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読むだけで心が洗われる感覚がありましたね。あまりにも清くなりすぎて俗世が疎くなりましたよ。一人で悩んでいる人におすすめします。
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神谷美恵子が、少女時代に出会い、生涯の愛読書とした作品。
ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスが、ストア哲学に基づいて、自らの言動を省み、瞑想した記録の書だが、今風に言えば日記ということになるだろう。
しかし、書籍でもネット上でも数多あふれる日記と明らかに次元を異にするのは、愚痴も他人への不平もなく、ただひたすら己を善くあらしめようとする姿勢の強靱さである。人に見せることを前提としない記録において、これだけ自己のみを批判し、他人を攻撃しようとしない精神とは、一体どのようなものだったのだろうか。
神谷美恵子の解説は、平易な文章ながらこの書の魅力を非常によく伝えている。
「ストア哲学は、現代の我々にとっては、内に新しい生命力を湧き上がらせるようなものではないが、マルクスの魂に宿ったストア精神はなんと魅力的なものであろう。それは、彼がこの思想を身をもって生き、生かしたからである」
という記述は、なぜ背後の哲学が寿命尽きた後も、この作品が読み継がれてきたかを教えてくれる。
余談ながら、私は同じような感想を、シモーヌ・ヴェーユの散文に対して持った。シモーヌ・ヴェーユという人間そのものには聖性を感じるが、彼女の思想そのものにはあまりそれを感じない。ただ彼女がその思想を、既存の権威に頼ることなく、妥協せずに追求し磨き続けたということが素晴らしいと思う。逆に言えば、彼女の思想や哲学を、現代の哲学者が語ることには、ほとんど意味を感じられない。一代限りの学問があるように、一代限りの思想というのも、恐らく存在するのだろう。
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ローマ皇帝五賢帝の一人、哲人皇帝と呼ばれたマルクス・アウレリウスの著作。内容については哲学的だが、現代人にも示唆に富む内容になっている。何度読んでも新しい発見があるため、定期的にページを開く1冊です。
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いやーこれは、本ではないねー。ジャンル的には図書であるが、語録の類ですね。昔のヨーロッパのある王様の語録です。なかには、本当は何が言いたかったのかわからない文章もあって、それの真の意味は何かを類推するのも一興である。まあ人生の折り返し地点を過ぎている私としては。こころに残った文章は、以下のとおり。「わずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。よく熟れたオリーブの実が自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。」なかなか含蓄のある文章ではないですか。
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どんなビジネス本よりも説得力がある、古代人の哲学。
神谷美恵子女史の翻訳のおかげか大変スムーズに読むことができた。
ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスの内省をしたためたものであるが、現代にも十分通用する内容である。時折わかりづらい部分も多くあるが、仕方がない。マルクスが誰かのためにかいたものではなく、自身のために作成したものである点や書き写しによる伝承も時折、著者の意図としないものもあるからだろう。
人間の脳の進化なぞ5-6万年前にはすでにとまっているなどとも言われているが、人間の体が如何に進化しようと、思考する力は大きくかわるのだろうか。生身の人間の脳みそがデジタル機器にとってかわらない限り、いちいの考え方にはならないであろう。そのように考えてみると、孔子や孟子、デカルトやプラトンらが考え得て説いたことは何も昔の昔のお話ではないと。
マルクス・アウレーリウスの読みやすさ(人によってはさっぱりわからないとか)は、現代に生きる狭い考え方の私たちを壮大な気持ちにさせてくれものと感じた。この本と出会った意味、手にとって読んでみた意味があると思う。私もこの本を手にとってみなくてはならなかった意味が実はあります。
人間は常に迷って迷って何かを決断しなければならないことが一生続きます。そのとき、何かしらの突破口や確証が得ることができるのであれば有意義な一冊になりうると思います。
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http://shiibar.blogspot.com/2011/01/blog-post_09.html
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ローマ皇帝マルクス・アウレリウスが激務の合間に自身を鼓舞するために書き付けたメモをまとめたのが本書です。そのため体系的に哲学を論じた書ではありませんが、著者の深い思索と熱い思いが伝わってきます。
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古代ローマ、賢帝のひとりマルクス・アウレリウスの手記。テルマエにも聡明な少年として出演してます(笑)が、その思考たるや現代人が読んでもまったく古さを感じさせません。
