紙の本
数々の評論でお馴染みの山崎正和氏の1970年代から1980年代にかけての我が国の大変貌を分析した書です!
2020/08/07 10:49
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『室町記』、『病みあがりのアメリカ』、『芸術・変身・遊戯』、『海の桃山記』、『不機嫌の時代』などの評論でお馴染みの劇作家であり、評論家であり、また演劇研究者でもある山崎正和氏の作品です。同書は、石油危機で明け、不況と経済摩擦で暮れた過渡期の1970年代から、新しい個人主義と成熟した「顔の見える大衆社会」に進む1980年代にかけて大変貌を遂げる日本の同時代史です。消費文化論ブームを惹起した、イメージ豊かな日本の現状を分析しています。今となっては少し古いですが、当時の社会を客観的に知ることができる名著です。同書の内容構成は、「第1章 おんりい・いえすたでい1970代」、「第2章 <顔の見える大衆社会>の予兆」、「第3章 消費社会の<自我>形成」となっています。
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書評を書かなければいけないので二回通読しました。
二回目は三色ボールペンでがんがん線を引いて。
本を汚すのは嫌なんですけど、書評を書くときには後で探しやすいように泣く泣く線を引くのです。
消費ということに対しての常識を、論理的に打ち破ってくれます。1987年が初版なのに今読んでもなるほどなーと納得させられます。
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人間にとって最大の不幸は物質的欲望さへ満足されないことであるが、その次の不幸は欲望が無限であることではなくて、それがあまりにも簡単に満足されてしまうこと。
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家庭教師の授業のために読んだ一冊。
面白かった。
読む前は「消費社会の美学」というサブタイトルから
苦手な経済論がメインなのではとヒヤヒヤしたけれど、
そこに囚われない
視点の幅広さ・物事の捉え方の多面性など、
素晴らしいの一言。
題材があまり興味のない分野だったので★5には至らなかったけど、
それでもここまで面白く読める筆者の力量に感服。
筆者が賢いだけでなくバランスの取れた感覚の人であることがよくわかります。
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http://shiibar.blogspot.com/2011/01/blog-post_31.html
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お互いに「顔の見えない集団社会」から脱産業化社会の流れの中で、職業上の仲間に狭められていた人間関係から「顔の見える大衆社会」への移行、そして、自立した個人による個人主義の確立を期待ととも予兆している。
「顔の見える大衆社会」との表現は最近のソーシャルメディア系の本のような表現ですが、この本が上梓されたのは1984年です。この後86年から91年まではバブルそして失われた20年?と続いて今日に至っているようです。良いか悪いかは別にして今でもとても違和感無く読める良書です。
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環境問題が発生して以降というもの、大量生産・大量消費型の社会を、どう克服していくのかに、多くの人が頭を悩ませている。しかし大半の答えは、「でも大量の富を享受したいのが本心でしょ」というものか、逆に、「つつましく生きるのが本当の人間らしさ」というものであった。貧相には暮らしたくないから、だいたいは、前者の意見に傾く。そうでない形での克服の筋道を示してくれたのは、見田宗介と山崎正和の2人である(方向性は全く逆であるが)。
本書の前半は70年代論で、後半はその時代に現れた消費社会を、新たな視点から肯定する議論。
収穫を目的として農作物を作るのは生産であるが、育てることの楽しみを目的とする農作業は消費である。この場合、消費しながら、なおかつ生産が可能となる。
あるいは、大量生産・大量消費型の意識では、例えば食事や読書や、「よりたくさん」、「すばやく」、消化し吸収し排泄することが美徳とされる。その作業は、やがて機械に等しくなる。
しかし、茶道のように、手間隙をかけて、たった1口の茶を飲む、あるいは珍しい料理を時間をかけて食べる。読み終えるのを惜しみながら、一冊の古典をじっくりと読む。そういう消費の仕方もある。ここで消費されるのは、お茶でも本でもなく、時間である。
そして重要なのは、ものを消費することへの欲望には際限はない。節操もなくなる。それに対し、時間の消費は、豊かな満足感だけを残す、と結論されているところである。
環境問題やオイルショックによって生まれたこの議論は、バブルによって、すっかり忘れ去られてしまった。というより、誤解され、高級な絵画を買いあさったり、金のかかるカルチャーセンターに通ったりすることが、新たな消費社会の生き方だとされてしまった。70年の時点から考え直すことの重要性を、この本は教えてくれる。どれだけ大量に消費するかに頭を悩ますより、自分にとって何が至上の満足感をもたらす消費なのかに時間を費やす方がいい。それに気づきさえすれば、倹約とか節電ということは、おのずと達成されてしまう。
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ちょっと文章に旧字体が混じっているのが
読者に与える印象、ということで
マイナスポイントの様に思えました。
この本は今読んだほうがすごくいいと思います。
消費社会というものの本質が
つかめるだけではなく、なぜ人というのは
消費という行動に走るのか、
その心理までも解説しているので。
学ぶ、というだけでなく
これは行動抑制という意味でも
興味深い本だと思いました。
特に今読むとある害悪とされている
ある事柄への消費がいかに
人の心理をついていて、それにつかることが
バカバカしくなるかわかるはずですから。
