紙の本
デタッチメントの哲学
2005/05/22 16:49
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
上野修さんの『スピノザの世界』は、スピノザの異例・異様な思考世界をとても上手に、コンパクトかつ無味乾燥に解説している(これは悪口ではない)。「『エチカ』のこのあたり[第5部の最後、定理21から42]を読むといつも異様な緊張を感じるのだが、きっとそれは、証明している自分自身が証明されているという特異な必然性経験をしてしまうからだろう」とか「このあたり[同定理32の系]に来ると『エチカ』はいったい何ものが語っているのかわからなくなってくる」とか、スピノザ小旅行のガイドブックとしては最高のフレーズだと思う。
考えているのは自然(事物)であって、私(精神)ではない。──本書のキモは次の文章のうちに凝縮されていると思う。《スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まなければならない。》
講談社の『本』5月号に掲載された短い文章(「スピノザから見える不思議な光景」)に、上野さんは、スピノザの哲学は「人間」的なものの籠絡からの静かなデタッチメントを教えてくれるといった趣旨のことを書いている。これもまた、スピノザを語るのに最高のフレーズだと思う。これに匹敵するのは、「神に酔える人」と呼んだノヴァーリスの言葉か、ジルソンの『神と哲学』に出てくる次のフレーズ。「スピノザの宗教は、哲学だけによって人間の救済に到るにはどうすればよいかという問に対する、形而上学的に百パーセント純粋な解答である。」
一つだけ気になったのは、たとえば『エチカ』第2部でデカルト由来の心身合一の問題がいとも早々と解決されてしまうことにふれた箇所で、「…「物体B」の観念になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか」と突然会話風の表現が出てくるところ。これと似た表現が「あとがき」にも出てくる。「…それら観念がみな無限に多くの私の(?)並行する精神であるということになっちゃうのではないか」。これはちょっと、デタッチメントの雰囲気にそぐわない。
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難解なスピノザの思想を紹介してくれる、
とても優れており便利な一冊。
ニーチェにも通ずる、汎神論=神あるいは自然という観念は
一種の唯物論的解釈だと感じた
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17世紀の哲人スピノザの入門書。
アインシュタインにも大きな影響を与えた人です。
とっても読みやすく書かれています。
いつも哲学書は新たな視点をくれて好きです。
でも、いつも理解できていない気がする。
そのうち再読するかな。
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'91年に放送されたNHKスペシャル「アインシュタインロマン」の中で、アインシュタインの言葉として「私が信じる神は、“スピノザの神”だけだ」と紹介されていて、「スピノザの神ってなんぞや」と訳も判らず書店で文庫の『エチカ』を買ってきたのだけれど、そのあまりにも幾何学的な記述に挫折してのち幾星霜、図書館でたまたま本書を見掛けて懐かしさから手に取ってみた次第。かつて放り出した『エチカ(倫理学)』を、著者の独擅場の口実にするのではなくあくまでスピノザに寄り添う形で読み解いていく。単純に「神即自然」と訳され一人歩きした言葉が意味する実のところの認識ははっきり言って驚愕ものだ。まるで理論物理学ではないか。こんな認識に立っていたらそりゃあ幾何学的に記述したくもなるだろう。先だって囓ったデカルトのおかげか“意識”と“延長”の概念も割としっくり馴染め、それらが遍くおよそこの世の全てを包括する唯一の実体(=神=自然)の属性とする汎神論、俗っぽいレベルで解釈すれば依存心が強いともとられかねない、けれど順を追った理詰めの証明でそうとしか認識しようのない認識は、本当に心底からその立場に立つ事ができればスピノザ自身が言うように「真の幸福をもたらす」ことになるだろう。当の昔にどこかへ行ってしまった『エチカ』に、再び取り組んでみようと思わせてくれる良書だった。
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われわれはあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである。(『エチカ』第3部定理9の備考)
・・・・・・『スピノザの世界』30頁
驚いた。ここまで、自分の考えに合った哲学者は初めてだ。
幾何学的記述による哲学というアプローチ。
生への強い肯定。
徹底した利己主義によって導かれる功利主義的な最高善の解釈。
自由意志の否定。(だが、その否定も虚無的なものではない。)
汎神論。(宗教的であり、無神論的でもある。)
実に面白い。
どんな哲学も、証明不可能な仮説に過ぎない。
だが、スピノザの哲学はかなり実用的な部類に入るのではないだろうか。
また、引き込まれるように読むことができたのは、著者上野修の文体や、ところどころに入るスピノザへのつっこみが親しみやすいものであった為だということを強調しておきたい。
