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作者の意図かもしれませんが、若干わかりにくく表現されているような気がした。学びの主体性とは、人間は自分が学ぶことのできることしか学べない、学びたいことしか学べないということ。この主体性はコミュニケーションを通して個人が見つけた興味から生まれる?興味を持つためには、対人が必要であり、なおかつ対人が謎であるとよい。そのような対人がいる限り、学びは無限に開かれている。大人は子どもから見たら謎な存在である?だから、「先生はえらい」のである。以上が自分なりの解釈!
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面白い本。
学ぶと話し合うは同じことか?という問いからいろいろ話が進んでいく。
知らないことを知ってそうで
知りたいって思う相手が先生なのかな。
(↑この解釈はあってるかな。)
もう一度読みたい本
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『コミュニケーションは常に誤解の余地があるように構造化されている。』とのこと。面白い。そのことが、先生はえらいことと、密接に結びついているんですって。良い本だった!
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学習とコミュニケーションの話。
題名と内容の相関は薄い。
この人のブログたまにみてます。
お名前たつきさんなんですね。
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【12/150】私もタツラーになってしまったかも。『下流志向』にひきつづき、内田先生の本を読むことになった。古本屋で手に入れた本でした。中・高生に向けての本だったので、さくさくっと読めたが、果たして中・高校生はどれくらい理解できるのだろうか?
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中高生向けに書いているだけあって非常にわかりやすい。
なにより文章がお上手で読みやすい。
学ぶとはいかなるものか。
コミュニケーションとはいかなるものか。
誤解こそがすべての源。
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内田樹さんの文章は癖になる。インターネットというメディアを活用しながら、自己生成していく内田的思考はとても魅力的だ。エマヌエル・レヴィナスと合気道と世の中に対する見識が微妙にブレンドした発言が、深く、高度な、処世術となっているところがいい。人間は迷ったときには、理論ではなく、マニュアルが必要だ。年とってくると、皮相なマニュアルではくいたりなくなってくる。年齢相応な、死生観を持つ、深みがありながら、実践的なマニュアルが必要になるのだ。内田さんの本にはそういう香りがある。そうでありながら、どんな発言にも彼独特のヒネリ。一定の根源性をはらんでいる。つねにものごとを根源的に考えるという姿勢が、対象物を問わず横溢している。
その彼が、ちくまプリマー新書という中学生や高校生対象の新書シリーズで、先生について書いた。
教育の現場の荒廃等について叫ばれること久しい。そういった主張のある部分は正しく、ある部分はとんでもなく間違っているのだろう。実は、あまりそこの部分に興味はない。紋切り型で語られる教育には、何の興味ももてない。そんな時、内田さんはどのような切り口で語るのかは興味深深だった。
「いまの若いひとたちを見ていて、いちばん気の毒なのは「えらい先生」に出会っていないということだと私には思えたからです。」
冒頭、意外に、あたりまえのところから来たなと思った。ただ、内田には騙されてはならない。そんな、あたりまえの紋切り型で終わるはずがない。
ここらあたりから、内田の根源的思考がはじまる。内田は先生をこう定義する。
自分がえらいと思った人、それがあなたの先生である。
こういった逆転から、この本は、人間が誰かをえらいと思うのは、どういう場合かという哲学的思考を展開しているのである。
先生をえらくするのは、学ぶ側の生徒の思いこみの中にあるというのだ。じゃあ学ぶということの本質は何かと内田はつきすすむ。
「ある種の知識や技術を、それを所有しているひとから、何らかの対価と引き換えに授与されること」という普通の定義を彼は否定する。
自動車を運転する技術を学ぶ場合を具体例として彼は立論する。
