紙の本
「資本主義」には徳を求めてはいけない、しかし、そこに働く「人間」には。
2007/07/03 17:37
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
たくさんのニュースで企業倫理や公的機関の倫理が取りざたされる。しかし、どこまでどのようにそれを求めることができるのだろうか。この本はそのような問いを「資本主義に徳はあるのか」という形でとりあげる。
この本のようなタイトルはおおよそ反語であることが多いので、答えは読む前からある程度想像できるだろう。著者の論旨からは、道徳と経済は異なる秩序体系なので資本主義そのものに徳はない、ということになる。「資本主義」には徳を求めてはいけない、しかし、そこに働く「人間」には徳は期待されるものだ、ということになろうか。
なぜそうなるのか、アラン、パスカル、スピノザ、マルクス、ヴェーユなどの言葉をたくさん引用し、著者は平易な言葉で哲学を語る。幾つかの講演を基にまとめられた文章なので、わかりやすい。題材が題材だけに、著者のこれまでの邦訳本よりは多分に政治的ではある。フランスの現状をかなり取り込んで話が展開するので、事情が分かりにくい部分や少し日本の実情とは異なるように思える部分もある。しかし、分かりにくい部分は丁寧に訳注が入れられているし、「同時代にこんな国もある」と違いを考え、日本文化の場合を自分なりに考察していく余地がある、ともいえるだろう。
現実のニュースにもなる問題を少し根本的なところで考えてみたい。そう感じる方は一読してみると良い本である。
著者はくり返し、異なる秩序体系の規則を混同するな、と書く。科学や技術(経済もこれに含まれる)、政治、道徳、愛。著者はこの四つの階層に分け、これらの異なる秩序体系での規則を混同することが滑稽であり、野蛮であり、間違いなのだ、と話をすすめる。この体系の種類、階層を認めるかどうかは読み手により意見が異なるところだろう。著者自身、この区別を「読解ないし分析のひとつの格子」として、より問題を分かりやすくするための提案だとも書いているから、ここから思考を広げてゆけばよいのだと考える。
私自身は秩序体系の区分を階層として積み上げ、これほど上下や優劣をつけなくてもよく、もっと並列として良いかもしれないと感じている。著者は少し最上層に置いた「愛」を過大に評価しているような気がするのである。著者自身は自分を「無神論者」といっているので、「神の愛が至上」というのとは少し違うのだが。人間は様々な体系を使って社会を理解し、まとめ上げて生きていこうとするのだが、どの体系も単独では完全ではない、ということなのではないだろうか。
論理階系(Logical Type)の混同がおかしみや誤りのもとになる、という考えはラッセルやベイトソンなども指摘しているところである。この考えかた自身はそんなに新しいことではないが、現状(特にフランスの、ではあるが)に即しての、なにがおかしいかの説明なので本書はそれなりに良く理解でき、問題点が理解しやすくなっていると思う。
似たような論法で社会のモラルについて書いたものとしては「市場の倫理 統治の倫理」ジェイコブス2003日経ビジネス人文庫というのもあったが、こちらはより即物的、本書はより哲学的、といったところであろうか。
本文のあとには「対話編」というのがついている。講演後の質疑応答、という形式である。この部分は量的にはかなり(全体の2割ほど)あるのだが、著者の言いたいことが形を変えて書かれているだけ、と言えばそれだけである。「こんな質問が?」と思われるような過激なものもあるが、実際にこんな質問がでるものなのか?本文を読んで分かりにくいと思ったりした部分に関係するところは、より具体的な形になっているのでわかりやすいかもしれない。この部分についてはその程度と思う。
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「政治とカネ」の問題がかまびすしい。電波利権に浴する人々が口角泡を飛ばして政治家を糾弾している。去る参院選では「クリーンな政治」を掲げた政党もあった。ひょっとして政治家はクリーニング屋になろうとしているのだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100717/p4
