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紙の本

ドストエフスキーに熱中すると、ドストエフスキーについての本を、つい読んでしまう

2009/07/29 19:23

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

 ドストエフスキーの『白痴』とは、どんな小説なのか。無数の解釈があるだろうが、本書所収の草野慶子「『白痴』の愛と性とユートピア」は、フーリエと結びつける奇妙なほど刺激的な論稿である。
 《彼ら〔ムイシュキン、ナスターシャ、ロゴージン、アグラーヤ〕はほんとうに、結婚という形式を望んでいただろうか、それを蔑んではいなかったろうか。愛しあい、憎みあう四人のあいだの不思議な仲間意識をどう説明しよう? そしてナスターシャとアグラーヤは、ある意味、解放された新しい女であるとは言えないだろうか。》
 《主要登場人物四人の複雑な愛と憎悪の関係、異性愛と同性愛の共存、そして通常の、二者による排他的恋愛関係ではなく、三者あるいは四者の調和的関係を目指そうという彼らの不可解な志向》について草野は語る。たとえば《ナスターシャがアグラーヤに宛てた手紙の熱狂的な調子》は《まるで情熱的な愛の告白そのものだ。》
 『白痴』の物語のなかでは「結婚」というかたちをめぐって主人公たちが右往左往する。だがその内実を、このように解釈し直すと、不思議な世界が開かれるような気がする。
 書かれた小説を読むかぎりでは、そのように流動的かつ多義的に想像できる余地があるが、映画化された『白痴』は、どう見直しても退屈である。
 四方田犬彦「黒澤明の『白痴』」は、常々低くしか評価されなかったこの映画を、ワイダの『ナスターシャ』などと比較しながら、可能な限りプラス評価で救いだそうとする批評だが、なぜここでルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』に言及していないのか理解に苦しむ。
 『若者のすべて』は、そのストーリーの骨格の最重要部分をドストエフスキー『白痴』の主人公たちの三角関係に仰いでいる。原作とはかなり異なるものの、その造形力は圧倒的であり、黒澤明の『白痴』など及びもつかない。
 この映画では、ムイシュキンに相当するのがロッコ(アラン・ドロン)、ロゴージンはその兄シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)、そしてナスターシャに当たるのがナディア(アニー・ジラルド)だが、私はこの映画の彼女ほど美しく、崇高な女性を他に知らない。
 彼女は映画の終わりで、小説のナスターシャが殺されるのと同じ運命を辿るが、小説が殺人を隠したのとは逆に、ここではそのすべてが描かれる。ナディアはナイフを持って近づくシモーネを、キリストのように両手を広げて受け入れるかに見えるが、リアルな死に直面し、「死にたくない」と沼地を這う。「崇高」というのは、そのヴィスコンティ的リアルに対する私の感慨だ。
 またミラノの街を走る路面電車内でのロッコとナディアの逢瀬。小説に二人の素直な、普通の愛が描かれなかった代償であるかのような、美しいとしか言えない愛のショットだ。音楽は、そうニーノ・ロータ。

 悪い癖だと思いながら、あるものに熱中すると、〈について〉の本を、つい読んでしまう。さまざまな著者たちのエッセイと対談などからなる、この『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』(2007年6月刊、ただしその少し前の雑誌特集をかなり流用)と、『ユリイカ』のドストエフスキー特集(2007年11月号)である。
 前者の本で、沼野充義が言うように、《そもそも、ドストエフスキーに興味があるのであれば、ドストエフスキーの作品を熟読することを最優先すべき》なのだが、それでもその「さまざまな声のカーニバル」で披露されている、凄まじいばかりの世界におけるドストエフスキー研究熱を読むと、性懲りもなく、いろいろと読みたくなる。
 邦訳されたら、たとえば《アメリカの研究家、ジョゼフ・フランクによる全五巻、約二四〇〇ページを超える伝記》(1976年から2002年にかけて刊行されたこの大著については、青山南「世界のなかのドストエフスキー アメリカ」の冒頭でもふれられている)などは手にするだろう。
 だがもっとエンターテインメントだったり、現代的だったりするドストエフスキー本も邦訳が期待される。インタビューのあるロシア作家アクーニン(日本語の「悪人」からとったペンネーム!)の『F.M.』は『罪と罰』をもとにしたミステリーだ。
 他にソローキンの『ドストエフスキー・トリップ』(戯曲)、リョーフキンの『ロシア民話としてのドストエフスキー』、ミハイロフの『白痴』などがある。最後の『白痴』は、時代を現代に移したものだが、ネット上の原作の電子テクストにさまざまな加工を施した作品だという。
 ところでソローキンはインタビューで、《彼〔ドストエフスキー〕が書いたものは非常に大掛かりな台本であり、散文で書かれた戯曲大作だと思います。トルストイは映画を好みませんでしたが、ドストエフスキーならば好きになったと思いますね》と語っている。ドストエフスキーに批判的なナボコフも、《ドストエフスキーは小説家というよりむしろ劇作家にふさわしい人であったという事実を、もう一度強調したい》(『ロシア文学講義』)と綴っている。



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