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風呂敷を広げすぎていて焦点がぼやけ、やや散漫なイメージ。正直読解できているとは思えない。が、読み直す気も起きない。『大学病院のウラは墓場―医学部が患者を殺す』の方が簡明に理解できて良書だと思う。
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医療について、医師と患者の間に大きな齟齬があり、対立の原因となっている。医療は万能ではなく、不確実だ。わりばし事件 親の監督責任が正面切って議論されなかった。死亡した患者の遺族が、お金を必要としない死人に代わって膨大な賠償金を受け取る制度は、モラルハザードを引きおこしかねない。医療の不確実性は、人間の生命の複雑性と有限性、および、各個人の多様性に由来する物であり、逓減させることはできても、消滅させることはできません。一国の医療では、アクセス、コスト、クオリティをすべて満足させることはできない。
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生きる=老いるも死ぬも避けがたいという事実は、医療が発達しようと変わりない。漫画ブラックジャックの本間医師が言った「人間が生物の生き死にを左右しようなんておこがましいとは思わんかね」が、浸透した心持ち。
医療が発達していなければ、かつての出産リスクなどにより、私は今生きていないだろうが、多産であったそのときと、今では心づもりも違っている。この本で言われているかつてと現代との死生観の違いは、実は医療が作り出したのかも知れない。
・・・
(読み途中)
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医療崩壊が面白かったので買ってみたが・・・医療従事者としては医療崩壊の方が面白かったです。なんか内容が薄い感じ。実家へ
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『患者はこう考えます。現代医学は万能で、あらゆる病気はたちどころに発見され、適切な治療を受ければ、まず死ぬことはない。医療にリスクを伴ってはならず、100パーセント安全が保障されなければならない。善い医師による正しい治療では有害なことは起こり得ず、もし起こったなら、その医師は非難されるべき悪い医師である。医師や看護師はたとえ苛酷な労働条件のもとでも、過ちがあってはならない。医療過誤は、人員配置やシステムの問題ではなく、あくまで善悪の問題である。』
ここまで書かれたらさすがに誰でも「これはおかしいな」と思うだろうが、実際に大病をすると動転して本性が現れてくる。
著者は「死生観」がなくなったと述べる。
感情のレベルで「いつかは死ぬ」ということを納得するためには、やっぱりどうしても若いうちに誰かの死を見る必要があるのだろうと思った。
今の社会では出産も死も生活から隠されている。
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「医療崩壊〜立ち去り型サボタージュとは何か」の著者である小松秀樹医師の著書。
正直、前作より書き散らした感は否めない。でも死生観とか思想とかについて半分近く著述しているのを読むに、どんなに現実に即した制度設計をしても最後は人一人ひとりの考え方が変わっていかないといけないんだなぁと感じた。
新自由主義やらに関する彼の主張には、政治思想なんかをやっている人たちからすると「何を素人が!」と思うようなところもあるのかもしれない。少なくとも僕自身は彼には語ることのできる能力はあると思っているし、現実の本当に第一線にいる人が思想を語ったり思想を学んだりするということは、とても大事なことだと思う。
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日本人の死生観がかわってしまった。
その中に自分もいるんだなーって。
そして、健康だけど医療に近い経験を何度もしている自分にとっては
医療=不完全なものという考え方はなんか納得してる。
でも読んでおいて損はない。
これからの日本の医療はどうなるんでしょうか。
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「医療崩壊」の新書版。医療問題の本というより思想書として興味深く読んだ。特にオルテガの引用のくだりは、医療現場のみならず、現代日本の病理を如実に示しているようで、慄然とした。
大衆は、「文明の利点の中に、非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持しうる奇跡的な発明と構築を見て取らない」、故に「自分達の役割は、それを生得的な権利であるがごとく、断固として要求することにのみあると信じる」。
安全も平和も決して当たり前のことではない。自分の知らない所で誰かが汗や血を流し、かろうじて現状が維持されているのだ。そういうことに人々が思いを馳せることができなくなった時、システムは崩壊への道を辿るのだろう。せめて崩壊を加速させないために、今の自分にできることは、学ぶことしかない。
