サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

e-hon連携キャンペーン ~5/31

hontoレビュー

ほしい本の一覧を見る

グランド・フィナーレ みんなのレビュー

132(2004下半期)芥川賞 受賞作品

予約購入について
  • 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
  • ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
  • ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
  • 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。

みんなのレビュー92件

みんなの評価3.1

評価内訳

87 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

小説の評価が「感動」でされるならば、この本の評価はもっと低いかもしれません。長女は読み終わってすぐ「わたしには早いや」と降参、わたしも話としてはイマイチかな、でも感覚がね

2005/08/18 21:02

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

変な拘りかもしれませんが、私は受賞作というものを原則読みません。読書家としての意地があります。自分で発見できなかったものを、おめおめと、といったバカなものですが。そのため、いい作品を読み逃しているかな、と思うこともあります。川上弘美さんや小川洋子さんなどは、その代表例ですね。
でも、その姿勢を変えようとは思いません。虚仮の一念、です。それに、既に自分が読んだ本が受賞することは、わたし的にはOKというか、やったー、ですから直木、谷崎、山本、三島、日本SF、日本推理、読売、毎日、野間なんていうのは問題無しなわけです。
その伝でいえば、雑誌掲載の作品が対象になることが多い芥川賞作品は、殆ど読むことがなく、むしろ受賞作家はそれ以降にいい作品を書きますから、焦る必要はないわけです。ということで、今回の本は、わたしが読むはずのものではなかったわけです。ではなぜ、読んだのか、この変節漢め!ということになります。
まず、たまたま図書館の書架を覗いていたら、この本がありました。しかも、大して読まれた形跡もないきれいな状態で、です。綺麗な状態、これはわたし的に好感度アップですね。しかも私は伊藤整文学賞と毎日出版文化賞をダブル受賞した『シンセミア』を受賞前に読んで、褒めちぎっているのです。私は評の最後をこう括っています。
「いやはや、おっそろしい、しかし、もしかすると自分たちの住む町も、一皮向けばこんなものかもしれない、そんなことを思わせる小説である。性の場面は、官能的というよりはスカトロジック。カバーの清々しさは、まさに詐欺かペテン。娘に読ませるわけにはいかない傑作。」
ですから、読む権利あり、ですね。それにカバーデザイン、さわのりょーたの装画がちょっと木版画風で、出版当時から気になっていましたし。ちなみに、装幀はstudio S&Dだそうです。
この本は、芥川賞を受賞した中篇と三つの短篇からなる作品集です。各々の分量とタイトルをあげておけば140頁弱の「グランド・フィナーレ」(群像)、20頁弱の「馬小屋の乙女」(新潮)、ほぼ10頁「新宿ヨドバシカメラ」(コヨーテ no.1)、同じく20頁「20世紀」(Sony Style)。全体で200頁のお手頃感。
で、中心はどうしても表題作になります。主人公は37歳になる私こと沢見で、彼は家庭内暴力がもとで二年前に妻のほうから離婚されています。DVということで、元妻は勿論、今年八歳になる娘の近くに寄ることも出来ません。田舎に戻り、母親の経営する文房具店の手伝いをしながら暮らす沢見は、事件が起きるまでは教育映画の製作会社で助監督をしていました。人目でもいいから娘に会いたいと思う私の愛と混乱の日々を描くのが「グランド・フィナーレ」。正直言って、芥川賞というよりはメフィスト賞のほうがお似合いではないかという面白さです。
寝過ごして、予定の駅で下車することの出来なかった男の「馬小屋の乙女」、なんというか、男性の体を東京に、山手線を下腹部に見立ててヨドバシカメラを特定すると、なんとも淫靡な「新宿ヨドバシカメラ」、Future、Traditional、Form、Arrangement、Feminineの五篇からなる、説明がしがたい「20世紀」。
特徴は、閉じないというか、暴力的なまでに唐突に終る話でしょうか。鉈でぶった切ったような、ズドンと切り離された物語の断面。余韻、というのは話が99%くらいまで終って、それでも閉じない場合をいうのでしょうが、阿倍の場合は75%、場合によっては60%くらいまで話が進んで、ドス。もっと長生きできたのにと、若死にをした人の未来を思うような理不尽さを感じます。それで納得させる、それがこの作家の力、と言っておきましょう。少なくとも、纏められなかった、といった印象は皆無、面白いです。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

