紙の本
てつがく問答
2019/04/27 00:09
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投稿者:きりん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「てつがく」どころか禅問答になりかねない感じですが、それぞれの意見が面白いですね。哲学入門書としては取り組みやすい。
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とっつきにくい哲学をわかりやすーい対話形式でお勉強。
先達たちの格言をちょっとずつかじれて大変お得な一冊。
中でも気になったのがカント。幸福になるのではなく、幸福に値する人間になれ。彼のストイックな考えかたに侍スピリッツを感じました。極限にまで徹底されたストイシズムは美しいと思う。
この聡明でおもしろい鷲田教授が大学総長だなんて、うらやましいぞ、阪大。
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もともと永江朗の書店レビューなんかが好きでよく読んでたんだが、それに加えてテーマは哲学っすよ。
書店に並んだ(っていうか自分が並べた)その日に買いました。
哲学関係の本って、どうしても内容が硬くて、最後まで読みきるのに時間がかかったり、読むのにすごいエネルギーが必要だったりするんだが、この本は対談形式なこともあって、普通のエッセーなんかを読む感覚で、サラサラと読めてしまう。それでいて、分からなかった哲学者の言葉が理解できるようになったような気になるから不思議だ。
23篇の中で一番グっときた殺し文句。
デイヴィッド・ヒューム「人間とは、(実のところ)想いも及ばない迅さで次々に継起する・久遠の流転と動きの裡にある・様々な知覚の束ないし集合体に過ぎない、と敢えて断言しよう」
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「殺し文句から入る」という副題にやられました。
哲学からは、逃げて逃げて逃げまくっている私。でも、そろそろ哲学の世界に足を踏み入れなければ・・・と思い手に取ったのがこの本。
最初、哲学者の有名な本からの抜粋があり、そのあと鷲田サンと永江サンの対談形式でコメントがある。
抜粋部分は、読んでも全く頭に入ってこないものが大半。
でも、次のページをめくって、二人のコメントを見ると安心します。だって、「よくわからん」て書いてあるんですものw
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哲学者鷲田清一にライターの永江朗が哲学の個人授業をしてもらった様子を本にまとめたもの。
ミーツ・リージョナルに連載されてたもの。
新しい発見がいろいろあって楽しい。
カントっておかたい人というか説教くさいおじさんみたいなイメージがあったけど、
そればかりじゃないんだなぁと。
「いかにしてわれわれが幸福に値するものとなるべきか」なんて問いは、
この誤った個人主義偏重の時代においては、身につまされますよねぇ・・・
ライターの永江さんの鋭い感性と、鷲田さんの圧倒的な知識とレトリックの巧みさが光ります。
良本!!
(2008/05/23)
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過去の哲学者らの殺し文句をテーマに選び、対談形式に書かれた本。
個人的には面白かったと思うが、対談形式のため、対談者らと己の感性がかち合わない場合、
読むのが辛くなる。ただしそれも、そのテーマさえ超えればまた、
読みふけることが出来たので、余り問題ではないかもしれない。
感覚的な表現は入門書としてわかりやすく、哲学という深みに嵌るには最適の一冊。
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「相手のものになってしまう、言いなりになってしまう。自分で自分をコントロールする能力を失わされてしまう。これが快楽の最たるものと違うの?だからセックスが小さな死、というのは、自分というのは死ななければならないということ。」
いつもの柔らかで和む鷲田清一ではなく、かなり懐を開帳した生の鷲田清一を垣間見れる。そんなこと言っていいの?っていうことをサラッと言う。
やっぱり、カントは一般受けしない、頭の固い禁欲的理想主義者だったようだ。
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[ 内容 ]
意味もよくわからないのになぜかグッとくる。
哲学者の書くとぎすまされた言葉には、歌舞伎役者の切る「見得」にも似た魅力がある。
かたや大阪大学総長にして臨床哲学者、かたやフリーライター、肩書きにちがいはあれど、ともに哲学にとことんイカれた2人が、キェルケゴール、デカルト、カントから、ニーチェ、サルトル、メルロ=ポンティまで、古今東西の哲学者23人の「グッとくる一言」を題材に、哲学の魅力、おもしろさ、アブなさを語りつくす。
ときにはんなりとやわらかく、ときに熱く繰り広げられる、極上哲学漫談。
[ 目次 ]
セーレン・キェルケゴール―『死に至る病』
ジャン=ポール・サルトル―『存在と無』
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン―『論理哲学論考』
オルテガ・イ・ガセット―『大衆の反逆』
エドムント・フッサール―『デカルト的省察』
カール・マルクス―『資本論』
フリードリッヒ・ヘーゲル―『法の哲学』
フリードリッヒ・ニーチェ―『善悪の彼岸』
エマニュエル・レヴィナス―『全体性と無限』
ロラン・バルト―『テクストの快楽』〔ほか〕
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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鷲田清一と永江朗が、大哲学者の「グッとくる」言葉をネタに語り合う。あんまり意味が分からないけどカッコいい言葉を永江朗が提示し、それを鷲田清一が解説するスタイルで話が進んでいきます。
しかし、なにかと男女間の話に喩えようとしたり、なんだか飲み屋でしゃべってるようなラフな感覚が読んでて面白い。内容は決してラフじゃないのだが。
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哲科の人には物足りないだろうが、何から読めばいいか見当もつかない人には「この人こんな感じだよ」と紹介してくれるのでとても良いと思う。個人的にも読みたい所が広がって良かった。
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飲み屋でカントが同席していたらどうだろう?