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エキサイティングな本。そこまで言うのか??結論をいったいどこへ持っていくつもりなのか??とハラハラドキドキしながら読んだ。自分が企業の中にいてしょっちゅう陥っている混乱に対して、秩序だてて思考を整理することに気づかされ、そして、冷徹な分析ののち示される”個人が愛と明晰さと勇気を持ち続けることのみ”という言葉に励まされる。
後半の「対話編」FAQ的に収録されているが、過激なやり取りがフランスっぽくて面白い。
P5 だからといって(複雑さの名を借りた)混乱に落ち込んでよいわけではない。それどころか、複雑さが増すときにこそ、明晰さと判明さへの要求も増す。(中略)世界がこんにち私たちに突き付ける様々な疑問を前にして、各人が一層明晰に見通しを立て、自分で決断し、最後に、職業上のものであれ、道徳的なものであれ、政治的なものであれ、自らの責任を引き受ける助けとなることである。
P42 個人主義、つまりコクーニングは極めて上質の消費者を生み出すのです。(中略)それは少なくとも適切な生産者をも生み出すでしょうから、経済システムとしてみた場合の私たちの社会は、こうした個人主義によって脅かされることはありません。(中略)ですが、この社会は絆を作り出すことと共同体を作りだすことには失敗しています。
P54 日頃雑誌やセミナーなどで当たり前のように企業倫理と呼ばれているものはこの種の行為を指しているのではないかと疑問に思います。確かにそれらの行為が概して道徳に合致していることを否定するつもりはありませんが、そこには道徳的価値はありません―(中略)倫理が利益の源泉であるとしたら、それが道徳に何のかかわりを持つというのでしょうか。それはマネージメントやマーケティングや経営にかかわることで、道徳には無縁です。
要するに、企業倫理という流行に関して私が懸念しているのは、道徳をこんな風にまったくの添え物にしてしまうあまりに、言い換えるなら道徳が絶対的にどんなところにも現前し、しかも利益にさえなることを望むあまりに、私たちがついには道徳を希釈して道具にしてしまい、もはや道徳が(その厳格で利害を離れた真実においては)結局のところどこにも現前しなくなってしまうのではないかということなのです。
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1.経済―技術―科学の秩序
2.法―政治の秩序
3.道徳の秩序
4.倫理、あるいは愛の秩序
私たちには、これら四つの秩序が、少なくとも相対的には互いに独立して(各々はそれ固有の論理を持っています)、かつ相互に作用しあう(いずれも、ほかの秩序がなければ機能できません)状態において、等しく必要なのです。これら四つはいずれも不可欠なものなのですが、どれ一つとしてそれだけで十分なものではないのです。
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P60 私たちが時に「ガボールの原則」と呼ぶものです。その原理と法則は以下のようなものです。「あらゆる可能なことは、必ず行われる。」私としてはただこう付け加えたいと思います。市場が存在するという唯一の条件のもとでは、と。
P63 どんな法も利己主義を禁じてはいません。どんな法もさげすみを禁じてはいません。どんな法も憎しみを禁じてはいません。どんな法も単純に言って意地悪を禁じてはいません。(中略)しかるに、この第二の秩序においては私の言うところの”合法的な卑劣漢”という恐ろしさから逃れるすべはないのです。
P79 第二の秩序で合法的な卑劣感がどのような人間でありうるか、そして第一の秩序で専門知識を備え技術を有した卑劣漢がどのような人間でありうるかは、もう十分に想像できるでしょうが、第三の秩序で道徳的な卑劣感がどのような人物でありうるかは、なかなかイメージしにくいところがあります。道徳を説きたがる卑劣感は山ほどいると言われるかもしれません…。私もそれには完全に同意します。ですが、正確に言うなら、道徳的であることと、道徳を説くことは異なるという点こそが、道徳にとって本質的なのです。(中略)道徳的であるとは自分の義務を気にかけることであり、道徳を説くとは他人の義務に気をまわすことです。(中略)
