紙の本
自己決定とアイロニー
2007/05/15 08:21
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投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
超越系に魂を引かれている宮台氏と、それからは一歩引いている仲正氏によるトーク・セッションの記録。
体質や人への接し方もだいぶ違うお二人だが、思想的な「関心のありよう」には共通点も多いので、コラボレーションとしては思いのほかいい運びになっている。
宮台氏の論敵に対しての悪口は相変わらずだが、仲正氏のことは終始紳士的に遇した模様。そういうふるまいができる人のはずなのだが、どうしてなのか。悪口はあくまでネタとして挑発的にやっているのかなあ。本人はいたって真面目らしいが。
仲正氏はこう言っている。
《論敵を否定するときには「限定的な否定」である必要があります。つまり、相手のすべてを即座に否定するのではなく、相手のどこがおかしいのかを具体的に指摘し、自分と相手の違いと共に共通性を自覚することがたいせつなのです。そうでないと、相手と同じパターンの過ちを繰り返し、互いにエスカレートさせていく危険が高くなる。》
「限定的な否定」を態度として表出する作法とは、あまりに頭ごなしには相手を馬鹿呼ばわりしないということではないかと、私なんかは思うのだけど。
さて、対談の場合は、会話のチャッチボールがもっと頻繁に行われるほうが好みだ。本書では、各人のコメントが長いので、それが少ない。
そのためお互いの相違点について、どこが合意できて、とりわけどこがどのように合意できないかについて掘り下げた討論とまではなっていない(ところがある)。イラク人質事件をめぐっての意見の違いなども、突っ込んだやりとりにはなっていない。この時のマスコミへの評価は、お互い言いっぱなしで終わっている。反目する必要もないが、もうちょっと丁々発止たるところも見たかった。
宮台氏は「あとがきにかえて」で仲正氏のことを、《時事的現象について語るときには実存的バイアスによって偏った議論になりがちという傾向だ。》(《かならずしもケナシ言葉ではない》とのことだ)と評している。そういう印象は確かにある(だがそれは、誰にでも多少はあることでもあろう)。
本書の読みどころはいろいろある。例えば、「共同体主義」を唱える人に対しての批判は核心を突いている。
他にキーワードを一つあげると、アイロニーだろう。リベラルな社会では自己決定は肝ではあるのだが、その時にアイロニカルな態度が大事という話だ。そのためにリベラルは、リベラル・アイロニストでありたい。
仲正氏に言わせれば、ヘーゲルの弁証法とは異なり、決まった着地点がなく、常にひっくり返しの余地がある、それを孕んでいるのがアイロニーの運動ということになる。ただし、これを維持するにはけっこう緊張を強いられ、「現実的な側面」からは保守に吸収される傾向もあるという。
宮台氏に言わせると、全体が部分に対応するのがアイロニーである。非日常的な超越系に首を突っ込む場合でも、アイロニーに敏感であることによって、超越系につきものの有害性をかろうじて中和することができるそうである。
これは完全には免れえない、「リベラルの党派性」を緩和する効果もあるのだろうと思う。「絶対的正義」に寄りかかれない時代。近代の外部にユートピア的なものは見いだせない時代。だからといって絶望に陥いったり、ネオリベのように「なんでもあり」なのだから力こそが正義だとはなりたくない。そのためにも、アイロニーの慎重かつ適切な服用が効果的だ。
また「脱構築」を一応の正義とすること。そして、アイロニカルな視点を忘れずに、プラグマティックにかつ《モデレートに「ああそれもあるね」とやっていくしかないのではないか》といったメッセージも、参考になる。
《「豊かになって魂を失う」アイロニー》(宮台氏)を、現代日本に安直に当てはめているなど、首を傾げたい箇所もあるが、基本的には興味深い対論に仕上がっていると思う。
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宮台真司と仲正昌樹の対談。宮台真司が初めてで、理路整然と端的な言葉を使い論を展開する仲正と対極に、その言葉遣いから論の展開から面食らった。読み始めて二人のコントラストが激しくて、宮台が何言ってるのか、仲正のどの言葉を受けてその論理を展開しているのかわからなかった。しかしちょっと粘り強く読み続けていたら次第に慣れてきた。宮台はその接続詞なども含めて言葉遣いや、何言ってるのかも一見してわからないところも含めて引き付ける力を持っている。しかしその経験の濃密さも思考熟練度もそして思考の言語化能力もかなりぶっ飛んでいる。ふつうは表現の対象にならざる部分を言語化してくるような感覚で、その脂っこさが結構はまる。なかなかの読書体験だった。
タイトルは「日常・共同体・アイロニー」となっていて、確かにこの概念について語っていたということはわかるが、結局その議論がどこに向かっていて、どこで結論づけられたのかが読後も分からない。もともとこういう議論はクローズエンドにはなるはずはないが、それにしてもという感じ。
アイロニーという言葉が繰り返されていた。宮台の表現では「全体が部分に対応する」のがアイロニー。いってしまえばすべての事象や概念は再帰性をもって循環するので、そこに巻き込まれる私たちの姿勢はアイロニーにならざるをえない。それがわからずにどこかに特異点をおいて、そこに帰依するようなベタな生き方は損するぞ、ということだろうか。ただそれはわかる。損するかどうかは別として。「あえて」やる。「あえて」信じる、自己責任をもって。これかなと思う。
17.6.9
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§ テーマ:選択可能性が無限大な再帰的近代において、我々は何をもとに意思決定・判断できるか?
*
§ 読書前の前提:自分のアクチュアルな課題に絡めた問い(解決したいこと)
- 自己決定はできているか? 正しいか? そもそもする必要があるか?
