる事態、ありうる事態を現出させる代行行為なのだという合意」に基づく再現がやらせに当たるかは、撮る側と見る側で違うだろうね。
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タイトルから想像した内容とは少し違っていました。
ドキュメンタリー番組における「演出」の是非について、テレビを作る側からの見解を書いたもの。
番組の内容を分かりやすくするための“演出”は果たして全てが“やらせ”として糾弾されなければいけないのか?
“やらせ”と責められることを恐れ、番組の質を下げてでも“演出”をなくし、すべてリアルであるべきなのか?
という内容。
個人的には伝える内容に「嘘」が無ければ良いと思うんですが…「嘘」のラインの線引きが人それぞれだったりするのかなあ…
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面白かったかどうかは、可もなく不可もなくといったところ。
ドキュメンタリー製作の裏側について、知らなかったことをたくさん知れて良かった。
どこからが「ヤラセ」で、どこまでが「演出」「工夫」「関係性の提示」「過程の公開」として許容されるか・・・
それはまず作り手の誠意や熱意、製作の意図(何を伝えたいか)によって定義付けられる。
しかし、受け手がそれをどう捉えるかとは別な問題だ、といったところかな。
「・・・これは、第○章までの宿題としよう」と、結論(筆者の意見)を先伸ばしにする箇所がいくつもあり、、、結局最後まで読んでも語られることが無かったという(苦笑)。
「あとがき」にて自らその点に触れ「白黒つけられる問題ではない」とお茶を濁す・・・、これはちょっと…いや、だいぶ、アンフェアだなぁと感じた。
★3つ、7ポイント 。
2017.03.26.古。
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●テレビにおける「やらせ」について、様々な実例を解説するとともに、どこまでが事実に対する演出なのか、どこまでが虚構になるのか、読者に問いかける一冊。
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40年以上前の映像やドキュメントや写真についてどのように撮影されたかについて詳細に示した本である。ベトナムの逃げ惑う子どもが計画的に撮影されたということは、映像だけが独り歩きしている。
残念ながら、現在では見ることが難しい映像ばかりであるが、きちんとした教材になるのであり、これらの映像と解説があれば日本のメディアリテラシーの教科書となるであろう。