紙の本
デジタル時代の文章術として要求されるのは編集能力か?
2008/01/16 20:18
5人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:k-kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
この文庫本の原著(単行本)が刊行されたのは2002年。6年前である。いま読み直してみると、著者・斎藤美奈子のパースペクティブな視点にあらためて感心する。谷崎潤一郎に始まった文章読本の系譜と、教科書に代表される国語教育の流れを俯瞰して教えてくれる。
文章には「情報伝達」と「自己表現」の2つの目的があるという。「伝達の文章」とはたとえば会社に提出するレポートとか企画書だ。この「伝達の文章」――社会生活上で必須――を書く訓練を学校で受けた記憶がないだろう。もっぱら「自己表現」の作文練習ではなかっったか。文章読本は、この学校教育の不備を補完する役割も担って来たのだ。
世の中はインターネットで代表されるデジタル時代に突入している。著者はすでに6年前にも、メールの普及で「対面型の文章」が普及してきたと注目している。「掲示板」の文章は、書き言葉ではあっても、限りなく話し言葉に近いのだ。双方向型のメディア社会で求められるのは、コミュニケーション型の文章であるはずだと。
「読み書き」をめぐる状況は劇的に変わったという。デジタル文章術について、この文庫本では新しく章を起こしているが、パソコンとかインターネットの普及により、印刷という段階をふまないテキストが大量に流通しだしたことに注目すべきだ。かつては印刷物の形で配布されたビジネス文書(伝達の文章)などがメールで送付されるようになったことも。
電子メディア(デジタル)時代の文章術に必要なのは「編集能力」だ。「読みやすくする工夫」「見た目の工夫」が何よりも重要だという。旧来の心得――「わかりやすく書け」「短く書け」など――が強調されるのは当然として、画面をスクロールしながら読むのだから、文書の見た目まで含めたプレゼンテーション術としての心得が要求されるわけだ。「魅力的な見出しをつけよ」とか「長いテキストは小見出しをつけて分割せよ」等々だ。
学校教育でも新たな課題が増えている。そこで求められているのも、文章力というより、やっぱり「編集能力」ではないかと。小学校中学年くらいから「調べて書く」「取材して書く」「案内状を作る」「説明書を作る」「パンフレットを作る」といった課題が出され、プレゼンテーションのワザが要求される。
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「趣味は読書。」的なものを期待して購入しましたが、自分が勘違いしていたことに気づきました。斉藤さんはコラムニストかなんかだと思っていたのですが、基本的に論文書きなんですね。「趣味〜」同様、くだけた口調のため論文であることを忘れそうになりますが、骨組みは論文そのもの。読み流すという訳にいかず、読解力も求められるのでわなかろーか。わろた。
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『文章読本さんへ』は、世の中に溢れる「文章の書き方」本を取り上げた書評本。
一応、文章を書くことを仕事の一部にしている私だが、書棚を探すと……確かに。本書に取り上げられた本数冊を発見した。
文章読本は何のために書かれたのか。誰によって、どんな風に書かれているのか。
そんな切り口でカテゴリー分けをしてみると、ああ、またしても…「あるある、そういうこと」の嵐。
役に立つんだか立たないんだか、そもそも人は何のために文章読本を買ってしまうのか。思わず考えさせられてしまいました。
ちなみに私の好きな文章読本は同じ筑摩文庫から出ている『悪文』。
面白いですよ(笑)。
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文章がうまくなるためにかなり文章読本を読んだが、それの効果がなぜないかがよくわかった。
斎藤さんは切り口が良い。売れるはずだ。
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有象無象の「文章読本」を、ぐうの音も出ぬ程にやっつけている。これには谷崎も三島も草葉の陰で赤面しているに違いない……と想像したら、ちょっと可愛かった。
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斉藤美奈子が切る「文章読本」の数々。
見えてくるのは、学校教育やカルチャー教室、そしてジェンダーなどなど。奥が深い。
槍玉にあがってる一冊に本多勝一の「日本語の作文技術 (朝日文庫)」があって、耳が痛いww
高校の頃、のめりこんで本多勝一を読んでいたので、当然「日本語の作文技術」も読んでいたわけだ。(「カナダエスキモー (朝日文庫)が課題図書かなんかになっていて、それをきっかけにはまった) ともあれ、当時こっそり思っていた「しつこい」っていうのを、ばっさり切り捨ててくれていて、さすがと斉藤美奈子と思ったわけだ。
でもって、この「文章読本」へ流れていく学校教育の抱える矛盾って…と溜息になるのである。
