紙の本
自由人のド根性を見た
2006/03/18 00:54
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
シラノ・ド・ベルジュラック、名前は聞いたことあるぞ。実在の人物だったんですね。17世紀、文人の顔で書いた作品のうち、この「月の諸国諸帝国」「太陽の諸国諸帝国」の2編。月と太陽の世界に旅行するということで、SF小説の元祖みたいなもん。
まず、ベルジュラックは、地動説の支持者! だから、月に行くより太陽に行くまでの時間が何十倍もかかるというところが、とってもいい感じ。そして天体も地球と同じような世界であるという考えで、生命の存在も地球に限定されていないなど、アブナイ方向へどんどん進んでいく。元素説や真空の存在といった、当時の最先端理論も続々と繰り出す。そして、月や太陽で冒険しながら、そこの住人達と神学、哲学論争を繰り広げる。
それらはアリストテレスからデカルトやパスカルまで縦横に引用して語られるのだが、自前の思想は無いのかいという気もチョットしてくる。でも待て、むしろ過去の、あるいは現在の思想の到達点を啓蒙するために、無神論にまで及ぶそれらを地上でやるのは危険すぎるために月や太陽の世界を舞台に選んだ、という見方も出来そうだ。そのどちらだったのかは分からないし、小説にそういう区分を導入すること自体が無意味であり、おそらくいろいろな意志が混然としているのだろう。
とにかく当時としては過激であろうし(たぶん)、「月」の続編に当たる「太陽」の出だしでは、月世界の経験を語る主人公は魔法使いとして火炙りにかけられそうになるくらい(作者自身も似たような経験をしたのかな)。しかしそれも先人の遺産とすれば、この時代は、ローマ法王の威光と、まったく独立して進む科学研究の流れが同居する不思議な世界ということになる。というか、もうこの時代では本当の宗教者は寛容であり、宗教の威光を嵩に着るだけの者が権勢を持っていただけのような気もする今日子のごろ寝。
オっと思うところは、デカルトなどの理論は宇宙の成り立ちといった自然科学的なところに最も注目していて、所謂哲学については実はあまり出て来ない。どうも時代が下るにつれて、本来の科学的な分野の評価が切り捨てられてきたようだ、それが日本だけの現象なのかどうかは分からないけど。科学として古びたからといって評価が下がるということにはならないはずだけどなあ。
鳥の国の話も、人間中心主義を笑いのめして痛快。手塚治虫の「鳥人大系」も思わせる。肝心の、月や太陽まで旅行する方法、これにも実はいろいろ先人の知恵もあったようなのだけど、想像力豊かで楽しめる。
生涯はいろいろあったのかもしれないけど、文人、思想家としては、なかなか骨太な人ですよ。
訳注も丁寧で、いろいろ理解の助けになって嬉しい。
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SFの曙。いや、私の持っているのは【月と太陽諸国の滑稽譚】なんですが、古すぎてISBNコードがないもんで。ロスタン作のシラノを読んだ者にはちょっとびっくりなほど、本物のシラノは反体制的で皮肉屋で、だからこそ面白い話です。でも、こんなんが肉親だったら「ちょっとあっち行ってて」って言うと思う。絶対。
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購入は一年以上前。岩波の旧訳に倣い『~旅行記』という題名を採用しているが、月世界や太陽世界での習俗解明よりも哲学談義や世界構造・原理の披瀝にウェイトが置かれている(特に月のほう)ので、異世界冒険譚みたいな内容を期待していると少々肩透かしを喰うかもしれない。キリスト教社会や精神に対する痛烈な皮肉は随所に見受けられるものの、スウィフト風の超攻撃的諷刺というほどでもなく、なかなかにユーモラスで笑いの要素も強い。
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17世紀前半のフランスの剣豪であり、作家、哲学者でもあった
シラノ・ド・ベルジュラックの空想科学諷刺小説、
「月の諸国諸帝国」と「太陽の諸国諸帝国」二編を収録。
滑稽な冒険譚だが、
往時のキリスト教会のあり方や宗教者の姿勢を批判し、
自由を愛し権力に反抗した当人の生きざまが反映された作品。
前者は語り手ディルコナ(Dircona=シラノ de Cyrano のアナグラム)が
火薬を使って浮揚する装置で月へ行き、
出会った人々と問答した後、地球に戻るまで。
後者は月世界旅行記を執筆して毀誉褒貶を招いたディルコナが、
幽閉された塔で飛行具を製作して飛び立ち、
太陽の周りを回る小さな陸地に辿り着き、紆余曲折を経て
死者の魂が安らぐ場所へ向かう物語(但し未完説あり)。
種村季弘『吸血鬼幻想』に引用された部分が
長年気になっていたので、確認のために購読。
「月の諸国諸帝国」でのエピソードで、
月の社交界における飲血と人肉嗜食の奇妙な習慣について。
【引用】p.157-158
「しかしこれでもまだわれわれのもっとも立派な葬式方法ではないのですな。
わが世界の哲学者の一人が精神の衰えを感じ、
寄る年波の氷のためにその魂の働きが鈍くなるのを感じるようになると、
彼は豪勢な宴会を開いて友人たちを集めます。
そして自分が自然にたいして暇乞いをするよう
決心するにいたった動機を開陳し、
もうこれ以上生き永らえても、自分の立派な行ないに
何ものかを付け加える希望も乏しいことを申し述べると、
みんなは彼を赦す、つまりは彼に死を命ずるか、
あるいはなお生き続けるようにと厳しく命じます。
そこで多数決によって自分の生死がみずからの手に委ねられると、
彼はもっとも親しい人びとにその日と場所を知らせます。
呼ばれた人は身を清め、二四時間、食を断ち、
ついでに太陽に犠牲を捧げてからその賢者の家にやってくると、
その高潔の士が装飾を施した寝台の上に身を横たえて待ち受ける部屋に入り、
つぎつぎと順番に彼を抱くのですが、
彼がもっとも愛する人の番になると、
彼はその愛人に優しく口づけしてから、その人を胸に抱き、
口と口とを合わせつつ空いている右の手で短刀を握り、
自分の心臓をひと突きにするのです。
愛人は彼の息が途絶えたと感じるまでは唇を離しません。
そして息を引き取ったと分かると彼の胸から刀を抜き取り、
自分の口で傷口をふさいでその血を呑み込み、
もうそれ以上は飲めなくなるまでその血を啜り続けます。
それが済むと別の一人がつづき、〔最初の人を〕寝台に運びます。
この第二の人が満腹になると、
彼はそこから連れて行かれて寝かされ、第三の人に場所を譲ります。
こうして全員が満腹すると、
四、五時間後に各人それぞれ一六、七歳の少女が当てがわれ、
彼らが恋の喜びに浸っている三、四日のあいだは
生のままの死者の肉を喰うだけで身を養いますが、
それ��いうのも、もしこの抱擁から何ものかが生まれ出れば、
彼らの友が生き返ったと確信をもてるからです」。
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物語としてはあんまりよく意味がわからない。
しかしこの時代(17世紀)によくもこんな破天荒なことを考えたものだと思った。
シラノおそるべし。
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天動説すらまだ定着していなかった時代に書かれた物語。四体液のバランスによって成立する医学、空の飛び方、月や太陽とは何か、物語の中で主人公がそれらについて議論しているのを聞くと、今ではトンデモ話にしか思えないものも多いが、時代の先取りをしていてはっとさせられるものもある。我々が信じている世界の仕組みや常識は、ただ論証によって成立しているだけのもので、今大真面目に語られていることも、遠い未来の人たちから見ればホラ話のように思われてしまうのかもしれない。