逆に道徳には制限される必要はないにしても(過度に道徳的であることなどできないのですから)補完される必要はあります。何しろ、道徳はそれ自体が不十分なのですから。いつでも義務は果たしているが、義務しか果たさない人間を思い浮かべ
てみてください。彼が卑劣漢でないことは明らかですが、このような人間は、私たちの文化においては(中略)”パリサイ人”(=独善家)と呼ばれる人種ではないでしょうか。「独善家」とは、道徳的な法は常に尊重するものの、しばしば何かが欠けている、よく言われるようにある次元が欠けているとか、おそらくは本質的なものが欠けていると判断される類の人のことです。
P82 私としては第一に、愛を制限するためであれ補完するためであれ、愛の上に何をおくことができるのか自分にはよくわからないということを認めておきたいと思います。ですが、それは私が神を信じていないからなのでしょう。信仰があるなら、超自然的な秩序とか聖なる秩序とも呼べるであろうこの第五の秩序を即座に思い浮かべるのでしょう(中略)信仰をもつのでない限り、これは私にはあり得ない可能性です。しかも、正直に言うなら、私にとってこんな可能性はまったくなくてかまいません。無限の愛は恐れるべきものではありません。(愛に制限を設けないとしても、その結果わかるのは、せいぜいのところ愛が無限のものになるというくらいのことなのですから)(中略)
聖アウグスティヌスが言っていましたが、「愛の唯一の尺度は際限なく愛することである」私たちはほとんどの場合、ほぼ全員がそんな境地からは遠く隔たっています。
P92 経済には意図も意識も欠けているというのに、どうして経済が道徳的だというのでしょうか。「市場の見えざる手」など存在しません。
P98資本主義は−全面的に、徹底的に、決定的に−非道徳的なのです。(中略)資本主義がこのようにもともと非道徳的であるからといって、それを非難するのは当たりません。(中略)この非道徳性こそが、少なくともその出発点における道徳性への要請のうちにいつでもはまり込んで身動きが取れなくなってしまったマルクス主義的社会主義に対する対抗関係を通じて資本主義が持ち得た力の少なくとも一部分をなしてきたものであるからです。(中略)
結局のところ、マルクスの目的は、経済を道徳化することにありました。彼は第一の秩序が最終的には第三の秩序に服するようになることを望んだのです。(中略)ですから共産主義が失敗に終わるのは避けられないことだったのです。何しろ人間とは利己主義者であって、いつでも、そのほとんどが集団の利害よりも個人的な利害のほうを優先するものなのですから。だからこそ共産主義が全体主義化するのもほとんど不可避だったのです。なぜなら、道徳では実現できないとすぐにも露呈してしまったことは、強制によって課すしかなかったのですから。(中略)逆に、資本主義の優れている点(中略)その内在的な力は、おおよそのところ、それが機能するために、諸個人に対して、まさにあるがままの彼ら以外の何も求めなかった点にあります。
P116 「私を愛しなさい、私はお前たちの雇い主だ」これはパターナリズムの隠れた標語であり、雇用主の滑稽さにすぎません。(中略)滑稽さとは秩序の混同です。
P145 ひとが最悪の事態を自らに許してしまうのは、ほとんどの場合善の名のもとにおいてのことなのです。(中略)野蛮と純粋主義とが時に補完しあうものであることを示しています。レーニンとトロツキーが行ったように、道徳を政治に従わせること、それが野蛮なのです。(中略)
P151 責任とは誰かに委託することのできないもののことだからです。そうだからこそ、この席には一人の人間にかかわる、個人的な者でしかあり得ないのであり、最近頻繁に行われているようですが、経営者の集まりにおいて企業倫理や企業モラルと言った言い方がされることにどんな意味があるのか私にはさっぱりわからないのです。私としてはむしろ、逆に、企業にモラルは無縁である、企業にとって重要なのは経理と顧客だけだと言いたいところです。企業に義務は無縁であって、企業にとって重要なのは利害と強制だけです。企業には感情も倫理も愛も無縁です。企業にとって重要なのは目標と決算だけです。要するに企業倫理も企業モラルもないのです。ですが直ちにこう付け加えておかねばなりません。企業のモラルなどないからこそ、企業内にはモラルがなければならないのです。(中略)市場に、あなたの代わりに道徳的であることを求めてはならない(中略)ましてやあなたの勤めている企業にあなたの代わりに道徳的であえることを求めてはなりません。
