昭和天皇を畏るべき「政治的な人間」として描く試み
2007/12/30 01:15
12人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ブルース - この投稿者のレビュー一覧を見る
この年末に、昭和天皇を論じた二冊の書物が相次いで刊行された。一つは、保阪正康氏の『昭和天皇、敗戦からの戦い』、もう一つは松本健一氏の『畏るべき昭和天皇』である。前者は、昭和天皇と皇族方との関係や連合国最高司令官マッカーサーとの駆け引きなどについて論じられている。後者は、様々な史料・記録を基に、昭和天皇の言動を通してその心の襞にまで迫ろうとする意欲作である。率直に言えば、保阪氏の著作は、昭和天皇を礼賛する単なる歴史読物で終わっているのに対して、松本氏の著作は叙述に密度があり、「昭和天皇論の新たな地平を切り開く一冊」と本の帯に謳われているのも頷ける達成度を示している。
ただ、松本氏の今回の著作には、正直なところ違和感を抱いたところもあることをまず言っておきたい。その一つに、著者の天皇の戦争責任を巡るアプローチの仕方がある。著者は、昭和天皇の戦争責任を扱った章で、はっきりと責任があると明言しているにもかかわらず、専ら第一義的な責任を近衛文麿や軍部に帰している。著者はどうやら、天皇は政治システム上、上奏されて来た案件については、異論があろうとも承認する建前になっており、そのような国政上のルールに従っているのであるから実質的な責任は云々できないとする立場にあるように思われる。
しかし、このような見解には、歴史家から強い異論が出されている。その見解に従うと、昭和天皇は、軍事知識や世界情勢に精通しており、そうした観点から開戦から一貫して戦争指導を行い、一説には、悲惨な結果に終わったガダルカナル島奪回作戦や沖縄作戦も天皇の期待に添うかたちで発動されたと言われている。
また、戦争の趨勢が誰の目にも明らかになった昭和二十年初頭に、国の行く末を案じた近衛文麿や側近たちから強く降伏を促されたにもかかわらず、「敵に打撃を与えてからでないとなかなか難しい」として、進言を退けている。この時点で、降伏が決断されていれば、少なくとも三月の東京大空襲、四月の沖縄戦、八月の廣島・長崎の原爆投下、ソ連参戦などの出来事は避けられていたと思うと、昭和天皇の政治責任は極めて重いと言わざるを得ない。
松本氏の著作には、このような重大な問題が充分焦点を結んでいない感があるのは甚だ残念でならない。しかしながら、本書には少なからぬ美点があることも指摘しておかなくては片落ちになるであろう。
その一つを挙げるとすると、昭和天皇を稀に見る「政治的な人間」と捉え、様々な難局に遭遇した際の天皇の言動を側近たちの記録からを詳しく辿り、その果断な政治判断と読みの鋭さを描いていることである。特に、昭和天皇が、二・二六事件・張作霖爆殺事件・柳条湖事件(昭和六年)の勃発時や、敗戦後にマッカーサーとの会見などに際して水際立った対応を取ったことが印象深く論じられている。タイトルになっている「畏るべき昭和天皇」とは、常に醒めた政治的な人間であろうとした裕仁天皇の姿を絶妙に表していると言えよう。
本書は、以上のように問題を含みながらも、昭和天皇の実像に迫ろうとする試みであり、多くの類書の中でも読み応えのある書となっている。また、松本氏の著作の中でも、『評伝 北一輝』と並ぶ代表作と評することができよう。
なお、著者が終章で示した、戦後の昭和天皇を「権力を行使する政治の彼方の虹」とし、民衆の夢と幻想を受け止める慈愛溢れる存在とした視点には、松本氏の個人的な見解が強く反映され過ぎて、正直言って疑問を感じたことを付言しておきたい。
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本書は昭和天皇についてのイメージを一新する著作である。とくに、「カゴの鳥」からの脱却の章が面白かった。この章は大正十年(1921)三月から半年かけて行われた皇太子時代にイギリス、フランスなど欧州視察旅行にまつわる話である。