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本著は二通りの読み方がある。これは一つの実践性を説いたエッセイのようなものであると解する読み方が一つであり、もう一つは思想書、哲学書として本著を読む場合とである。マルクスアウレリウスアントニウスは、五賢帝最後の皇帝として数えられ、中でも彼は皇帝でありながら哲学者であり、本著自省禄も広く知られている。彼はストア派に属しているのだけれども、ストア派=実践性が強く、そのため現代的には廃れてしまっている分野ではあるものの、孔子の言である論語が現代でも有用であるように、ストア派も学問としては不十分でも教えとしては優れている点があり、前者的な読み方をするのに非情に適した書物である。特に彼は哲学者ではあったものの、皇帝であったため、政治を行わなければならなかった。そのため、度々想像力を働かせすぎてはいけない、だとか、哲学に耽りすぎてはいけない、だとかいったことをつづっており、思索することと政治を行うこととの折り合いをつけようと努めている節が多々見受けられ、ここに前者的読み方の意義があると思われる。ただし、後者的な読み方をする場合にはこの点がネックともなりうる(とはいえ、本当は彼もあれこれ想像し考えたかったようだけれど)。
しかし、思想や価値観自体はある程度しっかりと貫かれてはいる。無論、矛盾しているところも見受けられる。要点だけ言えば、彼は二元論者(形相因≒精神≒ 神、物質≒肉体≒質料)である(正確には三元論「肉体=肉、霊魂=息、叡智=指導理性」なのだけれど、性質的には二元論である)。精神と肉体を分けており、しかし、肉体は意志=理性を持たない従属的な存在であるとして「理性主義」を説いている。理性は「指導理性」と呼ばれ、指導という意味から自らを導く存在であると規定している。そして、指導理性は動物では人間だけが持ち、そして、各々がそれぞれ独立した指導理性を持っていると彼は言っている。そして指導理性の下、徳や精神としての美だけを求めればよいと彼は主張する。このあたりの美は定義が難しく定義した瞬間に意味が零れ落ちてしまいそうだけれども、基本的には徳を持ってよい生き方をしろ、ということなのだろうとは思う。そして、宇宙観≒自然観≒国家観としてニアリーイコールの関係が結ばれている。神がいて、宇宙をつくり宇宙は自然であり自然にはそれぞれ原理があって原理に従って、<一>として作用している。そして、我々はその一部分に過ぎない。しかし、宇宙や自然は捉えがたいし、彼が皇帝であることから、これはそのまま現実的な国家へと置き換えられている。よい理性を持ちうることはよい市民たるということであり、徳があるということは徳を持った政治を行えるということに置き換えられる。命に関しては、どれほどの人物だろうが必ず死に、やがて彼が生きていたことすら忘れ去られるのだから、そこに固執してはいけない。(このあたりがキケローとは異なる。キケローは徳者は死後人々に覚えられることによって不死となる、と考えている)。この命の不執着はストア派の基本的価値観であるが、マルクスはエピクロス派的な原子(=最小構成要素)の分散と結合を交えて死への恐怖を取り除こうとしている。つまり、分散するか、あるいは��散して統一されるか、人間もあくまで宇宙の部分に過ぎないので恐らくは統一されるか、そうでなくとも循環されるのだから、死を恐れる必要などないとしている。これは自分に言いきかせているのかもしれない。それだけストア派の教えだけでは彼の死に対する恐怖を取り除くには不十分だったと見える。
また、彼は現在主義であり、このあたりは哲学的に興味深い。宇宙の起源から遡れば人間の生は一点に過ぎないというあたりはいいとしても、過去と現在と未来との不連続性に言及しているあたりは非情に面白い。つまり、過去も未来もなく現在だけが存在していると彼は言うのである。また、時間の不連続性についてもかなり近代的な視点である。一般的にストア派は唯物論者で、彼も名前が呼べるところまで分割すればよい、と言っているあたりから唯物論者なのだろうが、ここは唯名論者と言えなくもないところがある。要するに、ものは分解できる限りそこに名前がつくのだから、唯物論と唯名論はどちらが先かとなるだけであって基本的に突き詰めれば一緒だと思われる。とはいえ、物があって名前をつけるのだから、唯物論と唯名論とはでは唯物論に軍配があがりそうではある。無論、それは客観的な世界があるという前提に立っていなければならないのだけれど。このあたりで主客問題は誰も彼も出たら目を言っているわけではなくて、一応、両方の面から考えているので、誰の言っていることもある意味でもっともなのであるというのが難しいところかもしれない……。逆に唯物論的世界観をひっくり返したのが、そもそも客観世界などなくて自らの内にある観念に合わせて対象を理解しているのではないか?という現象学的還元なのであるがこのあたりは割愛。ちなみに、彼は全て主観なりと言っているものの、主観を排除せよとも言っているので、主観を超えた指導理性があるのでそれに従うべし、と彼は主張しており、なおかつ、主観を超える客観的世界の存在もこの言い方からは仄めかされてもいると感じられる。ともかく、彼が偉大なる皇帝であったことは間違いない。おそらく当時彼の偉大さを理解できる人はいなかったのかもしれないが、今の首相やらに彼の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい気はする、なんて言うのも短絡的かもしれないけれど。