P163 連帯と寛大さではどちらのほうがよりよいものなのでしょうか。道徳的には言うまでもなく寛大さのほうでしょう。(中略)ですが、社会的・経済的・政治的・歴史的には、連帯のほうがはるかに実効的です。(中略)社会補償も保険も税制も組合も、正義のために、そしてとりわけ最も弱き人々を保護するためには、私たちがまれに発揮しうるほんのわずかな寛大さなどよりもはるかに素晴らしい成果をあげています。
P169 どんなものでも売り買いに出されると信じるなら、その人はウルトラリバータリアニストです。市場があれば十分だというわけです。逆に、売りに出すことのできないものがある(生命、健康、正義、自由、尊厳、教育、愛、世界など…)と考えるなら、あらゆるものを市場に従わせるわけにはいかないことになります(中略)私たちは、非商業的な連帯の在り方を組織するのに−正確に言うなら、売りに出せないものを管理するために−国家を必要とするのです。
P171 これが秩序の区別です。国家が富を生み出すのにそれほど上手な者ではないことが左派の政治家も含めて、ようやく多くの人々に理解されるようになってきました。市場と企業のほうがずっと上手くそれを行うのです。しかし逆に、市場と企業が正義を生み出すのにそれほど上手なものではないことを、右派の政治家たちもそろそろ理解してもらいたいものです。国家だけがそれを実現する可能性を持つ唯一のものなのです。
P183 集団は下降するものです。集団は重力に服するものなのです。(中略)集団においては、そしてそれを構成している人数が多くなればますます、愛は道徳へと、そして場合によっては道徳主義にまで低下して行く傾向を帯びます。道徳は政治へと、つまりは権力関係へと低下していく傾向を帯び、政治は技術や経済や管理へ低下していく傾向を帯びるのです。(中略)わずかではあれ、そして時折ではあれ−常に下降に向かう集団固有の傾向性を逆に進む能力を持つのは個々人だけです。(中略)集団が私たちを引き込もうとするこの傾向性をわずかでも逆に進むために私が知っているのは、ただ愛と明晰さと勇気の三つだけであると言うにとどめておきたいと思います。
P232 労働は売買可能です。だからこそ、労働は価値ではないのです。
P272 (愛は)道徳ではありません。愛は命じられるものではありませんから。(中略)しかるに、道徳とは私たちがおのれ自身に課す、あるいは普遍的に課せられるし、そうあるべきだとみなされる無条件的な命令の総体です。ですから、愛は道徳の彼岸に位置するわけです。
P275 愛は私たちにはあまりに要求の高いものです。(中略)ではどうすればよいのでしょうか。そこから客観的諸関係のためには法が、主観的諸関係のためには礼儀が発明されたのです。寛大になれない時には、少なくとも他者の所有物は尊重しなさい。他者を尊敬できない時には、少なくともそうしているふりをしなさい。人にぶつかったら失礼と言いなさい。ほしい時にはすみませんがと言いなさい、もらった時にはありがとうと言いなさい。これは、私たちに欠けている尊敬と感謝の模倣であり、道徳が不在の時の道徳の模倣なのです。
法と礼儀は道徳を模倣するものであり、道徳は愛を模倣します。
P281 愛は意味を生み出す者です。何かのために愛することはありませんが、愛しているとき、私たちは自分の愛する者のために生きます。この意味で愛は、目標とされるものではなく目標を生み出すものです。(中略)愛に意味はありませんが、愛こそが意味を生み出します。
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資本主義に徳はあるか
(和書)2010年12月17日 19:29
2006 紀伊國屋書店 アンドレ・コント・スポンヴィル, 小須田 健, C.カンタン
柄谷行人さんの書評を読んで借りてみました。
理想的な資本主義はありえないということ、統整的理念が必要だと言うことなどが印象に残った。