紙の本
建設的な「提案」
2008/04/24 00:13
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、小中高大学に関する「国語」入試・教育について多くの書物を書いてきた石原千秋氏による、「国語教科書」を主題とした「批評」的なエッセイである。従前通り、いささか手前味噌であったり、「批評」の筆が走りすぎる箇所は多々あり、また、分析や批判がもはやステレオタイプにもみえ、パンチに乏しい感は確かに否めない。にもかかわらず、本書の議論が、言葉本来の意味で生産的なのは、こうした分析や批判(それは端的に著者の「不満」とも翻訳できる)をベースとして、実に建設的な「提案」が成されているからに他ならない。
石原千秋氏の提案は、現行の「国語」カリキュラムの、大胆な再編である。言葉を文字通りの意味として正しく理解する「リテラシー教育」と、いわゆる「想像力」を活用して自由に読み、その根拠を他者に示していくという、創造性に重きを置く「文学」とに分割・再配分するというものである。これは、今日の現状にあって、試験の弊害をのぞきつつ、「文学」が蓄えている資源を活かし、さらには現代社会における「生きる力」をも身につけうるという意味で、実に、現実的であると同時に建設的な「提案」だといって間違いない。
ただし、それがすぐに実現するとは、残念ながら思えない。そうした中で重要なのは、教育現場にある教員個々が、上記の「提案」を、それぞれの環境・文脈の中で、現行の制度の枠内でいかに展開していくかだろう。それは、学生・生徒の能力のボトム・アップにもつながり、さらにはいわゆる国語教育全体のレベルアップにも繋がるはずである。
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道徳教育からリテラシー教育へ
2005/12/23 08:12
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:k-kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
いまや「ゆとり教育」は諸悪の根源として袋だたきである。それが頂点に達したのは、OECD(経済協力開発機構)が行った読解力調査(PISA)で、日本が下位に低迷した時ではなかったか(2004/12月)。PISAとはOECDが世界41カ国の15歳の子供たちに実施した国際的な学習到達度調査の略称。著者によれば、PISAの「読解力」が求めているのは、批評精神——他人を批評し、他人とは違った意見を言う——ことだという。
たとえば、こんな問題だ。「贈り物」という奇妙な物語がまず提示される。この最後の一文は「ポーチの上には、かじられたハムが白い骨になって残っていただけだった」と結ばれている。これに関して、設問はこうだ——『「贈り物」の最後の文が、このような文で終わるのは適切だと思いますか。最後の文が物語の内容とどのように関連しているかを示して、あなたの答えを説明しなさい』。物語を批評的に読めという趣旨である。「批評」が求められると、日本の15歳はお手上げ状態になるのである。
日本の国語教育では与えられた文章を「ありがたいもの」として、徹底的に受け身の立場に立って「読解」することだけが行われてきた。能動的な読解は求められない。「道徳」や「教訓」を読み取ることが求められてきた——著者は「道徳教育」だったと断言する。世界に通用する日本人を育てるためには、国語という教科を根本的に変えなければならない。国語教育に「批評」という高度な精神活動を導入すべきだと著者は主張する。
著者は、現在の国語を2つの科目に再編せよと提案する。一つは、文章や図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる能力を育てる「リテラシー」という科目を立ち上げること。
たとえば説明文を書く力。きちんとした「説明文」を書くことの方が「感想文」を書くことよりもはるかに難しい。時系列に沿って書けばいい場合でも、何を書いて何を書かないかという判断が大切になってくる。書きたいことを全部書こうとすると、ごちゃごちゃになってしまう。それ以外の場合でも、どういう基準で書く順序を決めるのかに迷うことが多い。並べる基準のレベルをまちがえると、錯綜した文章になってしまうからだ。
もう一つは、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げることだという。現代では「文学」は個人の好みでさまざまに読んでよいという共通認識が成り立っている。文学は誰も傷つけることなく自由に自分の意見を言うことのできる、数少ないジャンルなのであると。
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自分を批判的に見つめて生きるためにも、幼少期の国語教育で批評する心を養うことは大切だと思う書
2006/01/05 09:23
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:yukkiebeer - この投稿者のレビュー一覧を見る
早稲田大学教授で、高校の国語編集委員を長年務めている著者は、現在の国語教科書が「普遍的に『正しいこと』を教える」道徳科的な存在であることを具体例とともに読み解いていきます。「日本の国語教育は与えられた文章を『ありがたいもの』として、徹底的に受身の立場に立って『読解』することだけが行なわれ」ている(53頁)という指摘を、うそ寒くなる思いとともに読みました。
