紙の本
書くことの「淫靡な快感」
2005/12/12 01:01
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
この小説は「書くこと」をテーマにした物語なのだろうと思う。
「書くこと」というテーマは、「言葉」より正確にいえば「文字(活字)」のテーマと結びつく。この小説には「文字」が溢れていることに注意したい。実際、真楠は日本にいる恋人である「不乱子」あてに、「十一通の創作」を書き続けていること自体、二人の間に「文字」が溢れていることを示しているであろう。
冒頭で「真楠」が「まだ読んだこともない作家が死んだ」とその作家の死を知るのは、「日本から送られてきた新聞の訃報記事」であり、真楠はその新聞の「日本語の活字」を強い陽射しのもとで眺めて「目眩」を起こしそうになる。続いて真楠は「チチチ」と鳴く「ハチドリ」の存在に気が付く。真楠はハチドリが甘い蜜を吸っている姿を好んでいる。このハチドリは、「スペイン語の新聞を読んでいると、必ず蜜を吸い」にやって来ると語られる。活字とハチドリが組み合わさっている。この組み合わせは、やがて「重力」を狂わせる。日本語の活字という「重力」とハチドリのように「重力」から解放されて自由に宙を舞う存在の間に、真楠は漂っていると言える。
真楠は「活字」になりたいという。それどころか、この「まだ読んだこともない作家」のペンを持つ手が書き付ける「名前」そのものになりたいという。「彼の手が持つペンの先から擦りつけられて名前が紙に現れるとき、名前となった真楠も揺るぎなく自分のいる場所を語ることができる」と考えている。堀江敏幸氏が解説のなかで指摘しているように、真楠は「変身願望」を持っているが、特に「活字」や「名前」になりたいという彼の願望は、後の展開を考えると興味深い。
この小説では「文字(活字)」が非常に重要だ。「文字」は両義的な存在で、「文字」を媒介として、一方では人と人あるいは恋人同士を互いに引き寄せ「深く交わっているような甘美な思い」をもたらすが、その一方で二人の間に「ずれ」があることを感じさせる。「ずれ」があると感じるから、この「ずれ」を解消するために「文字」を使ってコミュニケーションを行なう。だが「文字」は「ずれ」を生みだし続け、永遠に「ずれ」を解消することは不可能だろう。真楠の書く物語では、「ミツ」が金細工の魚作りに没頭し、大量の金に鱗の模様を付ける(=「文字」を生むこと)が、最後に「活字」に身体を食い尽くされ、自分の「死」を悟る——。つまり「文字」(=エクリチュール)と「死」というテーマがここには現れている。
ところで、不乱子が真楠に手紙を書き続けてきたのは、つぎのような理由からであった。
「文字の上の交わりに変わってしまうのを拒否したいからでした。私は書くことで、あなたと私の間にずれていくことに敏感でいようとしたわけです。書くことで、文字に還元されることを乗り越えようとしたのです。」
ここで不乱子は、真楠との「ずれ」を敏感に感じようとしていることに注意すべきだ。不乱子は、真楠をあくまで他者として維持しようとしているのである。
それに対し、真楠は「違和感」とともに「淫靡な快感」を思い出し、「いま一度、文字を通じながら文字にならない不乱子まで含めて、不乱子そのものになりたい、あの作家の名前になることで本当は不乱子になりたい、と強く思い、最後の手紙」を書き始めている。
真楠は、このように文字を通じて「不乱子そのもの」になろうとするが、これは不可能な試みだろう。真楠にとって、「書くこと」は文字を通じて他者との同一化を望むことであった。そして、それは文字が死に繋がる以上不可能だが、それゆえに書き続けなければならない。しかし、真楠にとってはそれが「淫靡な快感」となる。つまり、この小説は「書くこと」のエロスとタナトスを描いた物語なのではないだろうか。
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メキシコで金の魚細工を作る日本人青年の話ですが、あからさまに中上健次の『千年の愉楽』を意識した文体と内容です。自然と身体の相互作用の生々しい描写は、独創とは言えないにせよ、単なる模倣では出せない濃密さを漂わせています。(「SWIFTIANA」2006年2月1日の記事参照)
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「まだ読んだこともない作家が死んだ」。メキシコの大学院に通う真楠は、新聞での訃報を読み、自分の恋人にあてた手紙として小説を書く。咲き乱れるブーゲンビリア、ベラクルスの熱風、グァバの匂い、ハチドリの愉悦…。原色のメキシコを舞台に、中上健次、ガルシア・マルケスへのオマージュのもとくりひろげられる陶酔世界。ラテンアメリカの濃厚な香りが漂う異色作。
