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16世紀末のイスタンブルを舞台にしたミステリー。オスマン帝国を舞台にしたミステリー、というのがあまり無いように思えたので、新鮮に感じた。
ただ容疑者の三人の細密画師が書き分けられてなかったように思われた。
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2006年ノーベル文学賞受賞
wikipedia. → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%A0%E3%82%AF
オルハン・パムク(Orhan Pamuk, 1952年6月7日 - )はトルコの作家。コロンビア大学教授(比較文学)(2006年~現在)。イスタンブル生まれ。イスタンブル大学ジャーナリズム学科卒業。
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やはり翻訳の限界はあるのだろうけれど、イスラムの世界をわずかでも覗き込めた気がした。物語はさておき、コーラン(翻訳者は「コラーン」という読み方に妙な意地を見せているが「クルアーン」の方が実際には近いと思う)の持つ意味やイスラムで言う偶像の意味がわかるという点でとても参考になった。
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オルハン・パムクは恋愛小説家だと思って読んでいる。
繰り返されるテーゼ、寓話の登場人物に投影される男女、静かに確信の周辺について語られていき、二人の距離が詰まらない。じれじれして、最終章の埃っぽい薄暗い部屋、荒い記事のカーテン、インク壺とペンが最高のご褒美でした。
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トルコ文学は初めて読んだので、風習や名称等よくわからないものもあったが、これをきっかけに色々調べたりしたのでかえって勉強になった。
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久々に読み応えのある、重厚な、文学らしい文学作品を読んだ。イスタンブール出張に何の本を携行しようかと思い、長らく積読状態になっていたこの本を読み始めたが、結構読了に時間がかかった…。語り手が(主役級の人物のみならず、時には死体が、時には木の絵が、時には紅の色が語り出す)入れ替わり立ち替わり、さまざまな視点で重層的に紡ぐ物語は、カラとシェキュレの恋愛、細密画師の殺人の謎解きのみならず、細密画という世界を舞台に、イスラム世界全体が、西欧的価値観やスタイルのインパクトに抗いながらも、受け入れざるを得ない、アイデンティティ・クライシスや、パラダイム・シフトを描いていて、壮大かつ重厚。トルコ人であり、西欧文学に傾倒したパムクだからこそ描ける物語。おもしろかったけど、コーランや、イスラム世界では知ってて当たり前のさまざまな物語、たとえ話などがたくさん出てくるので、それなりに覚悟して読まないとキツイかも。でも、画家を目指していたパムクらしく、芸術に関しての慧眼には感服するし、シェキュレやエステルの俗っぽさや庶民の(そして、女性の?)たくましさは生き生きと描かれていて魅力的だし、ミステリーの要素もある、かなり贅沢な文学作品だった。
今回のイスタンブール出張中、トプカプ宮殿を訪れたので、作品中、スルタン様の宮殿が出てくる場面は情景が浮かんだし、イスタンブールの町中の描写も親近感が持てた。やっぱり、作品の舞台となっている場所の空気を感じながら作品を楽しめるのはいいなぁ。
蛇足ながら、今回の出張で訪れたボアジチ大学の元副学長はパムクのお兄さん、シェヴゲト・パムクなんだとか!ちょっと縁を感じる。
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2006年にノーベル文学賞を受賞したトルコ人の作家の代表作。
「世界32言語に訳されたベストセラーで、著者の最高傑作」と帯にある。
舞台は16世紀のイスタンブール。細密画師の殺人事件をめぐる歴史ミステリーである。解説の焼き直しになるけど、この小説の魅力は、第1にミステリとしておもしろい。「犯人は誰か」という興味で最後まで飽きない。第2に16世紀のイスタンブールの人々や社会が描かれ興味深い。日本では戦国時代だったんだとか思うと、当たり前だけど全然違っていて、新鮮である。第3に恋愛小説としてのおもしろさ。私は恋愛ものは苦手なのだけど、最後の部分に結構心が動いた。第4に、人々の芸術観が迫力をもって描かれるところである。作者が画家を目指していたこともあり、薄っぺらい芸術論ではない。