著者はその上で今後あるべき方針として、国語教科書が「与えられた文章に能動的に関わっていく」ことを許すような内容に編集すべきことを提唱します。文章を丸呑みするのではなく、「本当にそうだろうか」「私の意見はそれとは異なり、こう思う」という具合に、批判を許す教育が行なわれるべきだとするのです。
国語教科書がイデオロギーを注入するための道具であることから脱却し、子供が教室で間違うことも時には許すことが必要だという論には見るべきものが多いと感じます。
「教室では間違える権利がある。テストも同様だ。テストが教育の終わりなのではない。むしろ、テストは教育の始まりなのだ。そのことがわかっていないから、テストでみんなが満点を取れるようにするのが『良い教育だ』という、とんでもない過ちを犯すのだ」(36頁)。
振り返ってみると私自身は小学生時代の国語教育に恵まれていたかもしれません。私の担任の先生は「教室はまちがうところだ」という蒔田晋治の詩を常に引用して私たちを鼓舞し、教科書に掲載されている文章をも時に平気で批判的に読むことを奨励してくれました。今から30年も前の出来事ですが、今もその教えを守って私は自分自身の書き物に対しても批判的に見つめながら生きることを心がけています。
幼少期の国語教育の重要性について身をもって体験した私にとって、本書の指摘は大いに応援したく感じるものでした。
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今の国語教科書は道徳教育に偏していて批評精神を涵養しないという観点から国語教科書を「滅多切り」にしている。カミソリ千秋の面目躍如というところ。岩波編集部が出版を躊躇しただけの内容はある。やや過激。
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あぁ、来年は教育実習に行くんだ、と思いながら読み進めました。
そのなかで気になる箇所があったので、ここに残しておこうと思います。
…では、日本の国語教育はどうすればいいのか。ここで、一つの提案をしておこう。それは、現在の日本の国語教育はあまりにも「教訓」を読み取る方向に傾きすぎているので、それを是正するために、現在の国語を二つの科目に再編することである。
一つは、まず文章や図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる力をも育てる「リテラシー」という科目を立ち上げることである。この科目においては、「正解」と「まちがい」の違いがある程度はっきり出る。したがって、採点可能な科目である。もちろん、採点の基準は「道徳的な正しさ」では決してない。「正確さ」だけが唯一の採点基準である。(p58-59)
もう一つは、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げることである。なぜ「文学」かといえば、「文学は作者の意図通りに読むべきである」というよほど保守的で頭の固い一部の近代文学研究者でない限り、現代社会においては「文学」は個人の好みでさまざまに読んでよいという共通認識が成り立っているからである。その意味で、書かれたものの中では、文学は誰も傷つけることなく自由に自分の意見を言うことのできる、数少ないジャンルなのである。(中略)
この場合の「批評」とは、テクストから根拠を引き出すことのできる「読み」や、自分の用いた枠組について言及できるような「読み」のことであって、根拠のない意見や感想のことではない。根拠のない意見や感想は、言いっぱなしになるだけであって、知的なコミュニケーションを生まない。
しかし、実は根気よくコミュニケーションを行っていけば、一見すると根拠のないように思える意見や感想でも、ある一定の枠組から読んだものだということがわかってくるはずなのだ。その結果、児童や生徒は自分の立っている場所が見えてくる。つまり、自分がそうと意識せずに寄りかかっていた枠組が見えてくる。「文学」という教科は、そのことを炙り出しにするまで、いかに根気よく児童や生徒と対話ができるかにかかっている。(中略)
したがってこの場合には、教室において複数の「正解」を認めなければならない。つまり、「文学」は採点が不可能な科目である。学校空間のなかに採点をしない科目を作るのである。これはドラスティックな提案かもしれないが、こうでもしないと日本の風土では「自由」な意見は出にくいのでないだろうか。なにしろ、「大人」の世界でも「自由」に意見を言えば、表だって、あるいはやんわりとたしなめるのが、日本のお国柄なのだから(p60-62)。
「リテラシー」の必要性は、普段SSGで議論している通りだと思う。
しかし、本当に問われているのは「批評」することではないだろうか、なんてちょっと思ってしまった。
改めて「国語」の持つ可能性を感じた一冊でした。
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国語の解法は「道徳」であるという指摘はみんなが何とは無しに感じ続けていたが言葉に出来なかったことなんじゃなかろうか。
内容もさることながら、文章に適度に毒が利いていて読みやすい。
国語が分かる人=「道徳的視点・枠組みから文章が読める人」という視点は、国語力と読書力・読解力を安易に結び付けようとする最近の流れに対して、良い牽制球だと思われる。
突っ込み所があるとしたら、「根拠」の部分かなぁ。言っている事は正しい「気がする」が、それを裏付けるような確固たる証拠や用心深さが見られない。徹底的にやる気なら、もっとやれるはずである。