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[ 内容 ]
スピノザの思想史的評価については多くのことが言われてきた。
デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係。
国家論におけるホッブズとの関係。
初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。
ドイツ観念論とスピノザ。
現代では、アルチュセール、ドゥルーズ、ネグリ、レヴィナスといった名前がスピノザの名とともに語られる。
スピノザはいたるところにいる。
が、すべては微妙だ。
たしかにスピノザについてはたくさん言うべきことがある。
そのためにはスピノザの知的背景と時代背景、後代への影響、現代のスピノザ受容の状況を勉強する必要がある。
けれども、まずはスピノザ自身の言っていることを知らなければどうしようもない。
そのためには、スピノザがどこまで行ったのか、彼の世界を果てまで歩いてみるほかない。
彼が望んだようにミニマリズムに与し、彼の理解したように事物の愛を学ぶほかないのである。
[ 目次 ]
1 企て
2 真理
3 神あるいは自然
4 人間
5 倫理
6 永遠
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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これが一番読みやすいスピノザ本なのかな? どっちにしろ、スピノザについて大学受験生にわかりやすく話したい人にはおすすめ(そんな必要のある人はほとんどいないでしょうけど)。
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難しいいいいい('A`)
結構間を空けながら読んでしまったのがそもそも悪かったのですが、ただぼーっと読んでいると全然内容が頭に入ってこなかった……やはりこの手の本はなかなか読み慣れないとあらためて自覚させられた次第。いつかリベンジしたい。
こんな自分が言うのも説得力がないですが、一つの章のページ数はそれほど多くなく、章毎に読んでいくとすればそれほど苦にはならないと思います。ただ内容はやはり難しく、意識的に「読書」をしなければ内容を読み飛ばしてしまいます。そう、自分のようn(ry
後半に書かれた自由意志の否定、物事(人)の許し方、永遠の相のもとの観念について、自分は特に興味深かったです。
いつか自分も、正しく自己肯定してやれる時が来たら良いのですががが。
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いやー、面白い!
読んでる途中だが、いろいろメモっとく。
方法は真理から自生する。
内的標識⇔外的標識。
「2 真理」が理解不能。
実体(りんご)、様態(色つやが異なる)、属性(りんごをして他の果物から一線を画さしむるりんご性)
神の無限知性の中に生成する「身体の観念」=精神。
2012.02.01 一回目読了。
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スピノザ哲学の入門書。きわめてとっつきにくいスピノザの哲学に読者が親しめるような工夫が文章に感じられる。
著者は『エチカ』の解説を始めるにあたって、「実在」や「神」ではなく「真理」に注目している。古来哲学は真理を獲得するための方法を熱心に論じてきた。だがこうした方法論の企ては無限遡行に陥るほかない。ここで問いの方向を転換してみてはどうだろうか。つまり、私たちにすでに「与えられている真なる観念」が、真と言えるための規準をもたらしてくれるからこそ、私たちは真理を獲得するための方法を手にしているのではないのかと。
著者はこうした議論を、スピノザの「外的標識」と「内的標識」によって裏づけている。観念と対象との一致という「外的標識」だけでは、観念が真であることを正当化するのに十分ではない。むしろ、当の観念を正当化するための規準が明らかであるからこそ、私たちは事実の何を調べればそれが正当化できるのかが理解できるのである。これがスピノザの言う「内的標識」だと著者は説明している。
スピノザによれば、あるものの観念は、それをもたらす近接原因によって定義される。「内的標識」とは、原因の観念と結果の観念との間に存する必然性にほかならない。そこで、こうした観念の必然的な連鎖の全体を覆っている巨大な思考を考えることができる。こうした巨大な思考がスピノザの「自然あるいは神」にほかならない。それは、自分で自分がこのようなものであるということの説明になっているようなものとして記述されなければならない。スピノザの『エチカ』はこうした説明の体系になっている。
ところで、『エチカ』は文字通り「倫理学」であるにも関わらず、「……すべし」という定言命法は見られない。「神あるいは自然」によって人間の感情と行動が理解されるならば、ことさら悔い改めや憐憫は必要はないのである。このことを実地に教えるのが『エチカ』なのだと著者は述べている。
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最近ブームの兆しを見せる、異端の哲学者。そこから抱くイメージのみで、スピノザを見ていました。
