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とにかく、「山口組」という言葉から抱く印象と、本書の記述内容の乖離ぶりが面白かった。宮崎学「近代ヤクザ肯定論」等の記述と矛盾する箇所もあって、自伝ならではのエピソードの美化があるものと思われます。
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弱きを助けた田岡氏の生涯。しっかりとしたビジョンと面倒見の良さを持っている事が、組の拡大と発展に繋がったのだと思う。晩年は肥大化し過ぎた組織と、国へ睨まれた事が衰退の原因となったが、夫を支え続けた妻の器は本当に大きなものである。
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自分の依拠する秩序とまったく異なる秩序が厳然とあるとわかることは、希望である。退屈な日常の絶対性を峻拒してくれるからだ。
かつてはオカルト、今は裏社会。そして裏社会はオカルトと違って、確かに存在する。
近代日本で最も有名な親分の自叙伝。書いたのは明らかにゴーストライターだと思うが、朱を入れた場所を想像できて面白い。
前半と後半は、それなりに彼自身の肉声を感じさせるが、抗争を扱った中盤は責任問題を避けるためか、伝聞や小説的な手法で描かれる。執筆者の名が田岡である意味は皆無だ。
自己告白の陥穽という問題もある。しょせんヤクザは「意地」の仕事である。だがこうして自己告白という体裁では「意地」よりも「見栄」が顔を出す。第三者の言葉を引用して、自己を賞賛させるのは、あざとく、見苦しいではないか。今で言えば、自己賞賛ツイートを自らRTするようなものだ。
大親分のやることではない。意地とは、行動をしてかたらしむものであろう。彼は確かに傑物だったのかもしれない。だが、ヤクザは自ら語らない方がよい。語るうちに、必ず俗物に堕ちている。二代目をくさすような言い方は、貧乏臭い。
ただし、あとがきにあった彼の教育方針はよかった。息子が書いている。「桜なら桜に、ぺんぺん草ならぺんぺん草になるだろう。ぺんぺん草を桜にするようなことはせず、ぺんぺん草を全うできるようにする」と。
肩書きや学歴などは、無理をして得るものではない。その人間らしい仕事、居場所、友人があれば良い。幾多ものぺんぺん草をまとめ育て上げた男だから、この言葉には実感がこもっている。そして田岡は、ぺんぺん草がもっとも太いぺんぺん草として輝いたということだ。