晩年のスタイル みんなのレビュー

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投稿者：ブルース　-　この投稿者のレビュー一覧を見る

著者のエドワード・W・サイードは、改めて言うまでもないが、名著『オリエンタリズム』で広く知られたパレスティナ出身の著名な比較文学研究者である。本書は、サイードが死去する前に芸術家たちの晩年のあり方について書き残した一連のエッセーを、近親者や友人たちが編集して出版したものである。

通常、芸術家の晩年というと、成熟期を経て円熟した明朗な精神に達し、死の直前まで揺ぎ無い自信をもって創作に勤しむ姿を思い浮かべる。活躍した分野や時代は異なるが、シェークスピア・マチス・バッハ・ヴェルディ・ワーグナーなどの豊穣なる晩年がそれに該当しよう。
他方、芸術家の中には、晩年に至っても、絶えず矛盾と葛藤に引き裂かれ続け、苦しくとも安易な妥協はせずに新しい表現形式を模索する途を貫いたあげく、世間の無理解に晒され悲劇的な生涯を終える人たちもいる。
サイードは、このような苦悩に満ちた晩年をあえて担った芸術家の創作上の軌跡を、「晩年のスタイル」と名づけ一連の探求を行っている。

本書の中で論じられるのは、作曲家のベートーベン・シェーンベルク・モーツアルト・R・シュトラウス、ピアニストのグレン・グールド、作家のトーマス・マン、古代ギリシャの劇作家エウリピデス、哲学者のアドルノ、映画監督のヴィスコンティなど多岐に渡っている。このうち、サイードが最も多くのページを割き共感を込めて論じているのが、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの晩年である。

サイードによれば、ベートーベンが晩年に辿り着いた音楽（三曲の後期ピアノソナタや六曲の後期弦楽四重奏曲、荘厳ミサ曲）は、これまでに無い個人的な葛藤と不安定さを背景にしながらも深い精神性が滲み出ており、「それ以前に作られた作品のように自信たっぷりと語りかけて来る作風とは全くかけ離れたものであった」という。それ故、これらの後期作品は、技法上の破格な試みも手伝って、当時の聴衆には受け入れられずに、ベートーベンは社会的に深い孤立に苛まれたという。大作曲家はそれにもめげずに、安易な妥協はせずに死に至るまで自らの表現形式を果敢に探求し続けており、サイードはここに典型的な芸術家の晩年のスタイルを見ている。

ベートーベンの上述のようなあり方は、視点を変えれば、何も芸術家ばかりではなく、老いても革新的な意志を失わない人間のあるべき姿と呼んで差し支えないのかもしれない。サイードが死の直前まで芸術家たちの晩年のスタイルの研究に打ち込んでいたのも、単に芸術・文化論を展開する以上に、自らの存在意義、あるいは自らの晩年のあり方について深い思いを巡らせていたからであるのかもしれない。

なお、本書の表紙には、大江健三郎の「文化芸術的にもっとも豊かな本。本を読む喜びと生きていく希望を呼び起こす」という手書きの評語が載せられているが、サイードの重厚でありながら美しい思索に満ちた遺著の内容を上手く表していると言えよう。