「自動車運転技術や交通法規はまちがいなく有用な知識や技術です。それを教授してもらったのに、どうしてみなさんはそれを与えてくれた人を尊敬することができないのでしょう?」
じゃあ、FIドライバーのシューマッハーにアクセルワークを教わった場合と自動車教習所で同じ技術を教わった場合ではどうか。なぜ人はシューマッハには敬意を持つ可能性が高いのか。
「二人の先生はどちらも、あなたに自動車運転技術という同じものを教えました。でも、あなたがそこから学んだことが違います。先生は同じことを教えたのに、生徒は違うことを学んだ。」
このあたりは、調理場という戦場の斉須さんや、又五郎の春秋の中村又五郎のような素晴らしい教師の特徴とつながってくる感じがする。
シューマッハは、技術は定量的なものではなく、完璧な技術というものに人間は達すること��できない、この道を甘くみちゃだめというメッセージを発しているというのである。
「ほとんど同じ技術を教えていながら、「これができれば大丈夫」ということを教える先生」と、「学ぶことに終わりはない」ということを教える先生の間には巨大な「クレヴァス」があります。」
こういう、わかりやすい例を踏まえながら、彼は、学びの主体性ということを語る。
「学ぶということは創造的な仕事です。それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。だからこそ私たちは学ぶのです。私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。 私たちが先生を敬愛するのは、先生が私の唯一無二性の保証人であるからです。」
自分のかけがえのなさを確認するために、自分は学ぶ。そうなのである。いくらお金儲けや、出世のための技術論があっても、どこかで、そういったものは学び続けられなくなるのである。時折は、そういった寄り道はあるのだが、人間が生き延びるために必要な学びは、自分はかけがえがない存在だという確信を得るためなのだ。40代後半になって、つくづく感じるのはそういうことだ。
傍から見れば、鼻持ちならないほどの自信家だった。でもこういった自分に対する自信が多くの困難の中でぼくを支えた。人の親なって初めて、親がくれたものがわかった。それは根拠のない愛情だった。特に母親の親ばかとしかいいようのない根拠のない、息子に対する自信が僕の中の自分に対する完璧な肯定感につながった。親になって見ると無根拠性というものがそれほど容易ではないことがわかってくる。条件付きの愛情というものがかなり手強い代物だからだ。
芹沢俊介は「ついていく父親」という本を書いた。学校の崩壊と家族の崩壊を、資本の論理が社会のすみずみまで貫徹した結果であるという分析は、かなり説得力があった。
彼は、現代の家族をめぐるさまざまな問題の根源にこの条件付の愛情があるとする。そして、多くの家族問題を超えていくためには、こういった家族の市場化のような状況に対抗できる家族の論理の必要性を提起する。
「家族のエロスとは・・・家族の「受けとめる力」のことである。受けとめられているという感じを持てない子どもは、家庭に自分の居場所を見いだすことができない。子どもが居心地のよさを感じることができないような家庭は、母にとってもまた座り心地がいいはずがないだろう。
母親が子どもを自分の支配下に置こうとしたり、子どもの教育にのめりこむ姿は愛情ではなく、まったく逆に家族のエロスが母の内部で減衰したり枯渇したり、停滞したりしていることの現れである。
母の内部で家族のエロスが危機に瀕している要因の少なくとも半ばは父に帰せられる。性的情愛を核にした夫婦の紐帯と慈しみあいが作る安定的な親和性が家族のエロスの基盤だからである。」
資本あるいは企業社会の論理が家族の中に無批判に注入された形態を芹沢は教育家族と呼ぶ。その中ではあらゆる行為が教育的価値によって測定されることになる。父親は家庭の外の社会でその生産性によって測定される。家庭において、教育的価値が同様な働きを果たす。性別による分業の中で、子どもを教育的価値の中に追い込む役割を母親が果たすことになり、そういった社会装置としての役割を果たせば果たすほど、母親の家族のエロスは枯渇していく。女としての性的な枯渇と、母親としての無根拠性を失う中で、最も弱い子どもは「炭鉱のカナリヤ」よろしく、悲鳴をあげ、居場所を失い、母親もからからに乾いていき、父親は呆然と立ち尽くす。