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これが星野智幸の原点。そう思うと感慨深い。
これは、夢だ。夢の論理によって書かれている。そして、書くことについて思考する。なぜ書くのか。書き手はいつもその理由を探す。
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最近『俺俺』を読んで、この著者がデビュー作から訴えて来ていると私が感じていたことは勘違いではなかったと確信した。
「最後の吐息」はこの本のタイトルでもあるのだけど、この本で登場する、南米に滞在している日本人の真楠が、日本にいる恋人の不乱子に向けて何度かに分けて書き送る小説のタイトルでもある。
読んでいると、この小説内小説のほうについ目を奪われがちなのだけれども、これが小説内小説であることを決して忘れてはいけない。このミツの物語は挿入なのだから。この小説で最も重要なのは、ミツの物語でない部分。
身を切られるようだったのは、ミツの雨が降っている、雨はミツの涙を流している、と書き送ったあと、文庫本でのP89からの、初めて不乱子から返事が寄越されるところだった。「二人が交わったように見えるのは文字の上だからで…文字で交わりたくて、でもどれほど近づいても無理で、それでも交わってみようとするから…私が手紙を書き続けて来たのはそんな文字の上の交わりに変わってしまうのを拒否したいからでした。私は書くことで、私とあなたの間がずれていくことに敏感でいようとしたわけです。」
ここで、冒頭のハチドリになってしまいたい、猫になってしまいたい、と願う真楠のことが思い出される。あるいはこの文庫の同時収録されている「紅茶時代」にも出てくることだけれど、「交わり」どころか相手そのもの、自分の欲するものそのものに自分がなりかわってしまいたいという、ほとんど著者の願いとも解釈できそうなこの願望。
これは「女」というものを対象としているのかも実はあやふやだ。というのも小説内小説においてミツの恋人になる女は、「ジュビア」と「雨子」。ジュビアとは日本語で「雨」を意味するらしいから、ミツは実は「雨」と交わりたい、「ミツの雨が降っている、雨はミツの涙を流している」を願っているだけなのではないか?彼女たちは実は「雨」という名前をもっているからこそ選ばれた女たちなのではないか?という軽く頭をなぐられたような絶望に襲われる。
「それでも手紙を書くことであなたに会いたい」と締めくくられる不乱子からの糾弾の手紙に対して、それでも不乱子になってしまいたい、という、「会う」というぶつかり合い、あるいはズレのようなものを無視した欲望がはっきりと提示され、しかしその欲望は、小説内小説で、「小さな黒い活字のような」蟻に食われてミツが革命を果たせないまま死ぬという、不可能の形をとって終わりを告げる。
パロディの形をとっているとか、マジックリアリズム系であるとか、そういう特徴もあるけれど、彼は全然それだけじゃない。ちゃんと読めば、彼がオリジナルに訴えていることがちゃんと手に取るようにわかる。とてもストイックで、完成度の高い小説だと思う。もっと多くの人に読まれたらいいのに。
あと同時収録の「紅茶時代」は彼らしさが最大限に爆発してる小説で、本当にすばらしい、何度も爆笑させられたし。後の小説ではこういう調子が控えめにされてきていて、登場人物たちのぶつかり合いというか火のつきそうな痛々しい擦れ合いが目立つようになるけれど、この著者が愛に満���た人物であるだろうことがこの作品ではよくよく分かる。
『目覚めよと人魚は歌う』のレビューに続く。
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これは……ひっさびさにつまらんなあ。
ハチドリ、ハイビスカス、ハチドリ、ハチドリ、ハチドリ、グアバ、グアバ。
実体を伴わない単語によるイメージばかり。
山田詠美女史との対談を読んで興味を持ったのだけれど、対談で述べられているほど二人の共通項は(読者の視点から見て)多くはない気がする。
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【本の内容】
蜜の雨が降っている、雨は蜜の涙を流してる―ある作家が死んだことを新聞で知った真楠は、恋人にあてて手紙を書く。
咲き乱れるブーゲンビリア、ベラクルスの熱風、グァバの匂い、ハチドリの愉悦の声。
メキシコを舞台に、鮮烈な色・熱・香・音が甘やかに浮かび上がる恍惚と陶酔の世界。
短篇「紅茶時代」を併録。
第三四回文藝賞受賞作。
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