皇太子時代の昭和天皇に対してなされていた教育を「箱入り教育」として激しく批判したのは枢密顧問官の三浦梧楼(陸軍中将}であった。これに、元老の山縣有朋、松方正義、西園寺公望が応じた。時の首相の原敬も「今少しく政事及び人に接せらるる事等に御慣遊ばさるる必要あり」と語っている。
大正8年(1919)5月7日、皇太子は18歳の成年式を迎えた。この後5月10日、霞ヶ関離宮で盛大な晩餐会が開かれた。枢密顧問官の三浦もこれに出席したが、皇太子はただ席についているだけで、何の話もせず、何かを話しかけられても、「殆ど御応答なき」状態だった。このありさまに三浦は怒ったのである。
帝王学をほどこすためのマンツーマン方式による一方的教育のため、みずから話をすることもできず、人との「応答」というものがあまり出来ない状態になっていた。
そこで、山縣は皇太子の外遊を熱心に勧めた。
イギリスに到着する前まで、軍艦「香取」の船中で側近に言動やマナーについての「諫言」を受けている。こうして皇太子は変わりはじめる。公式晩餐会での堂々たる態度と演説だけでなく、他者との会話や対応に格別の変化を見せるようになる。そのなかで、人間的にも成長をする。「カゴの鳥」から英国風の「君臨すれども統治せず」という立憲君主への脱却をする。
この話を読んで、私の中で少し違和感が生まれた。それはそれまでの昭和天皇像と少し違うからだ。当代随一の批評家の丸谷才一氏が「ゴシップ的日本語論」(文藝春秋、2004年)で言語能力のない天皇が戦争への一原因であったような書き方をしていたからだ。
そうしたら、案の定、次の天皇の「私の心」―「富田メモ」の出現のところで、丸谷氏の批判が出てきた。
―丸谷氏が「昭和天皇が皇太子であったときに受けた教育に、重大な欠陥があった」というのは、そのとおりである。東宮御学問所での教育は、内容はきわめて程度の高いものだったが、一方的に講義をうけるだけのものだった。そのため、言語的な対話能力が養われず、「私」の意思を表明する機会も与えられなかった。しかし、丸谷もハーバート・ビックも鳥居民も、大正十年のイギリス・フランスなどへの外遊によって、皇太子が「私」の意思を明確にする存在へと変身したことを見逃している。
これは丸谷氏も一本とられましたね。
昭和天皇は2.26事件のときの断固たる決意や、日米開戦に対する不同意をいろいろ試みていること、戦後の神格化を否定した「人間宣言」に隠れた別の意思(明治の5箇条の御誓文に戻る)、満州某重大事件に対する怒り、A級戦犯合祀に対する明確な不快感など。天皇の断固たる決意を著者は「畏るべき」と表現している。
この本を読んで、昭和天皇の有名な「あっ、そう」という応答の深い意味もわかった。
この本には三島由紀夫と正田美智子さんが見合いをしたことがあったこと、戦後すこししてからの文学少女雑誌「ソレイユ」の投稿欄でいつも張り合っていたのが正田美智子、中村メイコ、富岡多恵子の3人であったというエピソードも出てくる。世界的音楽指揮者の小沢征爾の父親の小沢開作のエピソードも出てくる。三男につけた名前の由来も出てくる。
戦時下、独自に情報を集めるため英語の短波放送を聴いていたエピソードも出てくる。
圧巻は「天皇の戦争責任「の章である。3回も首相を務めた近衛文麿は戦争責任は全て天皇にあり、自分は責任がないことを自殺前の「手記」に書いているが、これは天皇に専制君主の役割を求めて、実際の政治の責任を回避したものとの印象が強い。これは昭和16年の9月6日の御前会議における「帝国国策要綱」の策定、最後の近衛宅での和戦に関する「殆ど最後の会議」での、近衛首相の決断回避。実際は、海軍首脳は対米開戦を回避したかったのだが、それは口には絶対出来なかったので、「近衛一任」を申し出たのだった。海軍は対米戦に勝利する自信がなかったのだが、その責任を陸軍にあげつらわれ、その後の軍事費の削減を強いられるのを避けたかった。つまり、国益よりも海軍の「省益」が優先したのである。ここで、近衛は責任を回避し、陸軍に譲歩を迫れなかった。