根拠のない愛情によって育ち、自分の意味を確認するための「学び」のために、先生と出会う。それは確率的に低い、稀な幸運なのだろうか。マスコミが偏執的に繰り返す家庭崩壊の報道を見るにつけ、そんなことを思ってしまう。自分を市場価値、他人にとっての価値で測定されやすくするための努力だけが学ぶことだという貧しさ、それが、今の教育のつまらなさ、たまらなさのような気がする。家庭と職場と学校がよってたかって、子供たちを商品に変えていくというストレスきわまりない光景。
そんな時に、内田のくりだす先生論は、極めて哲学的に、その状況を一度にひっくりかえすようなインパクトを持っている。こういう身体性につながるような、根源性がマニュアルとしての内田の魅力なのだ
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プロとは、これでいいという限界がない
完璧な技術に達する事は出来ない、つまり「これでおしまい」という到達点を作るのではなく「おしまいということはない」という到達点を消すのがプロ
学ぶとは自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認する事だ。だからこそ、解釈には色々なものがあり、正解というものは存在しえない。してはいけない。
学ぶ主体が「自分はその師から何を学ぶのかを師弟関係になる前までは言えない」時に初めて師弟関係は成り立ち、それであればどんな人であれ我々は学ぶ事が出来る
対話において第三者が語り出す時が、つまり自分が今まで話した事ないような事を相手とのやり取りによってしている時が一番白熱する
コミュニケーションしたいと思う時は、なにかよくわからない事を相手が知っているなと思う時である。
学ぼうとして相手がどう出るかを待っている間は、常に相手に先手を取られるという事。つまり、敗北を意味する。
コミュニケーションにおいて、原因と結果は逆である。相手と話して初めて、これが自分の相手の言いたかった事だったのかと気付く。最初から相手の言いたい事がわかるはずがない。だから、映画のインタビューなどで若い記者が監督に「この映画を通じて監督が伝えたかったメッセージはなんですか?」というのは馬鹿げている。
理由1 監督自体も何か分からず作ったから(=原因と結果は逆)
理由2 伝えられるものは受け手によりけり、そして視聴者の数だけ解釈はある。だからその答えを知っているには尋ねた記者自身である。
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個人的にはとても好感の持てる本。読後はなんだか幸せになれます。新書なんだけど、小説を読んだ気分。学生の頃、感覚的に感じていた、良い先生と悪い先生との違いが、著書を読んですっきりと理解できました。
誰でも学生の頃にお世話になる学校の先生を対象に、先生とは何か、学ぶとは何かを教えてくれます。それも説教っぽくなく、語りかけるように説明してくれます。著書を読むと、大多数の読者は、これまでの先生像を180度逆にひっくり返されると思います。先生は答えを与えてくれる人ではなく、謎を与えてくれる人なのだと。
それを分かり易く例えているのが、自動車の運転を教える先生として、教習所の教官とF-1ドライバーを比較して説明しています。著者は、記憶に残り、尊敬できる「先生」は、誰が生徒であってもF-1ドライバーになると説明しています。単に-1ドライバーが有名人であるような理由ではなく、もっと本質的な理由を挙げています。
教習所の教官は、(運転の技術はここまでできればいい、)「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は(運転の技術に)「おしまいということはない」として到達点を消去してみせます。
つまり、尊敬できる「先生」とは、知識を単に教えるのではなく、知識にはこれさえあればいいというレベルは無く、知りたければもっともっと自分で学習しなさいという、勉強に対する姿勢を教えてくれるのです。それは、生徒側の一方的な誤解であっても構いません。自分だけの「先生」を見つけてしまえば、努力をする仕組みができることになります。
思うに、自分自身の学生生活を振り返ってみると、魅力的な先生というのは、画一的な答えを出してくれる先生ではなく、一見、こいつ何を考えてるのか分からないような、近寄りがたいオーラを持っている先生でした。ただし、そんな先生の方が、実は困った時に頼りになったりします。
学生時代を通り過ぎた社会人でも、人生の「先生」を見つけることは必要だと思います。「先生」を見つけることで、人生をよりよくしようと努力できるし、歩みを止めずに進むことができるはずです。
