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紙の本

モーリス・ブランショのこの小説の難解さを前に、いろいろと思いにふける

2012/01/14 12:05

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 私についてこなかった本、そんなジョークを、ふとつぶやきたくなる脳裡のなかでわがものとしえない言葉が、文章が美しい紙面に、美しい文字組みでみっしりと並んでいる。40年も前に原書を購入して当時、少しは読もうともした本だった。いまその読めなかった残骸としての、ほとんど天や小口が切られていない本をカットし、古い色やけした紙の小くずを片づけながら、ページをめくって段落や数えるほどしかない行アキを邦訳と照合したりする。
 なんとなくだが吉本隆明が最初に公表した詩『固有時との対話』を、モーリス・ブランショによるこの小説らしからぬ小説を読みながら思い浮かべた。前者においては戸外、後者においては室内という空間(とはいっても確たるリアリティで描かれるわけではない)の差が、逆に対照性としての連想をあおる。言葉のなかを舞う「風」が(その頻度は別として)両者を直接むすびつける例外的な共通項とも感じる。
 最初に『固有時との対話』を連想したときは考えつかなかったのだが、この私家版詩集が世に出たのは1952年、そして本書『私についてこなかった男』がガリマールから刊行されたのは1953年であり、不思議に符合する。
 小説というものは通常、時と所があり、人が登場し、なんらかのストーリーが進行するものだが、フランス語で「レシ」と銘打たれた本小説には、物語らしきものは皆無といってよい。始まりから数十ページは場そのものにかかわる語句さえない。やがて部屋のなか、ということがかろうじて分かる空間が、いくつかの語句を通して分かるようになる。だがそこで「私」が語りかけているのが「彼」であるのか、それとも「彼」などはいなくて、対話らしいものも含めすべてが「私」のモノローグあるいはエクリチュールなのか、そして部屋という空間さえ場面として存在するものなのかも実際には曖昧模糊としている。そんなこの小説について訳者も長い解説の中途で次のように記している。
 《モーリス・ブランショが「難解な」作家であることはたぶん改めて指摘する必要のないことだろう。そして、そのブランショの作品のなかでも、おそらく本書はもっとも難解なものと言ってもよいかもしれない。》
 同じ訳者によるもうひとつのブランショの『望みのときに』を除き、日本語になっているブランショの小説をすべて読んでいる者にとって了解できる指摘である。
 
 『私についてこなかった男』は原書では174ページと薄いが、邦訳では小説部分236ページに80ページにのぼる訳者解説が付され、厚手の本になっている。やや大きめの文字組みが素晴らしく(解説部分の文字はほんのわずか小さい)、私はそのために読もうとしたほどだ。
 邦訳では、p104、p122、p168とわずか3か所に一行アキがあるだけであり、章番号など一切ない。たとえばp66に、日の移り変わりを示す《翌日、私は普通どおりに起きた。》という文章があるものの、そうした叙述がなかったかのように、それ以外の箇所で時の推移をあらわす明確な言葉は見出せない。

 延々と語られているものの中味は別として、場面が室内らしいことに関心が向く一つの理由は、前述した『固有時との対話』の全体が、「街々の建築」「路上」「街路樹」といった語句が示すように、戸外の情景で統一されていることと鋭く対立するからである。ブランショの小説では「階段」「ドア」「テーブル」「壁」「鏡」「ベッド」「椅子」など、また外との境をなす「ガラスのはめられた大きな窓」が、吉本隆明の詩の戸外性に対する室内性を明示する語句にあたる。
 『私についてこなかった男』では、主要な部屋、また曖昧な階上の部屋以外にも「台所」という空間があらわれるが、そこで連想されるのは吉本隆明の娘による『キッチン』という小説である。『キッチン』は室内だけに場面を限定してはいないが、漠然と私は『固有時との対話』が書かれた1950年代初頭から、『キッチン』が世に出た1980年代にいたる日本の居住空間を、私自身が過ごした時間とともに頭に浮かべる。おそらく『固有時との対話』を書いていたころ吉本隆明には、みずからがそこで机に向かっている居住空間のあれこれを言葉の素材にはできなかった。むしろ今さっき、あるいは昨夜そこから彼が帰ってきた外の風景、都市(といっても吉本的に染められた1950年代の東京)の空間こそが、詩を書くためのほどよい素材となったのだろう。だが同じ1950年代、吉本よりは17歳年上のブランショにとって室内のさまざまなものは、彼にとって書くための最小限の素材になりえたのかもしれない。

 さて『私についてこなかった男』がモーリス・ブランショの小説らしいのは、筆記用具の類にふれずに「書く」という言葉が頻出するところである。それはアクションではなく、この小説が書かれていること自体と結びついている。そしてそのことと対照的に、この小説内のか細いアクションというか生理的な出来事として、「私」の水への希求がある。私がなんとなく連想したのは、村上春樹の小説の主人公が、ときおり意味もなくビールをのんだり、ものを食べたり(あるいは小便をしたり)する場面だったが、両者のあいだに途方もない差があるのは明らかであろう。とはいえ、こうした勝手な連想を許してくれそうなものとして、「類似」への言及から始まる素晴らしい訳者(谷口博史)の解説がある。


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