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本当に昭和天皇畏るべしであった。官僚や政治家や軍人よりはるかに物の見方・感じ方のレベルは超越していて、時々刻々の世界情勢を見据え、国家と国民と皇室の存続と「君臨すれども統治せず」というイギリス風の立憲君主制を貫こうとしていたことが判然とした。 2・26事件の決起将校たちや近衛文麿首相や杉山元・陸軍参謀総長に対する言葉には圧倒的な凄味を感じる。 結局、最後まで戦争に反対し続けたのは昭和天皇ひとりであったのではないのだろうか、という気がするのである。
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「ヨイショ」という芸の領域がある。どんな人間のどんな行いも持ち上げる「お笑い芸」であるが、それなりの面白みがある。しかし、歴史の世界でおこなっては流石に通用しないだろう。
本書は、「昭和天皇」の様々な行いや、考え方を、勝手に忖度し解釈し、理屈を付けて持ち上げているかのように思えるが、それが歴史の世界となると通用するはずはない。
「昭和天皇は・・・三島由紀夫のことを強く記憶にとどめながらも、公には、三島の名を一度も口にすることはなかった」と14ページに渡って「三島由紀夫と昭和天皇」を論考しているが、これは「勝手な忖度」以外のなにものでもないのではないか。
他にも、同じような論調が多々あるが、「昭和天皇」の考え方を資料に基づかずに勝手に忖度し、褒め、持ち上げ、感嘆することは、むしろ「昭和天皇」を冒涜することになるようにも思えた。
様々な資料による「昭和天皇」の姿は、本書の主張とは違って、生真面目で不器用な性格ながら、真摯に困難な情勢に真っ向から取り組んでいたことが解明されてきている。
決して本書で主張しているように「畏るべき」ではないと思う。本書は残念な本であると思う。
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原武史『昭和天皇』と併読。
烏兎の庭 第五部 書評 8.31.15
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto05/bunsho/Hara_Ten.html
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昭和天皇という人物が持っていた、強さや聡明さ、政治的合理性については、保坂正康氏の著作などで、既に知ってはいたのですが、本著では史料として残された多数の証言に基づき、昭和史の様々な場面で現れた、その類稀なる「畏るべき」パーソナリティが多面的に検証されます。
「近衛は弱いね」だとか、杉山参謀総長に対する「太平洋はなお広いではないか」だとか、印象的な発言に纏わるエピソードは多々ありますが、著者が何よりも強調しているのは、昭和天皇が日本という国家において唯一人、「私」を捨てた「公け」の存在であろうとし続けたこと。
敗戦後も、平成の時代の皇室が今まさにそうであるような「民主国家における象徴天皇」ではなく、あくまで「天皇制下の民主主義」に対する信念を有していたこと。
それはまさしく(絶対主義的な意味ではなく)日本国は「天皇の国家」であることに対する信念であった、と。
勿論、昭和天皇がそのような信念を本当に持っていたのかどうかを証明する術はなく、それもまた著者の松本健一氏の「信念」ではあるわけですが、確かにここで紹介される数々のエピソードを通してみると、そのような昭和天皇像が浮かび上がってくる。
昭和が終わって早や20年以上の時が過ぎました。
自分は実際には昭和天皇の最晩年10数年しか知らないわけですが、このような大きな存在が実在していた時代と、「それ以後」の断絶は、思っていたよりも深いものなのではないか、そんな気にさせられました。