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医師側からの視線を踏まえて、現代医療の問題点が包み隠さず書かれています。このままでは、医療従事者がいなくなるという結論に納得します。
医療と司法の関係、アメリカの資本主義が介入した医療制度などが書かれていたところが、私的には☆5つの要素です。客観的意見をきちんと踏まえた上で、主観的意見を述べているところに僕は魅かれます。震災のとき皆で助け合うということが、当たり前になっている日本人に生まれて幸せだと思います。
著者は賢い人だというのが、文面で伝わってきます。おススメです。
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日本人を律してきた考え方の土台が崩れています。死生観が失われました。生きる覚悟なくなり、不安が心を支配しています。不確実なことをそのまま受け入れる大人の余裕と諦観が失われました。
慢性的な栄養不足があると、ちょっとした病気で人はすぐに死にます。バングラデシュには、医療援助より、経済援助がはるかに重要だということなのです。
中世、ペストが大流行したヨーロッパでは、短期間に地域の三分の一もの人が死亡するような状況があった。不可避の死を常に意識し、だからこそより良く生きることが求められたのです。
日本にも昔から「無常観」という、長い歳月のなかで磨かれた死生観があります。多くの人が生まれ、それぞれの生を営み、あるものは子をなし、死んで行く。家族の誰かが死ねば悲しい、それは当然です。しかし家族の死の悲しみは、歴史的に無数に繰り返されてきたことです。悲しみは死があってこそであり、死がなければ、人は死を望むに違いありません。
医療行為は不確実です。医療の基本言語は統計学であり、同じ条件の患者に同じ医療を行っても、結果は単一にならず、分散するというのが医師の常識です。
では、安心とはどういうものか。人は必ず死にます。しかもいつ死ぬぬかわかりません。医師の医療上の予想はあくまで過去の統計に基づくもので、確立で表現されます。五年後の生存碓率が50%セント、という程度の表現しかできない.個々の人間について、将来の生命を正確に予慰することは不可能です。厳密にいえば、ある個人が明日生きているかどうかも、医師には正確に予想する能力はありません。死ぬことを恐れる限り、誰でもいつか必ず死ぬわけですから、絶対に安心はできないということです。死を受け入れない限り、安心は得られません 安心というのは、病院が提供できるものではなく個人の心の間題でしかありません。
「今日の人は、『覚悟』 というと、何か特別な危機に見舞われたときに心を決めることのように考えております。しかし、『覚悟』 が特別なことのように思えるというのは、むしろ我々の覚悟のなさを証し立てているのです」 菅野氏:『武士道に学ぶ』
「人は誰も、人生において成すべきことが皆遂げられたときに、はじめて死がやってくるもののように思いこんでいます。しかし、よく考えればそんなことはありえないので、用事が済もうが済むまいが、こちらの都合とは関係なしに死はやってくるのですし、人生というのも本当はそういう仕掛けになっているわけです。ですから、我々
の思い込みこそはまさに夢なのであって、人生の本当のところは、死がいつも 『足下に来る』 ということなのです」
当然ですが、誰かを非難するときに、自分が非難される可能性を担保しておかなければ、自分の正当性が損なわれます。戸外で小さな子どもに箸をくわえさせたまま歩かせることの責任をどう評価するのか。さまざまな考え方があると思います。それゆえに、救急医療を担当した医師の責任について議論するのとは別に、親の責任についても落ち着いた議論が必要だったと思うのです。
がんの免疫療法の総説論文を読んだことがあります。総説とは、原著論文のように、自分のデータに基づいて新しいことをいうのではなく、ある分野についての多数の論文を読んで、その分野の知見と動きをまとめるものです。この論文を記憶しているのは、最後の結論部分にあった言葉のためです。「がん治療のこの分野では、しばしば、期待は結果と混同されてきた」と書かれていました。
私は、外科医は 「勇気あるペシミスト」でなければならないと若い医師に教えています
複数の選択肢があるとき、治療法を決定する場面で、医師は控えめにならざるを得ない。医師のライフスタイルや人生への処し方は患者のそれとは異なります。最終的に 「えいや」と決めるのは患者本人しかいないのです
そもそも医療は、こうしたらよかったのでは、あのときはこちらの選択の方がよかったかもしれない、という反省を始終反復しながら進歩していますふ医療は多くの選択を伴うものであり、同時に取りえない方針もしばしばある。
賠償には非嫌というものが含まれています。無理なことの責任を負わせて.現場を非難すると、現場の上気が低下します。また、父母に対して、あらゆることを学校に要求してよいというメッセージを送ったことになります。これが教育規規にいかなる悪影響を及はしたか、私たちは考える必要があると思います。
医療についても同じて、賠償は金銭の負担だけでなく、その中には非難が含まれるそれが医療に対する攻撃を承認しているのです。