自己批評としてのステレオタイプ

2005/02/02 09:46

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る

 阿部和重『グランド・フィナーレ』は、芥川賞受賞の際、某県幼女殺人事件との関連がメディアで報道されたが、まず確認しておきたいのは本作が間違いなく「小説」であり、現実の事件や文学賞とは離れたところで読むのがこの「小説」にふさわしい「読み方」だということだ。

 『グランド・フィナーレ』では、唐突に描き出される「わたし」の現状に続き、次第になぜそのような事態に至ったかが(事件のスキャンダラスさとは一線を画した)冷徹な自己反省の筆致で、時には暴力的なまでに理性的な他者の言葉によって、綴られていく。「わたしは自分自身がどんどん加速度的にクズになっているのがよく判った。」という一節に明らかなように、文字通り「最低」である「わたし」は、事態の推移や自分の言動・心理の酷さと凡庸さを十分すぎるほどに自覚し、その自覚を周囲の社会的・倫理的なまなざしの関係性の中に置き、その上で単なる「ダメな自分の垂れ流し」に陥ることなく小説世界の現実に耐え続けていくだろう。特に、長い台詞の圧倒的なまでの密度、「小説」としてのリアリティは、読んでいるこちらが熱くなっていくほどの迫力をもって書かれており、一見、今風のチャライ口語を織り交ぜたかに見える「1」の終わりのIの台詞(これは「2」にも作品全体にもこだましていく)などは、その最たるものである。文章全体としても、文法的な乱れと思われもする箇所がありながら、そうした文体の屈曲それ自体が緊張感をいや増しに増し、「わたし」の現状を浮かび上がらせつつ、小説世界を形作っていくだろう。

 『グランド・フィナーレ』の舞台は明らかに日本なのだが、時折差し挟まれる歴史意識は、本作あるいは作家阿部和重の位置を指し示しているだろう。「9・11」「ロシア」「バリ島」「ウガンダ」といった世界的な事件が、およそそれを口にするのがふさわしくないような人々によって、アルコールと薬の混交する場で語られていく。もちろん、これらは目立たない点景として書き込まれたものだが、ここに「現在」という歴史意識が垣間見られようし、「世界システム」の網目のなかで、テロも「わたし」の犯した事々も、スケールこそ異なれども、地続きの出来事して「小説」に併置されることで、「現在」を生きることの困難さえもが浮き彫りにされるかのようだ。

「去年のクリスマスからまる一年が経った今、カメラを手にしなくなったわたしは、言葉のみを使いこなして現実に介入しなくてはならない難儀な場所へ辿り着いてしまった。」

 こうして、ある意味でループを描いて辿り着いた「場所」で、「わたし」はやはりヒロイズムに溺れることなく冷静に事態を自覚し、言語化している。つまり、『グランド・フィナーレ』とは、「わたし」の「自己再生への(現代風)成長譚」として読まれるべき小説ではなく、むしろ、「カメラ」(=映像)から「言葉」へと、その現実との関わり方をスライドしていく物語なのだ。従って『グランド・フィナーレ』それ自体が言葉で書かれた「小説」として、この世界の「現在」と何らかの形で関わっていくのは当然である。そしてそれは、単に幼女殺人事件との関連を云々することではない。そうではなく、『グランド・フィナーレ』の読者もまた、「現在」という歴史的地平において、自らの「場所」を自覚し言語化できるかを問われているのではないだろうか?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