とは言え、攻撃的な姿勢に全体的に好感が持てる本です。
批評って大事だなぁ。
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ここんとこ読んだ本を考えてみると…義務教育において、正解は決まっている事に対して答えを考えるという事が刷り込まれている。それが日本の問題になっている。
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戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。現在その役割を担って
いるのが国語である。「読解力低下」が問題視される昨今、国語教育の現場では
何が行われているのか? 小・中学校の教科書、なかでもシェアの高いいくつかの
教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような
表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギー
を暴き出す。
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戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。現在、その役割を担っているのが国語である。「読解力低下」が問題視される昨今、国語教育の現場では何が行われているのか?小・中学校の教科書、なかでもシェアの高いいくつかの教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギーを暴き出す。
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敬愛する石原先生の著書。教育は恐ろしいです。思想統制なんて簡単にできてしまうのですから。
本著は思想統制とまではいかなくても知らず知らずに刷り込まれている思想について、おなじみの国語教科書の教材を分析。なかなか興味深い。
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国語教育が実は見えない「道徳教育」であり、「自然に帰ろう」「他者と出会おう」といった価値観のもとに編集されていることを指摘し、世界に通用する国語教育とはどのようなものかを説いた本。鋭くシュールな指摘に思わず笑ってしまうところもあり、そうそう、そんな感じの教科書だったなーと思いながら読めるので興味深い。「豊かさ」、「わたしたち」、「客観的」といった何気ない表現に、見えないイデオロギーや曖昧な価値観が含まれていることを、それと気付くことなく納得して読んでしまっていたことに気付かされた。国語教育の難しさを感じた。「テストは教育のはじまり」(p.36)、間違うところから成長する、という言葉には同感だ。(2008/01/13)
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小・中の教科書の作品・構成の検討を通して
国語教科書に秘められた「思想」を解き明かす書。
この書で述べられていることは、
・現在の国語教育で道徳教育が行われている。
ということ。
本文を読んでいくと、
作品がある特定の道徳観で選ばれていることがよく分かる。
レビュアー個人としては
国語の大半が文学作品の解説で占めているところに
危機意識を感じていたのだが、
この本の著者の主張は概ね合致するものであった。
もっともこの本は教科書分析から
論を展開しているので
本当にこの国語教科書の思想を
児童生徒が植え付けられているのか疑問の余地がある。
けれども、教科書の採択状況の偏りについても述べられているため、
この思想が国語の授業を通して
植えつけられている可能性は高いと思われる。
この書の直接のテーマは国語教育ではあるが、
個人的には、道徳教育を考える上でも有益な一冊だと考える。
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とりあえずレポート用に。
国語教科書の問題点を、具体的にその教材の内容に言及して、述べているところ、道徳教育化している国語教育の問題点やら、いろいろと。とりあえず、5時間も普通の読書でいってしまったわけなのですが、内容も頭に入ってなかったり、色々と終わっています。うーん困った。とりあえず、批判的にレポートを書かねば…。
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現在、どのように教育していくのかが注目されていいる教科の国語。
その国語の教科書を一冊のテクストとみなし、テクスト論の立場から、「言説分析」と「構造分析」を行っていく。
国語は全ての教科の基礎となるような読解力を身に付ける教科だと考えている人がいるとしたら、それは「誤解」である。現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである。したがって、読解力が身についたとは、道徳的な枠組みから読む技術が身についたということを意味するのだ。
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本来の意味でのシュールさと鋭さ。
まさに今おかれている状態をわかりやすく、明解に説明された
人におすすめしたい一冊。