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紙の本
今年の傑作SF
2006/12/14 23:03
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:シノスケ - この投稿者のレビュー一覧を見る
前作『グラン・ヴァカンス』は、物語の一部に過ぎないがそれでも太陽が照らす白い砂浜には、美しく残酷な物語が否応なしに伝わってきた。本作では、AIたちの住む<数値海岸>と現実世界を二分するに至った大途絶そのものと、そこにいたるまでの現実の物語を痛々しくも丁寧に描写している。作中人物ではないが、世界とは当然残酷なものであると言い切った博士がいる。この世界では現実も、そして<数値海岸>もやはり残酷である。
大途絶以降、<数値海岸>からは人間世界の様子はわからなかった。そして、本書では二つの異なる世界を結びつけ、さらには経緯を明らかにしているが、そこから掘り起こされるのは痛みだ。仮想空間の中に見出されたAIたち。残酷なのは現実だけではなく、作られた現実ですら同様で、メタな視点から仮想現実を切り刻みそこから抉り出される人間性はなんともエロティックだ。
それを支えているのは、視床カードと視覚的なイメージを雄弁に語る文章があってこそ。太陽が照らし出すジェリーの透き通るような白い肌とは正反対の、異形の阿形渓ですら怪物的な存在感で圧倒する。悪意や嫌悪感を想起させる外見にもかかわらずであるが、そこにすら官能的でエロティックな雰囲気が醸造されている。
<数値海岸>で暮らすAIたちは、前作との直接的なつながりもみせている。大きな宇宙と流れの中でカットバックされる物語は、『グラン・ヴァカンス』のどこかに挿入される物語に過ぎないのか。おそらく前作と本作をあわせても、全体の何十分の一なのだろう。『グラン・ヴァカンス』をさらに本書で掘り下げ、力強い線でひとつの世界が作られた。『グラン・ヴァカンス』だけではなく、こちらも読んでから評価するべきだ。続きを早く読みたい気持ちもあるが、この余韻を引っ張ってしばらくはこのままでいいかもしれない。再読することで、はじめて読んだ時の感覚を忘れたくもないほどの作品群。次の作品が今から楽しみで、そして待つことすら苦にしない大傑作。
紙の本
仮想空間のなかの「官能」
2011/10/28 21:04
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
「廃園の天使」シリーズの第二作。このシリーズは長篇三作とその他中短篇からなる予定だという。たまに全三作と勘違いして、あと一冊で終わると思っている人がいるけれど、違います。
『グラン・ヴァカンス』ではずっと数値海岸内での事件が扱われていたけれど今作では外部と内部、あるいはその両方にまたがった話が収められていて、数値海岸がいかにしてできたのか、そして大途絶はどうして起こったのかという謎が明かされる。
というわけで話や設定的にも『グラン・ヴァカンス』読者には必読の一冊。以前何度か飛浩隆はSFのようで何か違うことをしている感じがあると書いたような覚えがあるけれど、ひとつ自分のなかではっきりしたのは、それが「官能」だということだ。SF設定や仮想世界、AI等の道具立てを使いつつ、現実ではあり得ない形での恐れや愉楽を濃密に描き出していくのが飛のスタイルだ。
たとえば、「ラギッド・ガール」で安奈自身が編み目をほどくように解されていく印象的なシーンがそれだ。普通はこういう設定だとイーガン等のようにアイデンティティの問題に焦点が当たりがちだけれど、飛はここに色濃い官能的な描写をぶちこむ。サブタイトルが「Unweaving the Humanbeing」というのはそのことを示唆している。これはシリーズ全体に対してもそうだろう。この意味で、特に「ラギッド・ガール」と「クローゼット」がインパクト大だった。後半の派手なアクション中篇等どれも面白い。
読んでいる間にずっと頭に浮かんでいたのが松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』だった。もう随分前に読んだきりなので、ちょっと具体的に思い出せないのだけれど、レズビアンを描くこの作品では、皮膚同士の触れ合いの瞬間が非常にエロチックだったのを覚えている。私は「官能」ときくと、そうした身体の接触をイメージする。仮想人格、ヴァーチャルリアリティ等、非身体性を強調するような舞台のなかで、きわめて身体的な「官能」の様態を描き出そうとする矛盾は、かなり意図的に選択されたものだろう。
やはり飛浩隆は図抜けているなあと思う。自分の読んだなかでは、2000年代は伊藤計劃、円城塔、飛浩隆の三人は格が違うという印象だ。
ちなみに、「ラギッド・ガール」の副題「Unweaving the Humanbeing」を「Unweaving the Rainbow」とすると、ニュートンによるプリズム分光等の科学的発見が、文学の詩情を破壊したとして非難したジョン・キーツの詩『ラミア』の一節「Unweave a rainbow」に対して科学の詩情を擁護したリチャード・ドーキンスの『虹の解体』の原題となる。意識してるかも知れない。