哀しみと、おかしみと

2005/04/01 00:24

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ツキ カオリ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 この作者の処女作、『アメリカの夜』は、あの作品の語り手である「わたし」によると、哀しい話のはずだった。確かに、あの作品の主人公、中山唯生は、アルバイト先の唯一の楽しみともいえた「読書」を禁止され、恋をした「ツユミ」ともうまくいかず、映画学校の同級生が監督した映画に「ツユミ」と共に出演するという口約束も反故にされ、散々な目に遭うのだった。だが、中山唯生のふるまいには、時折、ある種の「おかしみ」が、感じられはしなかっただろうか。ツユミとの共演に備えて、公園で、ひたすら体力づくりに励む中山唯生。その様(さま)が真剣であればあるほど、公園でラジオ体操をしながら、彼を見ていた人達がきっとそうであったように(?)、読んでいる我々も、思わず頬が弛(ゆる)んでしまったのではなかっただろうか。

 さて、この『グランド・フィナーレ』には、作者のそれまでの作品の「キーワード」が数多く見受けられる。例えば「神町」ということであれば、『シンセミア』もそうだし、『ニッポニア・ニッポン』の鴇谷(とうや)少年も、かなり端役ではあるが、作中に登場している。そのような直接的な関わりもさることながら、私には、本作からは、前述の、『アメリカの夜』的匂い、が漂ってきたように感じられたのだった。

 この作品の主人公、沢見=わたしは、東京で教育映画の製作に携わっていたが、知人の影響で、少女のヌードに、趣味をもつようになった。「わたし」は、そのことを妻に知られてしまったため、離婚せざるを得なくなったばかりか、職も失ってしまう。故郷の山形・神町へ帰った「わたし」は、友人を通じて、せめて娘の誕生日には一目会いたいと上京するが、その願いは叶わなかった。打ちひしがれて故郷に戻った「わたし」に、小学校の体育館で開かれる芸能祭で、演劇発表する小学6年生・女児2人の、「演出」をしてほしいという話が浮上する。

 『シンセミア』ほど陰惨な話ではないにしても、本作は、まさに「哀しい話」である。いや、「哀しい話」というよりも「ひどい話」だと言えよう。「わたし」は、周囲の人達から、沢山「ひどい」ことを言われたりされたりするが、それは、「わたし」が、周囲の人達に対して、沢山「ひどい」ことをした報い、だとも受け取れるのだ。だがこの話は「ひどい話」であると同時に、『アメリカの夜』がそうであったように、ある種の「おかしみ」も伴っているのだ。例えば、娘の名前は千春というのだが、本作で「わたし」は、会える可能性が皆無に近い、目の前に居ない娘に向かって(心の中で)「ちーちゃん」「ちーちゃん」と呼び続け、切ない心情を吐露するのである。「わたし」の心情を聞くのは「ちーちゃん」だけではない。ぬいぐるみの「ジンジャーマン」も貴重な話し相手の一人だ。この、ぬいぐるみは、かつて「ちーちゃん」にプレゼントしたものだった。「ジンジャーマン」は、「わたし」の質問に即さないとはいえ、「やあ、綺麗なお星さまだね」などと、粋な答えを返すのである。「少女のヌード撮影」という暗い要素を引きずった話は、「女児たち」を取り巻くファンシーな小道具たちによって、深刻すぎ、にはならず、むしろ「奥行き」を生んだ、のである。

 タイトルは『グランド・フィナーレ』だが、この「フィナーレ」には、沢山の意味合いがあるであろうが、大筋で、2つの「フィナーレ」が含まれているように思う。1つの「フィナーレ」は、「女児2人の、小学校生活最後の、芸能祭の演劇発表」である。2つ目のフィナーレの意味は、ぜひ、読んで確かめていただきたい。

 『シンセミア』を再読した直後だけに、「重苦しい話」は覚悟していたのだが、いい意味で裏切られた、本書だった。

 芥川賞受賞を機に、この作者は、どこへ向かうのだろうか。

 
  

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

2005/02/16 16:07

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/02/27 01:36

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/02/24 23:54

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/03/01 12:44

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/03/24 11:38

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/04/19 23:51

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/05/08 22:17

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/06/11 06:28

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/07/13 03:36

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/10/31 13:44

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/11/13 10:58

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2005/12/31 16:28

投稿元:ブクログ

レビューを見る

87 件中 1 件~ 15 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。