小学校の頃、どんなにきちんとした文を書いても、親が交通事故で死にましたとか、貧乏でたいへんです、とか、そういう強烈なノンフィクションを持っている子に負けるわけだ。違うだろう。作文の評価は、ノンフィクションの評価ではなく、文章を作るという技巧への評価じゃないのかと、すごく思ったのを思い出しつつ読んでいた。
ま、その時のその悔しさがなきゃ、長じて小説書こうなんて思わなかったんだろうけどね。
あああ、ついでに思い出したけど、小学校の頃、作文でフィクションを書いた子がいたんだよね。で、フィクションだって責められてたわけだ。別にそれは嘘をというわけでもなく、単なる現実逃避だったのだろうけれど、それを完膚なきまでに叩きのめす学校教育…。
昔読んだある人のエッセイで、知り合いに「小説書いてるの?」と聞かれ「書いている」と応えたら「満たされてないんだね」と言われたというのを読んだことがある。
書くこと=満たされてない、というのは違うだろうと思うけれど、その要素がないわけではない。そして、「文章読本」はその満たされなさをある意味支えているのかもしれない。
と、色々考えさせれられる一冊であった。
同時に、自分は古い世代なんだなぁと…(溜息)
と、某同人誌の代表がこの本に激怒していた。で、やっと問題の箇所がわかったんだが……。むしろこういう本の引用につかってもらって、ラッキーって…はならないか、かの代表は。
ま、でもこれぐらいであの激怒っぷりは、ちょっとないよねと思うのであった。
…これを半面教師に、私はキャパの広い人間になりたいっす。
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いつもながらのミナコ節。
どうしてこの人は、こんな読み方ができるのだろう?
同じ本を読んでも、視点が変わり、視野がぐっと広がり、時にぐぐっと肉薄する。
自在に視点を変えるだけではなく、その体と思想は、現在と過去を駆け巡る。
自らの視点にはほとんど触れることはないのに、なぜかミナコ氏の目線が、意見が、手に取るようにわかるから面白い。
頭のいい人に直接会うことができなくとも、こんなにもあらわに頭の中がのぞけるなんて、
本当に名著とは、こういった本をいうのかもしれない。
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サイトウミナコは凄い。前半の文章読本分類から始まり、明治期に始まる学校教育としての「綴り方・作文」の歴史まで読めてしまうこのお得感、そして鋭い舌鋒にスパンと気持ちよく読める。
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今こうやって当たり前のように感想を入力してる、こういう文章の形式にも時代の積み重ねがあったのだなあと見せてくれた本。文章読本の類はほとんど読んだことがないけれども楽しめた。
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[図書館]
読了:2010/12/7
p. 222 あー、小学校の時読んだ「赤い鳥」に対する違和感がすばっと言い表されていた。
「子どもは子どもらしくあれ」
p.263 出たー!読書感想文。この虚偽に満ちた世界。
p.335 「文章読本の書き手は、おおむね高学歴で、書くのにひいで、それを生かした職業につくことができ、しかもその道で一定の成功をおさめた人たちである。つまりごく恵まれた鼻もちならない上流階級の婆さんみたいな人たちだ。そう思えば、有名デザイナーの衣装(文章)を「名文」と称してありがたがるのも、下々の衣装(文章)を「駄文」「悪文」と呼んで平気で小馬鹿にできるのも、主張が少々保守的なのも、小言が鼻につくのも、階級的な性癖として許してやるべきだろう。持てる者である彼らには、持たざる者の衣装(文章)が礼を逸して見える。文章の世界を下から上へ昇ってきた彼らには、「横の多様性」より「縦の序列」が気になるのだ。」
p. 347 ケータイ小説の引用と解説の仕方が…あぁ笑った笑ったw
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自分向けの読書メモ。
ネタバレと思ったこと。
文章読本って?
谷崎潤一郎文章読本からはじまる、文章の書き方本。
はじめは文豪と呼ばれるような人気小説家達が、満を持して書き、
現代に近づくにつれ新聞記者やジャーナリストなども書く指南本。
谷崎潤一郎氏の「芸術的文章と実用的文章には違いはない」「話すように書け」論に
いやいや、違うぞと三島由紀夫などが反対したり賛成したり、こんなのはどうだと言ってみたり。
なんで「さん江」?
出版社などから企画を持ち込まれた著者達は、「ついに俺にもきたか」とはじめたり
「文豪達に肩を並べるなんて」と辟易しながらもまんざらでもなかったり。
誰に置いても、先にたつ本を読んで同じ意見に対してはよくわかってらっしゃると満足しつつも、
違う意見があれば「ええ〜いこっちによこしなさい」と文章読本で筆を持つ。
そんなおめでたい人たちを皮肉って、
パチンコ屋さんオープンの「祝開店○○○○さん江」の花輪からこのタイトルに。
各文章読本をメッタ切り
著者の誰もが印刷される文章の世界の人たちで、
印刷向け文章が一般人の日常で書く非印刷向け文章の上に立つとどうも考えている節がある。
現代文にとどまらず古文、漢文からも引用して名文とはこういうもんだ論を掲げているが、
名文の定義とはなんぞやを語らずよくぞまあ。
と揚げ足・・・いや、批判・・・分析しています。
現代語のルーツを追う!
