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淀みなく続く思考の流れから、美しく朽ちていく海辺の屋敷の描写へ、そして最後にまた紡がれていく思考の流れへとなり、物語が終わる。構成も描写も見事、美しすぎる小説。
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小説であるが小説ではない。言葉も展開も見事。さまざまなところに意識がいきわたりそれを言葉にすることをどこまでも追求しているのがわかる。本当に面白かった。
作中言葉の無力さを嘆く場面、ラストの場面などから筆者の葛藤や決意が見て取れる。芸術に対する態度についてしっかりと作中で言及し表明していることは、彼女の人生を写しとった作品だからこそ顕在化した父の影響なのであろうか。
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ヴァージニア・ウルフの小説は、読んでいる時は淡々と進むのだけど、読後、時間が静かに、澱が重なるように残っていて好き。
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内容が抽象的というか、比喩表現が多いように感じて、つかみづらい小説だと感じました。しかし、それぞれの登場人物たちの、言葉には出さないけれど心の中で考えている思いが、繊細に描かれていました。
美しく、たやすく周囲の人たちに自分に好意をもたせることができ、いつもまわりにいる人たちに気を配っている、ラムジー夫人が印象的でした。
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”百年の誤読”から。最近専らそればかり。それはさておき、これは言ってみれば、灯台へ行くだけの小説。何じゃそらって感じだけど、内容のことを表現するとしたらそうなんだもの仕方ない。文章の美しさに心酔するって読み方が、いまひとつ身についていない自分だから、きっと本書も味わい切れていないんだと思う。美しい文とか、素敵な表現とか、そういうのを目いっぱい味わうための小説だと思う。人物描写とか物語の内容だけでいうと、これより没頭できる作品は数多あると思うもの。でもウルフ作品、他にも挑戦したい。もう少し分かりたい。
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第一部ではたった1日の出来事を意識の浮遊と比喩の連鎖にたくして語りが進んでゆく。第二部になると嵐のなかで急速に時間がながれ、第一部でも絶えずちらついた灯台の影が妙な主体性を帯びるように感じる。個人的にはこの章が最も好きだった。そうして10年の月日がながれると、第三部では幻想と現実がおおいに入り乱れる。静かながらも重みのある小説だった。
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ラムジー夫妻にファーストネームが無い事に注目すべし。
他の長編の主役には必ずフルネームがあったという事は、意図的なものと考えるべき。つまり個でありながらも、象徴的役割が強く与えられている。母性父性の雛形的な。(だから私の両親やあなたの妻、あなたの上司にこんなにも似ている)。
それはある家庭の一日を描きつつ、創造神話的なジェンダー論、という層を持つ事を示している。
だから夫人は典型的な「男尊女子」。
ラムジー夫人は近視でラムジー氏は遠視、という象徴的な設定が凄い。つまり夫人は遠くが見えず、氏は近くが見えない。
で、安全な殻に守られた家族の原風景として和んでいる内に、そこへ闇が侵入し、天照大御神は隠れ、その子らは切り離された混沌の世界、エデンの東へ投げ出されるが、やはり人はそれぞれに光を目指して進む。
その繋がったばらばら感こそが著者が既存の信仰を超えている所だと感じる。人の生、というものは間違っていたり正しかったりするものではないのだ。
何かひとつの答えが有るわけではない。我々がひとりずつそれぞれ、灯台へ何を持っていくか、考えるのだ。灯台へ何をもっていこうか、、それこそが生きるということである。そしてその紙包みのあつまるところ、、、、それが灯台である。(言ってしまおう、、、アカシック・レコードのイメージに近い)
父性・母性、その超え難さや暴力性、或いは有機的な力に身を委ねる事の安心感。それを否定的にも肯定的にも、優しさ甘さと厳しさ残酷さを持って描いている。少なくとも、そこにある大切なものも描いている事は確かだ。
(そして、本作での著者の立場・視点への反動として、性差や家庭から自由に解き放たれる為に「オーランドー」は創造されたのだろう。)
ボートに乗り、青い空の下、象徴的に彼岸へ渡って行く。その心地よさ。そして、何故か、その記憶が私の中のどこかにある。いつか私はキャムだったのではないか?
(で、また霊は地上へと受肉し、受肉したての目から観た世界、という「波」の冒頭へと見事に繋がっていくのだ!)
