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いやいや、とんでもないものに手を出してしまいました。
私が一番信頼している読書系サイト『本が好き』でさえ、フレイザーの『金枝篇』を読んでいる人はたくさんいても、この本を読んでいる人が一人もいない!
だれだよ、私にこの本勧めたの。
第1巻は25章に別れていますが、20章を読み終わってまだ半分くらい。
最初の方はエッセイと言うよりも、哲学や歴史についてを読んでいる気がしました。
塩野七生の『ローマ人の物語』、ダンテの『神曲』、佐藤賢一のフランス史物などを読んでいたおかげで、思ったほどつらくはありませんでしたが、やっぱり知識の不足が残念だなあ。
”わが国では、分別(サンス)がない人間のことを「あの人は記憶力(メモワール)がない」などというものだから、それでもってわたしが、自分の記憶力のなさを嘆いたりすると、なんだか自分に分別がないことを認めたかのように(後略)”
記憶力がないということは分別がないと判断されてしまうというところに、フランスの厳しさがあるなあ。
日本人でよかった。
”われわれの宗教は、生を軽視すること以上に、確かな、人間的なよりどころをもってはこなかった。(中略)実際、失ってしまったら、惜しむこともできないものなのに、それを失うのがどうしてこわいというのか?”
死への怖れというのは、人間が根源的に持つ感情だと思うので、それが過剰なときに恐怖を軽減するための宗教というのは有効だとは思う。
だけど、今度はそれが行き過ぎて、来世の幸福をエサに死を軽んじさせる宗教も現れるから、何事もほどほどがいいと思うんだよなあ。
日本の場合、行き過ぎた廃仏毀釈が、宗教と生活を切り離してしまったことで、新興宗教につけ要られる隙を作ったのではないかと最近思っています。
”子供にとって、遊びとは、ただの遊戯ではなく、彼らのもっとも真剣なふるまいだと考える必要があるのだ”
「子どもは遊びで遊んでるんじゃないんだよ」by我が家の次男
ギリシャやローマ時代の古典の引用を多用しながら
”わたしだって、こんな、受け売りの、物乞いするような能力は、好きでもなんでもないのだから。
われわれは他人の知識で物知りにはなれるかもしれないが、賢くなるには、自分自身の英知によるしかない”
と自分の言葉でいいことを書いた後、引用の羅列。
遊んでいるのか、自虐なのか。
”お子さんが、知能を獲得されたら、それを浪費せずに、節約するように、そしてまた、目の前で語られる、ばかげた与太話などには腹を立てないように教育することです。なぜといって、自分の好みに合わないものには、なんにでも食ってかかるとなどというのは、不作法で、はた迷惑なことだからです”
今の日本にこそ、必要な一言。
”歴史を覚えさせるよりも、それについて判断することを教えるべきなのです”
判断するためには、歴史をある程度知らないとね。
とはいえ、モンテーニュが語る学校への不満って、今と全然変わらない。
規則や体罰などで子どもを縛るな、とおっしゃってます。
”これでは、まるで青春を閉じ込めておく牢獄ではありませんか”
ところで、「エセー(随想録)」というので、「枕草子」や「徒然草」のような身辺雑記から発するあれこれかと思ったのですが、それよりちょっと宗教・哲学寄り。
ちょうどフランスの宗教戦争の頃でもあり、ちらちらカトリックの影響も見えます。
だけど、書いた当初はこれ、時事問題くらいの感覚だったのかしら。
今読むとがっつり歴史なのですが。
あと、最後の方で、自分が勉強をできないことの言い訳めいたことを結構長く書いてますが、誰かに何か言われたのでしょうか。
どうしたモンちゃん、ちょっと引くぞ。