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私は学校が嫌いだった。もっというと教育が嫌いだった。それが今ではこんな職についているわけで気分は複雑なのなだが、そうならそうで、今自分が何をしているのかは知っておきたいと思う。
教育に対して私がどうしても嫌だったのは、
(1)自らを型にはめてもらう権利、という倒錯した、まさに性的倒錯としか言いようのないようないやらしさ。
(2)そしてその性的倒錯に無自覚であることの汚らしさ。
(3)教育には権力の行使が不可欠であるのに、権力を行使している自覚も覚悟もないことのずるさ。
ということによる。私にとって学校とはこういうものであり、教育というのはこういう構造的ないやらしさ・汚らしさ・ずるさを内包したものであった。
この仕事に心理的に距離を置いておきたいというのはここに由来している。
この本は、これに対して明快な説明をしてくれる。まさに目から鱗だった。
(1)教育をうける権利というのは日本独自
「受ける権利」ってなんだよ、と思っていた。子供は自然なので馴致されなければ使いもにならない。将来使い物になるために型にはめてもらう権利である、ということなんだろうけど、筋は通っているがあまりにも暗い。諸外国はそうではないということをを知って、曇天が晴れるような気分であった。
(2)生存権⇒労働権⇒学習権
基本的人権はまず生きていくという生存権がなければならない。これは当然だ。死んでしまっては人権もなにもない。
生存権確保のためには労働権が保障されなければならない。身分によって飯が食えることを否定したのならばこれもまた近代社会としては当然の要請である。しかし近代社会では何の訓練も受けずに仕事ができるものではないから、労働権を保障するために、職業訓練を受ける学習権が必要である。
非常に分かりやすい。もっともである。世界人権宣言も各国の教育権もこういう構造になっている。
しかし、これでリミッターが外れたってわけじゃないにせよ、少なくとも理論的支柱を得たことは事実だ。生存権⇒労働権⇒学習権の順序で考える限り、そこには(1)のいやらしさと(2)のずるさはない。(3)は依然残り続けるが、それは権力行使に自覚的であればいいということだけだ。