*追記/
最後リリーが舟の3人を思うあたり、どう考えてもあれは野辺の送りの心境である。著者は明らかに3人を象徴的に殺している。
では何故そんな事をしたのか?と暫く考えていた。
著者の2つの側面を分割したのがリリーとキャムである。
意思を持って古い価値観と向き合い、決別し、新しい世界を選び取っていく側面、つまりリリーを此岸に残し、古い世界をノスタルジーと共に彼岸へ渡してしまおう。と、そういう意図だったのではないかと思う。
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3月にある読書会課題本。「ある一家の十年」というタイトルでもよいような話。個人的にはあまり嵌らなかった。ストーリーにドラマチックな展開などは、ほとんどない。全体に詩的な雰囲気があり、しかもところどころに戦争の暗い陰がただよっていて、それが本書に独特の深みを与えていると思う。誰にでもお薦めできるものでもないが、一読をして損はしないと思う。
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小説を書くときには一人称にするか三人称にするかを決めること。文章中で観察者の視点がブレると、読みづらい文章になるのでやめること……こういった『小説作法』がいかにいい加減なものか、この小説を読むと良く分かる。
――「ええ大丈夫です、ありがとうございます」とリリーはおずおずと答えた。だめだわ、やっぱりわたしにはできない。本来なら広がる同情の波に乗って、思い切りよく漕ぎ出すべきで、そう仕向ける圧力も甚大だったのに。ところが彼女はかたまったようにじっとしていた。きまずい間があった。二人とも海の方をじっと見ていた。いったいどうして、と氏は思う、ここにわしがいるというのに、彼女は海など眺めているんだろう? 灯台に無事たどり着けるぐらい、海が穏やかだといいですね、とリリーが言う。灯台だって! 灯台だって! それが何の関係があるんだ、といらいらしながら彼は考えた。
これは『灯台』が実験的に書かれた小説であるということではなくて、むしろ言葉への深い信頼があってのことだと私は思う。ビジネス作法のような決まり事を守らなくても、作家に明確なヴィジョンが見えていれば、小説は成立するのだ。
――極度の疲れの中で絵筆をおきながら、彼女は思った、そう、わたしは自分の見方(ヴィジョン)をつかんだわ。
小説中、あらゆるシーンで、この「ヴィジョン」というルビがふられた言葉が出てくる。この小説における「ヴィジョン」は観察した表象であり、また表現の技法なのか、あるいはその間にあるもののように思える。
――言葉なら思いつくし、ヴィジョンも浮かんでくる。それなりに美しい光景だし、美しい言葉だとも思う。だが本当につかみたいのは、神経の受ける衝撃そのもの、何かになる以前のものそれ自体なのだ。
テキストとして見ると、浮かぶ感想はこんなものだが、それだけではない深い情感がある。登場人物から登場人物へと移り変わる心理描写は、ウルフの深い人間観照を思わせる。重厚に描かれる風景は非常にたくみで、先ほど挙げた観察者が存在しないシーンもある。冷たく観察しても、暖かく眺めても、たっぷりと楽しめる素晴らしい小説だった。
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あらすじを追っていくこと、それを自分の経験や知識に照らして理解へ落とし込んでいくことが、いかに無意味かということを、この小説は教えてくれる。
この作家は、とても自分の心の動きに敏感な人だったのだろう。
人が人と視線を交わす。ただそれだけの刹那、どれほどの思索が交差するか。それをあますことなく文字にしたらこうなるのかもしれない。
こんな小説、ほかに見当たらないのではないか。
そしてまた、これほど内省に特化した小説もない。
すでに100年も前にものされてしまっているのだから。
自分という存在は、果たして一貫しているのか。
それにさえ疑念が湧いてくるようだ。
それでも作家は、人間の最後の希望の拠り所は人とのつながりに見出しているのだろう。
がんばって解釈すると上のようなことだろうが、まだまだ読み切れていないと思う。そして、きっと元気なときに読まないと、ひどいことになりそうな、そんな気がする本でもある。
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11/1は灯台記念日
微妙な意識の交錯とリリシズムを湛えた文体によって繊細に織り上げられた、去りゆく時代へのレクイエム。
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何がとか、どこが、というのは難しいのだけどとにかく面白かった
ラムジー夫人を中心にしながら、変幻自在に登場人物の意識の中に出たり入ったり羽虫にでもなったような感覚
しかも技巧を感じさせないくらいにふわふわと自然に
しかも、距離を取ってみることを忘れそうなときにちょうどよく現れる絵描きとしてのリリーの存在
しみじみとよかったなあ
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読後感もそうだが、読んでいる最中の感覚が何とも不思議だった。毎日少しずつ読み進めていたのだけれど、「よし、読もう」という気持ちよりもむしろ「夫人や他の皆さんに会いに行こう」というニュアンス。それは、例えば第一部を取り上げれば、文庫サイズで200頁以上を費やして語られるたった一日の出来事が、何気ない仕草や視線、会話から、描写は自然と内面へと移ろい、まるで人々の間を自由に漂うそよ風のように語られることで、より人物を身近に、親しみをもって感じられるからだろうか。第二部を読んで、このようなことを思った。傍観者のようなこの距離感が心地良かった。
決してエンタメ的な小説ではないし、自分自身、この小説の文学的な価値や意義、歴史的背景などはさっぱり解らないが、言葉の自由さを味わえる読書体験ができたように思う。もしかしたら、この本に挟まっていた広辞苑の広告の栞の、「ことばは、自由だ。」というコピーに感化されたのかもしれない。
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小説はやっぱり素敵だなと思う。
焦点をあてているのが、何か大きな出来事ではなく、折り重なり揺れ動く人の感情であるところが好きだった。誰もが人との関わりの中で、意識と記憶を織り交ぜて生きてる。その絶妙なバランスが表現できる方なのだと思う。
また、リリーが真に自立を得る様子の描写が素晴らしかった。
私は、こういう作品に小説の醍醐味が詰まっていると思う。
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ヴァージニア・ウルフは初めて読みましたが、とても素晴らしかったです。登場人物たちの揺れ動く感情、流れてゆく想念が緻密にかつ軽やかに描かれている様は見事。まるで点描画を描いているかのような文章だなと感じました。けれでもウルフが書き上げた画は巨大なモザイク画のようであり、ジグゾーパズルのようでもあり、万華鏡のようでもあり……言葉を繋ぎ合わせることでこんなにも多面的な印象をも読み手に抱かせるのは流石だと思いました。他のウルフの作品も読みたいです。