脳性まひの子どもを持った親は、その後の人生を、障害を持った子どもの世話に捧げることになります。自分の人生がなくなってしまう。私は、医療過誤の有無に関係なく社会が全面的に援助すべきだと思っています。このような患者に対しては、無過失補償制度で、患者側と医療側を対立させることなく、補償すべきです。無過失補償制度とは、スウェーデンを例にとると、避けられた傷害かどうかを検討する。過誤の有無を立証しようとしない。互いに対立させないようにして、避けられた傷害に対して補償をする制度です。
「偏りの無い客観データの集積と分析が何より大事な我々の世界と、主観と結論に基づいた証拠の恣意的取捨選択や、〝ストーリーがよくできていること〞 が大事な彼らの世界と。違いすぎて、想像もしなかった世界」
「なぜ 『暴走』 かというと、しつこいようだが、この過程に個人の責任と理性の関与、すなわち、自立した個人による制御が及んでいないからである。一定の条件を持つ言説を報道システムに投入すると、自動反復現象が発生するようにみえる。報道の反復現象、すなわち、『世論』 形成は、システムの制御の問題であり、マイクとスピーカーを向き合わせたときにおこる音量の急激な増幅のような、機械的エラーに似た一面がある」
人間は環境の影響を受けやすく疲れやすい。そのためしばしば間違えます。ミスをしたいと思ってミスを犯す人はいません。人間をシステムの部品とみた場合、信頼性は非常に低いのです。ヒューマン・ファクター工学では、人間の過失の多くは原因ではなく、誘発された結果と理解される
「多くの診療行為は、身体に対する侵襲 (ダメージ) を伴います。通常、診療行為による利益が侵製の不利益を上回ります。しかし、医療は本質的に不確実です。過失がなくとも重大な合併症や事故が起こり得ます。診療行為と無関係の病気や加齢に伴う症状が診療行為の前後に発症することもあります。合併症や偶発症が起これば、もちろん治療には最善を尽くしますが、死に至ることもあり得ます。予想される重要な合併症については説明します。しかし、極めて稀なものや予想外のものもあり、全ての可能性を言い尽くすことはできません。こうした医療の不確実性は、人間の生命の複雑性と有限性、および、各個人の多様性に由来するものであり、低減させることはできても、消滅させることはできません。過失による身体障害があれば病院側に賠償責任が生じます。しかし、過失を伴わない合併症・偶発症に賠償責任は生じません。こうした危険があることを承知した上で同意書に署名して下さい。疑問があるときは、納得できるまで質問して下さい。納得できない場合は、無理に結論を出さずに、他の医師の意見を聞くことをお勧めします。必要な資料は提供します。他の医師の意見を求めることで不利な扱いを受けることはありません」
【原則】1(医師の責任) 医師の医療上の判断は命令や強制ではなく、自らの知識と良心に基づく。したがって、医師の医療における言葉と行動には常に個人的責任を伴う。
【原則】4(診療行為とその正当化の手続き) 医療は個々の診療行為とそれを正当なものにする手続きからなる。診療行為正当化の手続きとは、診療行為実施の前に、適切な手順で適切な内容の説明を行ない合意を得ること、また、実施後、結果と診療行為を通して得られた情報を患者に伝達して理解を得ることからなる。
【原則】5(医療の不確実性) 医療はしばしば身体に対する侵聾を伴う。人間の生命の複雑性と有限性、及び、各個人の多様性ゆえに、医療は本質的に不確実である。医療が有害になりうること、医療にできることには限界があることを常に自覚して謙虚な態度で診療にあたる。
これは他の施設との交流がなさすぎたため、他の施設がどの程度の水準なのかを知らなかったからだと思います。外部委員会は院内の管理体制を整備することを提案していましたが、私は外部委員会の提案に従っても、この大学の泌尿器科の医療水準を向上させることはできないと思います。これは、院内だけで解決できません。世界の水準を知らず、向上のための指標を持たず、自己の水準に満足していたことが、このような結果を招いたのだと思います。
医師が、個人の能力を伸ばすための条件は、①たくさんの患者を診られる ②勉強する時間がとれる ③議論できる仲間がいる ④他との交流ができる、ことです。この四条件の中で、研修病院には、勉強する時間が足りないこと、仲間が少ないこと、交流がないことが決定的な問題です
一国の医療ではアクセス、コスト、クオリティ、これらすべてを満足させることはできないとされています
アメリカではあからさまな競争を通じた生存が可能で、自律、欲望追求と移住の自由が尊重される。個人の利己的欲望を追求する努力の総和がそのまま社会の利益であると理解され、「自我拡張的意識」が形成されます。こういう場所での自己実現とは、自己の才能や欲望の具現化です。典型的な閉鎖系の場として、江戸期の日本が挙げられます。閉鎖系の場では移動が制限され、異文化的人間との交流が少ない。貧しく狭い場所で、少ない資源を奪い合うと共倒れになります。こういうところでは自我縮小的心理が形成されます。謙遜、自責、協調が重視され、対立や競争を避けるようになる。自己の欲望は抑制されるべきもので、自己実現とは他者から期待された自分の役割を果たし、人間関係を良好に