噂によると4桁にものぼるという文章読本の多くを、読んで分析しているだけにとどまらず、
江戸時代からの開国、戦後と日本が大きく変化する時期の日本の作文教育の分析にいたる。
昔の日本の文章は現代人には滅多に書けない候文。
書き言葉と話し言葉は分かれていました。
世の転換期にそれらを一致するように変化していきます。
外国語は話し言葉と書き言葉が一致している。
書き言葉を使うためにわざわざ学習し直すのにはコストがかかるし、近代化の妨げになるから一致させようと。
もちろん反対する保守派もいましたが、少し時間が経つとそちらが主流となりました。
子供は大人のミニチュア版だという考え方があったので、子供でも難しい文章を書いていました。
例えばお酒に酔って粗相をした詫び状を書いてみたり。
もちろんお酒を飲んだ訳ではなく、手本を使って大人になる準備として書く練習をしていました。
「それってどうなんだ。もっと自由に書くべきなんじゃないか」
「いやいや自由に書かせすぎて文章がうまくなってない。大人がしかるべきテーマを与えるべきじゃないか」
とかとか作文教育と現代文の変遷をしることができます。
感じたこと
こういうのを知ると、正しい日本語ってそもそもなんなんだと。
しかも、どれもここ十数年の最近のことじゃないか。
学校教育としては自由に作文をしたり、詩を書かされたりした。
実際に社会に出たら「この時はこう書き出しなさい」とか「手紙のマナーはこうだ」とか自由はない。
自由がないということは悪とかそういうこと���はなく、
しっかりとTPOにあわせた文章教育もしてほしかった。
本の結論
多数の文章読本を分析し、時代をさかのぼりつつ最終的には
TPOにあわせて書くものだ。人に指図されるものではないというもの。
当たり前と言えば当たり前。
じゃあこれまでわいわいやってた文章読本とはなんだったのか。
この本はそういう落ちをつける本だったのかなw
TPOにあわせてということなので、
これまで通り冠婚葬祭にあわせた文章の書き方指南本は必要とされるのでしょう。
僕の結論
当初はこの本読んで文章がうまくなれたらと思っていた。
ですが「そんなの気にすんな」と受け取ってしまいました。
果たしてこのエントリーは自分に向けた文章なのか、人に向けた文章なのか
特に考えずに書いてしまいました。
ほな!
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初めて読んだ評論家の本。文章読本をいくつか読んだことある人ならあるあると呟いてしまう。著名、無名な文章の書き方本にツッコミを入れまくりで悪口芸に笑ってしまうし、ああそのとおりだわと感じ入るところもあった。跋扈する文章読本がなぜこんなに出版されたかを、作文教育の歴史をひもといて原因を論じていく。笑いと知的好奇心をくすぐりまくる楽しい読み物だった。引用例で、カーツ佐藤の名前を見るとは思わなかった。 *この本は第一回小林秀雄賞をとったのだそうだ。ああ、何らかの賞もらわないとおかしいわこの本。
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「文章読本」なる分野の本を読んだ事が無かった(読もうという気がない)ため、いまいち面白さが分からなかった。
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「文章読本」を皮肉っている本。
ドヤ顔で「文章たるもの」を語っている本を、こうして面白く分類して冷静に突っ込みを入れられてしまうと、その威厳がかえって黒歴史的な恥ずかしさに変わるだろう。「良い文章とは」という歴史も知ることができた。
まともな「文章読本」の人たちも自分の経験的エッセイやお気に入り文集などにしないで書けばいいのに。
わたし谷崎潤一郎の文章読本好きですが・・・
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面白かったねぇ。
今度から「面白い文芸評論なあい?」と聞かれたら『文章読本さん江』にしよう。そうしよう。
「文章読本」から連なる文章指南のジャンルを考察した上、日本の作文教育、明治時代からの国語教育の変遷まで含めて網羅検証した一大評論。評論、本当はここまでやらにゃあいかんのです。ここまで綿密に、シビアに、面白きこともなきジャンルを面白く。記号論なんか絡まなくてもここまで面白く出来る! やーいやーい! と私怨のようなものも混じりつつ。
読めば面白いし、仕掛けに障るので特に書くこともないが、最終的に提示される結論は、実は江戸時代から続く日本人は誰しも持っていた感覚ではなかったかしらんと思った。
あんがいと古風な結論に落ち着いた。