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紙の本
なぜ「なぜ意識は実在しないのか」と問うのか
2008/06/15 16:50
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
「なぜ意識は実在しないのか」って、変な問いだと思いませんか?
これが「なぜ神は存在しないのか」だったら、無神論の立場から神の不在を論証しようとしているのか、それとも有神論の立場から逆説的に神の存在証明を企てているのかのどちらかだとあたりをつけることができます。
ところが、意識が実在をめぐる意見の対立は、神の存在をめぐる対立ほどには明確ではないと思います。
そんなことはないと反論されるかもしれませんね。一方に、意識なんて脳がつくりだした幻だと考える唯物論者がいて、他方に、そう考えること自体が実は意識現象なのだから、そう考えているかぎり意識はあると主張する唯心論者がいる。
でも、「なぜ意識は『存在』しないのか」ではなくて、「なぜ意識は『実在』しないのか」ですよ。意識というものがどこかに存在するかどうかではなくて、今・ここで・現実に存在しているかどうかです。いやあ、昨日までは確かにいたんですがねえ、あいにく今日は……、とか、かつては神がいたが現代では神は死んだ、といった話とはまったく次元が違うんです。
それに、脳がつくりだすかどうかは別として、唯物論者や唯心論者が想定している意識って誰にでもある「一般的な意識」という概念のことで、そんなものを見た人は誰もいません。
意識とは「この私の意識」のことです。「事例がその一つしかないのだから、一般的なものではなくて、その唯一の事例は、私のそれであって、私のそれでしかありえない」。だから、「本当は『これ』としか言えない」と永井さんはいいます。
では、そういう意味での意識は実在するのかというと、それが「実在する」といえるのは永井さんだけで、でも、永井さんがそういったとたん、「その通り。そういう意味の意識だったら実在する。どこにって? ほら、ここにあるこの『これ』が」と、きっと誰かが応答するでしょう。
そうすると、そのどちらかが間違っているのでないかぎり、事例がたった一つしかないはずの意識が複数あることになります。これはもう「一般的な意識」ですよね。だから、「実在する」と誰かが言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」ことになる。つまり、その二人ともが正しいとしたら(ある意味では、つまり意識という言葉の一般的な定義からいえば、それは正しいに決まっている)、その正しさゆえに、二人とも間違っている(二人ともゾンビである)ことになるんです。
そういうわけで、永井さんは、初日の講義の最後にこう語っています。「意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。」
で、第2日目、第3日目と講義はつづき、最後の最後の質疑応答で、「この講義が言おうとしていることも、やはり『言えない』ということにはなりませんか?」「それはおそらく正しい解釈だろうと思います」というやりとりで終わります。
この本は「台本」のようなものだと永井さんは「はじめに」に書いています。そうだとしたら、台本は実演されるためにあるものなのですから、できれば声にだして最初から最後まで読むことでしか、この本を理解することはできません。そして、この本を理解するということは、「言葉よりも手前にある」ことを言葉で理解するということなのですから、結局、何をどう理解したのかは「言えない」ことになります。
問いが変なら、その答え(の理解のされ方)も変です。でも、これが永井哲学を体験するということなのです。
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