することです。「足るを知る」 「分を知る」という言葉に象徴されます。
日本の現在の医療や教育の崩壊は、特殊な人たちの過大な自由をあまりに尊重しすぎるために、多くの人たちの自由を阻害しているところにある。義務教育は身勝手な親に破壊されようとしています。万人の適切な自由を確保するために、特殊な個人の自由を制限することを制度化すべき段階ではないでしょうか。私のこの考えは当たり前のことだと思いますが、現在の日本の問題は、当たり前のことが当た
り前として通用しなくなっていること
「この競争社会で、年に数回しか日本語をしゃべらないような生活をしたことは、自分では気がつかなかったものの、わたしの価値観、思考態度に深い影響を与えていた。たとえば、時として対決をいとわぬ姿勢や即座に意思決定を行う自我が形成され、能力主義的価値観という偏光プリズムを通して世界を見るようになっていた。
医師法第一九条で 「応召義務」 が規定されています。正当な事由なしに診療を断ることができないということですが、逆に言えば、正当な事由があれば断ってもいいということです。私は、断るための条件を明確にすることが、医療を保全して普通の患者を守るために必要だと思います。
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現在の医療制度の問題点を論じた本。世間が医療過誤を批判する中で、これからの医療がどうなっていくかを危惧し、また、市場原理が医療の世界に働くことによる問題点を論じている。
いわく、アメリカでは市場原理に基づいているため、医療費は驚くほど高く、医療費のせいで自己破産する中産階級も多数いると。日本の国民性や社会の成り立ちを考えれば、市場原理にゆだねるのは好ましいことではないように思える。その中で、医師が自ら望んでよりよい医療を提供できるような社会を作ることが大事なのだと思う。
たとえば、アメリカでは訴訟のリスクはあるが、高額な報酬と見合っている。一方、最近の日本では個人のミスを訴追する風潮があり、病院のシステムに問題のあるような事件でも医師が告訴される場面が増えている。そんな中で報酬は従来通りであり、そうなれば、開業医となってリスクの少ない医療をしようという医者が増え、医療崩壊に至るのも当然であろう。
医師という職業が金と名誉を伴う職業であったのは昔の話であり、賃金と労働の比率は崩壊し、医師という職業に対する敬意もなくなりつつあると言えるだろう。
人間の生命に直接的に関与するという意味では、利益を超越した次元で存在するべき職業かもしれないが、妥当な社会環境が整っていなければ意欲をそがれるのも仕方がないと思う。
では、そのような状況で一人の医師としてできることは何か。
相応の立場に立ち改革することを目指すのも一つの道だと思う。
臨床の現場で過酷な労働をしながらも一人ひとりの患者と丁寧に向き合って、個人として実力を備えた、尊敬できる医師となることもまた一つの道だと思う。
考えさせられることは多いが、焦点がぼやけていた感じが否めない。
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「人間はいつか死ぬのだから医者はみんなやぶ医者だ。医療には限界がある」
この言葉にびっくりしました。
よく考えれば当たり前のことだけど、
盲目的に医者ならどんな病気でも確実に直してくれると思ってた
この考えが大変なことを引き起こしていたんだな
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購入
「正しい市場とは、競争原理が機能し、情報へのアクセスが平等でふんだんにあると言う前提で、消費者が自ら参加するゲームである。医療では誰もが平等に情報を得て、しかも、それを正しく理解できるなどということはかつてなかったし、未来永劫ありえない。医療はゲームではない。医療は社会的善であり、公平でなければならない。患者は消費者ではなく、純粋に、ただ単に患者なのである」『ランセット05年5月』
医者の気持ちや訴えがよくわかる。
ただ一方で、ミスが起きればそれは誰の責任であっても「患者は死にさらされる」のである。
もしかしたら日本の医療事故はもっと減らすことが出来るのではないかな?
医者に負担をかけるのではなく、プロセスイノベーションやプロダクトイノベーションの段階で。
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「医療崩壊」を簡略化した感じの本。
「医療崩壊」を読んだ人には物足りないかもしれないけれど、専門でない人が読むには、医療の現状を知るにいい1冊。
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日本人は死生観を失った。リスクのない治療はない。患者は消費者ではない-。医療の現場を崩壊させる、際限のない社会の「安心.安全」要求、科学を理解しない刑事司法のレトリック、コストとクオリティを無視した建前ばかりの行政制度など、さまざまな要因を、具体例とともに思想的見地まで掘り下げて論及する。いったい医療は誰のものか?日本の医療が直面する重大な選択肢を鋭く問う。(出版社/著者からの内容紹介より)