- 背景1:仕事(自社ソフトウエア開発)で自己決定が勧奨されている
- スクラム、アジャイル開発、ティール組織
- 背景2:プライベートでも自己決定が善とされている風潮
- 「自分の人生は自分で決める」というクリシェ
*
§ 読書後の結論:自分の正義(超越)を問い、自覚していることを確認し続けることを思い出してみよう
- 私は自己決定が善いから(内在)/しなければいけないから(超越)、するのか?
- 超越の場合、根源を認識しているか? 共同体内での同調を求めていないか?
- 自らの経験と思考に基づく実践(実部)を伴うか?
- エクリチュール(虚部)による説明が可能か?
*
§ メモ - 現状理解:(たしかに)自己決定は要求されている
† p.43
- 我々は伝統・共同性・自己を超えるもの(以下、『超越』)の存在を「信じて」いる(と「信じて」いる)
- 伝統・共同性・超越を前提として自己決定している
- 自己決定(するであろうという)責任の信頼の連鎖のもとに成り立っている
- ゆえに、主体は、自己決定「的に振る舞う」
- ゆえに、全体は、主体に罪をなすりつけ、現状維持に貢献している
‡ p.103
- 自己決定のためには『選択』が必要
- 選択ができない者は、選択できる者にルサンチマンを持つ
- 豊かな社会では、ルサンチマンを乗り越えられる
- 結果、「なぜ選択肢が豊富なのに不安なのか」を考える
- 自意識・自己決定の壁を越えられていないことに気づく
‡ p.202
- 究極のルサンチマンへの対峙《生きていること自体が他者の迷惑である》
- 自分の正義は誰かにとって不正義である
- cf. デリダ「法の力」:競争力の無い者の権利は社会にとって無意味である
*
§ メモ - 問題提起1:エクリチュールのもたらす誤謬、複素数空間としての現実での振る舞い
† p.27
- 『言葉』は他人から与えられたものを媒介とする
- 『言葉』は意思決定・判断に必要不可欠
- しかし、他人にわかるように語られた時点で《体験そのもの》は死ぬ(=文字になる)
‡ p.29
- 消失した経験を取り戻すために、再現前化=表象化しようとする(追体験の幻想)
- ドゥルーズ的『反復』、ゆえに『差異』が存在する
- 再現の不可能性(もう死んでいるから)にもかかわらず、我々は再現を希求し続ける
‡ p.46
- 本来性(体験そのもの)は『虚数的』である
- 「あるということにしておかないと、現にあるものまでなくなってしまい都合が悪い」
- 一元論への回帰(=二元論《内在か超越か》への回帰ではない)
‡ p.55
- ゆえに、自己決定とは虚構である
- 近代の複素数空間性《現前している存在⇄虚数的存在のエクリチュール》を維持するのが大事
- 「みんながこう言ってるからこうなんだ、という虚数」であることを、教養をもって認めること
‡ p.275
- この複素数空間上での実践が問われる
- 規定可能な前提(虚部ではなく実部)しか見えなくなると、錯誤・誤謬が起こる
*
§ メモ - 問題提起2:自己決定を阻むものたち──権限・共同体・責任
† p.72
- 権限を与えられたことで、自己決定した(できた)と思い込む
- 国家権力・親・上司・・・が介入しないことで、自己決定したつもりになる
- 大雑把な議論で無理に結論を出してしまう/出した気になる
† p.85
- 共同体に所属することで、自己決定した(できた)と思い込む
- 「あなたはこう主張しなさい」と使命された前提があって、初めてXX主義が達成される
- 実際はそんなことはない。ほとんどは文化的背景で決定される
- 相対化して本当に「自由に」選択をして初めて自由な自己決定が実現される
‡ p.106
- 「XX主義である」ことは不可能
- 「自分がXX主義(的なものを)を選んだ(といえるのでは)と他者の前で自認すること」のみ可能
‡ p.184
- 「自称XX」は無意味
- 何を実践したかという事実性だけが問われ、それにより「何者であるか」が決定する
‡ p.135
- しかし、共同体内での自己決定の共有は『滑稽』である
- 例。三島由紀夫。自分をたやすく他者に投影して、皆も同じだと信じ込む様
- 三島は愛国を強制しなかった(自己決定を尊重した)
- 愛国した振りをする輩の蔓延を知っていたから
- 自己決定が前提にないと、対立が存在しえない
‡ p.285
「XXは伝統を破壊する」への反論。それは単なるあなたの思い出であって、XXこそ伝統を見いだせる可能性がある
‡ p.153
- 我々は日本国民として存在している前提を自覚している
- 宗教と同じ構造(ある程度の方針を支持せざるをえない)
‡ p.208
- 例。ナチについてのドイツ民族の責任、日本人の戦争責任
- 最大でも「現実的に責任があると言える」としか言えない
‡ p.214
- 例。キリスト教におけるイエス
-「彼は救世主で善人だから信じるのだ(内在)」から、「彼は苦痛に耐えているから信じるべきなのだ(超越)」へのシフト
‡ p.96
- 自己決定せよ、という(共同体の)命令文にはアイロニーが含まれている
- 命令文に従うという振る舞いは、自己決定ではない
† p.198
- 判断に伴う責任(共同体を簒奪し解体機能を果たしてしまう可能性)
- 「彼らはこう自己決定したからXXだ」と他者に『決定』されてしまう余地がある
- これこそが《共同体と自己決定を巡るアイロニー》である
‡ p.220
- 自分が正義だと判断した事に対して、どのような基準で判断したのかという説明責任が発��する
- 最低限の倫理として、『超越』に対する自覚が必要