形式も変わっている。59の章は一つ一つ語り手が変わっていく。例えば1章は「わたしは屍」、31章は「わたしの名は紅」という風に。31章の語り手は「色」である。
この小説で作者はノーベル賞を受賞したと言われている。ミステリーとしても読めて、しかもまぎれもなく重厚な文学。正直疲れたけど、良かった。
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『わたしの名は紅』って題名に「ゴレンジャーかい」とつっこみたくなった。章が変わるたびに、話者が交代し、話者の一人称視点で物語が語り継がれてゆく。表題の「紅」というのは、色の赤のことである。主題を担っている細密画に使われる塗料の色であることはもちろん、血の色でもあり、その他諸々のこの世にあるすべての赤を代表している。色が語り手?といいたい気持ちは分かる。しかし、色だけではない。金貨も犬も語り手になるし、悪魔だって一章を担当している。だいたい、死んでゆく人物が、今まさに死につつある状態を実況中継する。いわば何でもあり、なのだ。
かといって、これは寓話ではない。殺人者を追うミステリだし、子連れの寡婦をめぐる三角関係を描いた恋愛小説でもある。いやそれ以上に、ほとんど変化というものを知らなかったトルコの細密画というジャンルが、遠近法や肖像画という未知の技法や主題を有する西洋絵画と出会うことで起きたアイデンティティ・クライシスについての葛藤を、細密画師の口を借りて元画家志望の作家が詳細に論じた美術批評でもある。さらには、隣接する諸国家との絶えざる争いにより、最も強大な時には遠くヨーロッパまで版図を広げていったトルコという国の戦乱の歴史の概説であり、『千夜一夜物語』をなぞるように入れ子状に配された、細密画の挿絵の素材となる美男美女の悲恋やスルタンと寵姫の愛の物語でもある。
すっきりと、こんな小説と言い切ることが難しいのにはわけがある。ミステリを例に取れば、通常、視点は探偵側にある。読者は、視点人物である探偵の視点にそって語られる物語を読むことで、探偵側に感情移入しつつ物語の中に入ってゆく。近代絵画を例にとるなら、フーコーが『言葉と物』の冒頭、ベラスケスの『ラス・メニーナス』を引いて論じているように、その絵が誰の目から見られたものなのかが問われなければならない。なぜなら、神が死んで以来、世界は人間の目で捉えられるものとしてわれわれの前に存在しているからだ。
イスラム教を奉じる16世紀のトルコでは、世界はアラーの目から見たように描かれねばならなかった。当時のトルコ人にとって、西洋絵画が発見した遠近法は、いわば犬の目の位置に視点を置いた画法であり、到底受け入れることのできない不遜な画法とされていた。そのトルコにあって、ヴェネツィアで肖像画を見てきた高官エニシテにスルタンがひそかに命じ、新たな技法を駆使した細密画を描かせていることが、宗教的な過激派の間で問題になっていた。実際にその絵画制作に携わる細密画師が絵師仲間に不安を打ち明けたことが殺人を引き起こす発端となったのだ。
宗教的な異端審問に発する殺人事件を扱ったミステリとしては、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』が有名だ。山間の修道院を舞台に、フランシスコ派の修道士とその弟子が連続殺人事件の謎を解くように、パムクの小説では、王宮の奥深くにある収蔵庫に籠もって、古写本の山のなかから手がかりとなる馬の絵を探すのは、細密画の名人オスマンと義父エニシテを殺されたカラの二人。トルコの細密画が、蒙古やペルシアの影響を受けながら今に至る変遷を様々な資料を挙げながら解説を加えるオスマンの話���、名人によるトルコ細密画史ともいうべきもので、圧巻である。
一方で、十二年前に結婚を申し込んで断られ、諸国を放浪し、様々な仕事に従事しながらもイスタンブルに戻ったカラと、エニシテの一人娘シェキュレとの結婚にいたるまでの経緯を描くサイド・ストーリーの方は、露骨な性愛描写を避けることなく、とことん通俗的に描かれる。というのも、章が変わるたびに視点が転換されることで、女の利己的な思惑がさらされてしまい、恋する男の視点から描かれる美しい恋人の像は、二人の子を持つ母の立場で結婚相手を誰にしようかと考える女の打算や二人の男から求愛されることへの快感をそのまま見せることにより、相対化される。
