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❖どうしても映画との違いに意識が向いてしまう。映画と原作(本作)が重なりを見せる前半部と明確に異なる後半部とでは感想も違ったものとなった。
前半部について・・ウンラート教授の人物像(暴君)のその屈折ぶりや奇矯にひきつけられた。性格は歪な幼児性をおびて異様かつ悪質。常に高圧的で猜疑心を澱ませひとを呪っている。また復讐心ももの凄い。暗い情念を内にためて燃やし、そうして生きる気力を高めている。映画で描かれる教授はそこまでの酷い歪みはなかった。
そんな主人公に嫌悪感を抱きつつも、自分に似た心の動きをすることに意外感というか驚きを持った。というのも映画の主人公に対しては、最後まで客観視されて自分の似姿を教授を見ることはなかったからである。原作では教授の心理描写が追って細かくされるけれど、フレーリヒに向かうそのマゾヒズムをおびた思考(欲望)は自分にはしっくり理解できた。たとえばそれは谷崎潤一郎『痴人の愛』などにみる、主従関係に身を置く(落とす)ことの甘美さに近いものである。解説にも指摘されてあるが、二人の関係のありようから作家自身の姿を教授の中にみることは的確であると思うし、自分も読んでいて主人公の姿に作家は自分を重ねていると思った(著者がその作品の主人公の分身であることは程度の差こそあれあるものだけど・・・)。
後半部は映画との乖離が明確になる。教授の人物像の歪みは嵩じ、肥大して悪魔(怪物)的なものとなる。誰かれなしに相手を陥れる卑劣を行い、それを愉しむ陰湿さ。
終盤、かつての教授の教え子ローマン(教授の天敵?)が物語の中央に登場する。成長した彼の目に映る色の失せた故郷の街・・社会と人間への幻滅は興味深く共感もされた。いまわしい怪物(まさに汚物)になり果てた教授に対峙するものの、かつて抱いた憐憫からくる好意は彼からきえ、もう唾棄すべき存在でしかなくなる。自分も同様に変わり果てた教授のその不気味に興味は感じたが、やや人物の魅力は減じたように思う。
映画では教授の転落ぶりに、その人生の残酷にため息し、主人公の末路に同情と哀憐(哀感)が残された。ローマンが抱いたであろう教授への興味(視線)は、映画で描かれたところのこうした教授像であったように思われる。原作の方の主人公には自身の招いた酷薄な顛末にそうした感情はほとんど抱かない。
また映画ではフレーリヒの人物像はファム的魔性の魅力が強く(ディートリヒの強烈!)、圧倒的でもあったが、原作ではせいぜい小悪魔的な存在感しか感じられなかった。