「汎神論」とは、「神々は細部に、森羅万象に宿る」というアニミズム的思考だろうという勝手な想像をしていましたが、それは間違いでした。彼は「神は全ての観念の中にある」と考え、論理的j必然性を以て神の存在を証明しました。「全ての思考は神に通ず」というところでしょうか。
そしてスピノザは、ゆえに「神には自由意志はない」と説きます。その考えは、明らかにキリスト教的な神=全知全能の創造者、という考えとは明らかに異なるものでした。これが無神論者として排斥された理由か、と少しわかった気がします。
しかし、スピノザの言いたかったことは、神の存在についてに止まらなかったようです。そこから発して、「いかに生きるか」を説こうとした。それは、「神や運命に自由意志はないのだから、人をうらむな、運命をうらむな、神をうらむな」ということ。それらをある種必然的なものとして、鷹揚に受け止めよ、ということ。その部分まで、読み継がれていないようです。
もっとスピノザを知りたくなりました。
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凄いとしか言いようがない。まさにそんな著書だと思う。この著書を読む前まではスピノザという人の名前すら知らなかった(デカルトに比べ)が、今はスピノザの考えなしには生きられないというくらいだ。
スピノザの哲学論理は数学の定理のような厳密さで進む。三角形の内角の和が180度と普遍な定理なように、私たちの周りに起こる様々なことも普遍的な定理に基づいた「必然性」に過ぎない。そもそも私たち自身が神の「一様態」に過ぎず、他人との様々な出来事も神の起こす衝動の衝突に過ぎないのだ。こう言い切ってしまうほどの彼の哲学論理の積み重ねには脱帽する。無論、著書はあくまで超入門編に過ぎないし、それでもいささか難解ではあるが、読むだけの価値はあると思う。久々に感動する新書だった。
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冒頭の永遠の心の平安を求めるか、それを諦めて世俗的な快楽に固執するか、というスピノザの二択の箇所を読んだ時点で心を熱くさせられた。
一種の自動機械とも言える、「神即自然」を理解することによって、自分や他者の感情を、そして社会についての「ゆるし」を得られる、という一連の流れはこれから何度も思い返すことになるだろう。
スピノザの思想についてもっと知りたい、原著を読みたい、と思わせてくれる良書。
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約7年ぶり(!)に読んだ。
スピノザの主著『エチカ』の読解。
最初に本書を手にしたのは、スピノザの思想と、ミニマリストプログラム以降の生成文法の言語観・自然観との間に相通ずるものがありそうだと感じたのがきっかけだった。
抽象的な話が多く、骨の折れる読書となった。
著者の意図をきちんと読解できているかもあやしいが、本書で述べられているスピノザの思想を自分の言葉で粗削りに要約すると、次のようになる。
「神とは、数式や自然法則のようなものであり、世界は自動機械がものを作るように、必然的に生み出されていった(神が何かを意図して創造したのではない)。
世界に存在するすべての事物は、良いものも悪いものも、神(=自然法則)の必然の結果生じたもので、また、これらはすべて神の一部である。
それゆえ何かよくないことがあっても、“すべて必然”と考えれば、すべてのことを許すことができる。
そのように世界を認識できる人間は、自由で強い。
“すべて”の中には、当然、自分自身も含まれる。
自分自身が必然の存在であると認識することは、自分自身が神のあらわれ(=自然法則の一部)であり普遍的な存在であると理解することである。
自分自身が神の一部であるならば、つまり、人が神を愛すること=神が人を愛すること=神が神自身を愛すること、となる。
この栄光こそ、人が衝動的に欲している自由、幸福、至福である」
一般的なキリスト教からイメージされる神に比べると、スピノザの神は無機質だ。
当時の教団から「異端」として追放されたのも仕方なかったかもしれない。
でも数式のように無機質だからこそ、永遠不変なのだともいえる。
ニーチェや仏教の思想にも似たものを感じる。
実際ニーチェはスピノザを、自分の「先駆者」としてたたえていたそうだ(pp165-166)。
『エチカ』自体、幾何学の証明のように定義と公理からスタートして定理を導いていく、というふうに淡々と書かれているらしい。
が、果たしてその定義や公理や推論過程が妥当なものか、確信はもてない。
(いや、正直に言うと、直感として納得できていない。)
仮に推論過程が正しかったとしても、スピノザの導いた結論(定理)の数々は、一個の閉じた公理系の中でのみ正しい、としか言えないじゃないか!
……とも思ったが、宗教は科学じゃないし、幾何学の証明のような書き方に惑わされて科学哲学の枠で考えること自体が間違っているのかな。
うん、自分にそう言い聞かせて納得することにする。
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躓いた石を恨む事はないが、石を置いた人間を恨むのはなぜか?自由意志の幻想と感情の模倣により、他人をゆるせないからだ。この説明には感動した。入門書のようだが、自分には総じて難しかったので、何度か読み返す必要あり。