しかも、その間に、事件の犯人と疑われる秘密の細密画を描く絵師三人それぞれの細密画に対する考え方が、三つの挿話という形式で語られる。実は犯人は「人殺しと呼ぶだろう、俺のことを」というタイトルを冠した章において、何度も殺人のあらましについて語っている。読者は、名を明かしていない細密画師である犯人を、それぞれの考え方や論じ方を手がかりに、探しあてなければならない。これは、そういう論理パズルの側面も持つミステリなのだ。
それだけではない。手がかりとなる絵に描かれた馬だけでなく、犬やら死やら悪魔まで、一章を任された話者の御託に読者はつきあわねばならない。なぜなら、この小説自体が一枚の絵の中に人物だけでなく動物や小鳥、天使といった画像を稠密に配した細密画をなぞっているからだ。一人の人物の視点から世界を透視してゆくような、近代西欧的理知による見通しのいいパースペクティブを、この小説は付与されていない。近代西欧の発見による人間を主とするイデオロギーが主流になる以前のトルコを舞台にとるかぎり、それは当然のことである、と作者は考えたのだろう。アラーの前においては、馬も犬も人間も悪魔も何のかわりもない。すべては相対化されてしまう。
ふつうだったら主人公であるはずのカラをふくめて主たる登場人物に精彩がなく、かえってシェキュレと義弟ハッサン、カラの仲を取り持つ小間物屋の太ったユダヤ女エステルの方が生き生きと描かれているのは、彼女だけがイスラム世界から自由に生きているからかもしれない。少なくとも、作者はそう感じているだろうことは、読んでいてはっきり伝わってくる。このユダヤ女は、細密画の窮屈な世界にちんまりとおさまるには近代人的過ぎる。
オルハン・パムクを日本に紹介するに当たって訳者の果たした役割の大きさは評価されるべきだろう。ただし、読んでいる途中でくびをかしげたところは少なくない。おそらく原文に忠実な訳を意識されたのだろうが、日本語として読み辛い。幸い今は他の出版社から新訳が出ている。これから読む読者は、そちらを選択することも可能である。
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本当はハヤカワ新訳版で読みたかったのだが、図書館にあったこっちを読んでみた。
スゲーしんどかったってのが第一印象。読み応えありすぎ、小説でここまでの歯ごたえは数年来ではないだろうか。
とにかく濃密なのである。イスラム世界を題材にした細密画ってのがこの小説の重要な舞台かつ設定にあるんだが、文章で細密画を表現すると確かにこうなるよなぁって細かさっぷり。目も集中力も限界が来て、途中で読み飛ばしたくなるんだが、読み飛ばすとせっかく構成されてきた精緻な世界が瓦解しそうで、また数ぺージ戻って読み直して…
隙間時間も駆使して一所懸命読んで1日100Pが精いっぱい。ほぼ1週間の濃密だったこと。こってりと脂ったイスラム世界を堪能しました。ミステリーであり恋愛小説であり中近東史であり芸術小説である本書。じっくりゆっくり読書の濃密な世界を味わいたい人は手に取る価値あり。トルコに行ったことのある人行ってみたい人は是非とも!
正直言うと俺には少し濃密すぎた。読み終わった時も小説の世界に浸ったというより、最後のページまで読み終えた達成感に満足を覚えてしまい、それは読書じゃなく、苦行の域に属するもので…。
心と時間の余裕、何よりもイスラム細密画の世界にとっぷり1カ月くらいかかって浸ってやろうってな気持ち、これらが足りない俺には。この本の神髄は理解しきれていないのかもなぁ…。残念なのは小説ではなく、読書スキルの追いつけなかった俺である。
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読了した自分をホメてあげたい。部厚がその「障害」であったワケではない(その理由は他のヒトの評にも散見されるもの)。殺人の動機に関わる部分(というか関わるさま)にエーコ『薔薇の名前』が連想された。語り手(語り口)がめまぐるしく代わって魅力ある物語世界(世界観)の拡がりやその多彩が想像されるのでその、そのうち新訳版で再読したい。
同著者の旧訳『雪』も読了まで難儀したが、訳者の異なる『白い城』では稀有の豊潤な物語を堪能(耽溺)できた。
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一つには絞れない様々なテーマがこの作品を形作っているのだと思うが、私には特に「抗えないものに飲み込まれるとき、人はどう思いどう動くのか」ということを考えさせられた。
ベオグラードの人民博物館を訪れた際、正教会の伝統的なイコン美術が時代が下るにつれて西洋の新古典的な絵画スタイルに侵食されていくのを見て物悲しい気持ちになったことを思い出した。
イコン職人たちも黙って自分の立場を明け渡したわけではないだろう。そこにあったであろう葛藤や怒り、無力感、そんなものを考えさせられてしまった。