著書は先生論を超えて、他人とのコミュニケーション論までに発展させています。「先生」だけでなく、他人に対しても、未知な部分を追い求めることでコミュニケーションが生まれるきっかけになります。コミュニケーションは、「知っていること」を伝達するのではなく、「知らないこと」を伝達するのです。
著書に魅力を感じるのは、おそらく、まとまりのない話の中で、「知らないこと」が多くの箇所に現れて、それによって、もっと知りたいと読者の気持ちを掴んでいるとこだと思います。著書がまさしく、著書の内容を体現していることに、読者は著者を「先生」と感じてしまいます。
目次
先生は既製品ではありません
恋愛と学び
教習所とF‐1ドライバー
学びの主体性
なんでも根源的に考える
オチのない話
他我
前未来形で語られる過去
うなぎ
原因と結果
沈黙交易
交換とサッカー
大航海時代とアマゾン・ドットコム
話は最初に戻って
あべこべことば
誤解の幅
誤解のコミュニケーション
聴き手のいないことば
口ごもる文章
誤読する自由
あなたは何を言いたいのですか?
謎の先生
誤解者としてのアイデンティティ
沓を落とす人
先生はえらい
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頁数も少なくて、初めて内田樹さんの本を読むには正解だったかな。
確かに、と思うところが何か所もあって、色々と参考になった。
一度だけじゃよくわからなかったことも多いので、何度も読み返したいな。
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コミュニケーションの幅は誤解の幅に拠っている。逆説的だけど、きわめて説得力のある仮説を展開している。教育を受けるという動詞はあっても、教育するという動詞は原理的には、存在しないということを裏づけが本書を読むことで確信に変わった。人は、意味あるものに、意味を見出すのではなく、意味あると思うことに意味を見出すのだ。
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これは文句なく☆5の評価に値する。
無言交易、コミュニケーション論、誤解の構造、学びの構造と豊穣性などなど、「高校生向け」に分かりやすく書かれた本。
高校生向けの本を賞賛する大学生というのも残念な気がするけど、しかしだからこそ、この本はより多くの人を内田樹という人物に「引き込む」良書ではないかと思う。
モンスターペアレントをはじめより多くの人に、教育というものを考える哲学の1つとして読んでほしい。
心からそう思える1冊でした。
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先生について話すのかと思いきや、そんなにそういう話じゃなくて、コミュニケーションの話が印象的。
もう一度読みたい本。
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ちょっと何が言いたいのかよくわからなかった。
全体的にはコミュニケーション論みたいなものだろうか…。
ウチダ先生の本で一貫して書かれている「贈りもの」論が根底にあるのはなんとなくわかった。
とか、この本について「なにか意味があるはずだ、理解できるなにかが…」と考えている時点で、僕とウチダ先生の間で師弟関係が成立するらしい。一方的ではあるけれど。
ご一読あれ!
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[ 内容 ]
「先生はえらい」のです。
たとえ何ひとつ教えてくれなくても。
「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。
だれもが幸福になれる、常識やぶりの教育論。
[ 目次 ]
先生は既製品ではありません
恋愛と学び
教習所とF‐1ドライバー
学びの主体性
なんでも根源的に考える
オチのない話
他我
前未来形で語られる過去
うなぎ
原因と結果
沈黙交易
交換とサッカー
大航海時代とアマゾン・ドットコム
話は最初に戻って
あべこべことば
誤解の幅
誤解のコミュニケーション
聴き手のいないことば
口ごもる文章
誤読する自由
あなたは何を言いたいのですか?
謎の先生
誤解者としてのアイデンティティ
沓を落とす人
先生はえらい
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