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古東哲明氏が、「瞬間」を大事にした哲学者として、プラトンとM.アウレーリウスを挙げていた。(大半の哲学者は、永遠性を重視して、瞬間や刹那には興味がないらしい)
ちなみに、本書はウチの本棚の品格を上げるのに貢献してくれている。もちろん読んではいないのだが(汗)
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古代ローマ帝国の五賢帝最後の一人で「哲人皇帝」と呼ばれるマルクス・アウレリウス・アントニウスが自分の言動を省察して綴った哲学書。
この本ではいろいろ語られていますが、気になったことを二つに大別すると、「理性に従い、生死や他人の言動、宇宙の法則など、自らの力で変えられないものに執着しない」ことと「今現在取り組むべきことに意識を向ける」ことであると思った。
前者は「公益を目的とするものでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗させてしまうな」(第二巻)、「なによりもまず、いらいらするな。なぜならすべては宇宙の自然に従っているのだ」(第八巻)、「あらゆることにおいて理性に従がう者は、悠然とかまえていながら同時に活動的であり、快活でありながら同時に落ち着いているものである」といった言葉が当てはまる。
後者は「突然ひとに『今君はなにを考えているのか』と尋ねられても、即座に正直にこれこれと答えることができるような、そんなことのみ考えるよう自分を習慣づけなくてはならない」(第三巻)、「『現在やっていることをよくやること』で足りるのである」(第六巻)、「第一に、何事もでたらめに、目的なしにやってはならない。第二に、公益以外の何ものをも行動の目的としてはならない」(第十二巻)などが該当する。
マルクス・アウレリウスは「ストイック」の語源となったストア派に分類される哲学者です。自分の言動や思考を突き詰めてクリアにしていく過程に、人柄の実直さと誠実さ、ストイックさが偲ばれる一冊。そのためか、この本はあくまでも「自省録」なのに語りかけるような文体だった。私もこの本を座右の書として言動を振り返ってみる必要があるようだ。
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169年~にローマを治めた「哲人皇帝」。
皇帝という重責職務に就きながら、内省的考察を重ね、本書を残した。
「自省録」というタイトルになんとなく惹かれて購入。
示唆に富む言葉が箇条書きのような形式で、列挙されています。
一応章分けされていますが、あまり関係ないようです。
「自分自身の魂の動きを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる。」
「私としては現在宇宙の自然が私に今持てと命ずるものを持ち、私の(内なる)自然が私に今なせ命ずることを行っているわけだ。」
「君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂の方が先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。」
「まっすぐでいるか、もしくはまっすぐにされるか。」
「すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。」
まるで、現代人を見透かすような言葉の数々。
世界史には詳しくないですが、何回も「カッコ良すぎる」と思いました。
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「目標に向かってまっしぐらに走り、わき見するな。」
面白かったな。
ストア哲学ってこういう感じなのかな。
マルクス・アウレーリウスの内省。
1世紀の思念が21世紀に生きる私に与えるものは大きい。
きっとまた読むであろう。売らない本。
「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に善き人たれ。」
また、彼の「モレスキン」を盗み見ているような感覚に捕われもしました。
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■マインド
1.現在与えられているものにたいして不満を持ち、未来に来るべきものにたいして不安をいだくことを許すな。
2.今すぐにも人生を去っていくことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること。
3.あたかも1万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、よき人たれ。
4.君になにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。
5.死を軽蔑するな。これもまた自然のよくするものの一つであるから歓迎せよ。
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途切れ途切れで読める体裁が良い。
繰り返し適当に開いたページを読む読み方でも使えると思う。
自分が気に入ったフレーズは
「まっすぐでいるか、もしくはまっすぐにされるか。」
とにかく自室のすぐ手に取れるところに置いといて気が向いたら開くようにしてみたい。