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「追いつけ、追い越せ」の戦闘的な掛け声のもとで一心不乱に駆け抜けていった1960年代の日本と、高度成長が終わり目標を失った70年代の日本。著者はここに国家の青年期から成熟期への移行を見る。明確な目標を定めてそれを効率よく達成しようと邁進することは、見方によっては遊びがなくて機械的とも言える。それに対して、明確な目標を失った時代には、一杯のお茶を時間をかけて飲む茶道文化のように、目的の達成そのものよりも目的を達成するまでの過程を時間をかけてゆっくり味わう余裕が生まれたことをも意味する。著者はこれを、産業社会において剛直に信条を貫く生産する自我(硬質の個人主義)と比較して、脱産業社会における消費する自我(柔らかい個人主義)として肯定的に評価し、顔の見える大衆社会において社交を通じて自らの生きがいを探求していく時代に入ったとする(全体として、効率主義の導入がとめどなく進んでいる文化領域において、「である」価値の復権を促した丸山真男の論考を想起させるものがある)。
著者のこの仮説が当たったかどうかよりも、インターネットの普及(時間短縮という意味で超効率主義であり、かつ顔の見えない大衆社会を再登場させた)は、こうした議論を一撃で吹き飛ばしてしまうくらいの社会的なインパクトがあったのだなという思いを新たにした。
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消費社会への移行による人びとの意識の変化に、いち早く注目した本です。
人間の消費行動は、効率主義の対極にある行動であり、目的の実現よりは実現の過程に関心を持つ行動だと著者は言います。そして、生産主義が同じ規格で大量の商品を生み出し、「顔の見えない大衆」のに対して、消費社会では人びとはみずからのアイデンティティを求めて多元化・個別化していくという見通しが語られます。
さらに、目的志向の効率主義に立つ「生産的人間」から、満足を引き伸ばすことに充足を覚える「消費的人間」への変化に応じて、芸術や社交を重視する社会が生まれつつあることを論じています。
本書の先駆性は疑いようがありませんが、消費社会が大衆のセグメント化を帰結するといった問題についてまだ目が向けられていない点など、今日から見るとやや楽天的にすぎるようにも感じてしまいます。
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[配架場所]2F展示 [請求記号]080/C-5 [資料番号]2003115640、2003115641
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[ 内容 ]
石油危機で明け、不況と経済摩擦で暮れた過渡期の70年代から、新しい個人主義と,成熟した〈顔の見える大衆社会〉に進む80年代へ。
10年毎に大変貌を遂げる日本の同時代史。
消費文化論ブームを惹起した、イメージ豊かな日本の現状分析。
吉野作造賞受賞。
[ 目次 ]
第1章 おんりい・いえすたでい’70s―ある同時代史の試み(同時代史を書くことの意味;近代化百年の終り;集団化社会の変質;「誰かであるひと」の要求;柔軟な個人主義の萌芽)
第2章 「顔の見える大衆社会」の予兆(脱産業化社会の第2段階;目的探究の社会;「顔の見えない社会」の歴史;消費文化の時代に向けて)
第3章 消費社会の「自我」形成(二つの先入見;消費の概念の昏迷;欲望の構造;消費する自我;大衆の変質;硬い自我の個人主義;柔らかい自我の個人主義;「無常」の時代の消費)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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素晴らしい本であることは疑いがない。ここで提起されている70年代に萌芽があるとされる事態の多くは、2010年代の今からすると、もはや確定的な事実とされているような感すらある。いくつか彼の見立てから時代がずれてしまったところがあるとすれば、
・会社で過ごす時間は結局減らず、むしろ労働は強化されている。物質的に豊かになって代わりに精神的な問題に向き合うようになるだろうという危機意識は、むしろ楽観的すぎることが露呈したと言ってよい。物質的な問題と精神的な問題と量が重要なのだ。
・定番のライフコースがなくなることによる多様化とか、抱える問題の個人化といったことは起きた。だが、意外と緩やかであったし、事実として差が生じているということと、その差異が認識されおおっぴらに語られるということは別である。差異を尊重するということがないまま、「高齢化により社会から世代論が薄まり、多元的な価値を認める気風になる」というのは残念ながら当てはまらなかった。やはり通説通り保守化が進む。自身がネットよりマスコミみたいに言っちゃうのはなんというか加齢の難しさを感じる。
・定型的な需要に応えるのではなく需要自体を創出するように生産の形態が変わるというのは、まさにだった。その不定形の要求に応えるために生産が消費の様相を帯び、逆に消費の側にも生産の要素が含まれるようになる、その両者において集団性=社交が復権するというのは当てはまった。しかし、それは地域へと帰っていく流れになるのではなく、むしろインターネットを媒介に実現した。
いずれにせよ、よく整理された図式は定点観測として、踏まえるべきスタート地点として価値を持ち続けるだろう。
後半の生産と消費に関する理論も非常に面白かった。だが、いくらか理論的すぎるような。
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『WIRED』日本版・前編集長の若林恵が「一種のソーシャルネットワーク論として改めて読み直してみると面白い」と書いていた一冊。
どの部分が面白いのか、なかなか理解できずに読み進めていたのだけれど、本の中盤あたりからそれは来た。人が消費に魅せられてしまう消費社会において、如何に自我を保ち、形成するか。若林が指摘したのは、多分このあたり。ソーシャルネットワークが消費者心理をうまくついて、アディクティブな状態を作り出そうとする一方、消費者はそれに抗って自我を形成するのか、あるいは屈するのか。
1984年に世に出た本が、2019年でも輝いて見える事実にひれ伏す。
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70年代から80年代へ大きな変貌を遂げる社会を、消費という言葉をキーワードに考察した名著。
半世紀を経た現在、著者の指摘は更なる加速をし、暗い未来の到来を予感させる時代になってしまった。