「飲むべきであるがゆえに飲みうる」とか「飲むことよりも、飲むに値する人間になれ」なんて鬱陶しいことばっかり言ってて降参か?
グッとくる哲学者の殺し文句がある。
「それはあるところのものではなく、ないところのものである」(サルトル)
わけなんかわからなくてもなんとなくカッコよくて人前でつぶやいてみたくなったりする。
「私は私であって私ではない」
これは誰だ? …幸福の科学の代表の人(笑)
哲学ガイドというよりも哲学書ガイドである。哲学書に取り組むための基礎訓練としてミーハーな気分で魅惑のセリフに浸ってみる。
「哲学とは始まりの更新である」(メルロ=ポンティ)
「<私>の宣言には私の死が構造的に必然的である」(デリダ)
「光が、光と闇を顕す」(スピノザ)
「お前はすでに知っている」(ソクラテス)
「ものごとは、もっとも情熱的にそれを求めるものに対して、もっとも早くその姿をあらわす。われわれの必要が、われわれの知力を研ぎ澄ますからである」(ジェイムズ)
などなど。
昨年あるセミナーに出かけて行って初めてナマ鷲田先生を体験した。大阪大総長までつとめた方だが、磯野波平的風貌、軽薄な(よい意味で)物腰と語り口は哲学者というよりたこ焼き屋のオッサン髣髴でずいぶん親近感を持った。
ここ何年かは臨床哲学という取り組みを続けているが、臨床とは「身を置いたら、思っていたものが全部壊れてしまう体験」という姿勢を見習ってゆきたい。
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哲学の仕事とは、疑似問題に、それは問題ではない、とはっきり言ってあげること。
社会はその時の基本的形態と現れる。
我々の研究は商品の分析から始まる。
ニーチェの場合は、必然的の根拠があるというのは幻想である。
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23人の哲学者の言葉を引用し、それについて二人が対談するという形式。哲学の言葉そのものは理解が難しいが、対談によってなんとなく見えてくる。分からないけど面白いという感覚を味わえる。鷲田による、各哲学者の著書の紹介があり、何から読んだらよいかを教えてくれる。内田樹も参加している。
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毎回1人の哲学者の書籍から気になる言葉とその前後の文を抜粋して、それについて議論する進み方。ただ、哲学者の基本的な考え方を理解してないと難しい本かなと感じた。正直けっこうわからなかった。
以下、気になった部分をいくつかまとめておく。
オルテガの「哲学は自己自身の存在を疑うことから始まり〜」
あらゆる前提を疑い、確実だと思って立っている場所さえも掘り起こすことが大事、これはソクラテスの無知の知と同じ思想で、「考えることとは疑うこと」であると。オルテガの述べる「大衆」とは、自分に知らないことがないと思いこんでいる人たちのことで、つまり考えるのをやめた人たち。
現象学の祖、フッサールの「はじめにあるのは無言の経験であり、それが固有の意味をもった表現へともたらされなければならない」というのは、モノづくりに関わる立場としてはハッとした。ものは言葉以前にすでに存在しうるわけではなくて、それに特定の記述や表現をあたえなければいけない、というのは勿論正解はわからないが最適な伝え方や表現を模索しつづけることでしかその事物は事物となりえないのだろうな。
ヘーゲルの「法の哲学」の所有の考え方は何かシェアリングエコノミーを紐解くヒントがあるような気がした。所有とはただ持っていると思っているだけでは成り立たず、他者もそれを了解したときに主体として向き合える。所有=主体になる、と説くのであれば所有を手放しつつある現代は主体を棄てているといえるのだろうか?でもここでいう所有は失うことを前提にしているために、それとはまた違ったニュアンスなのか。
ニーチェの道徳の概念における、「奴隷の道徳」と「主人の道徳」はおもしろい。前者は見返りをもとめ、後者は自分が気持ちいいからやるという贈与。ただ後者も自分の行為に対する悦に浸るという意味では見返りを求めているといえる。
そこから派生して、サービスの語形に近しいサーヴァント=奴隷、という関連。サービスを提供するとは奴隷に成ることなのだと介護を例に本書では述べられていて、距離感が重要と説かれている。介護において「かけがえのないもの」になってはいけないと。これは対クライアントにもいえるし、対ユーザーにも言える。ユーザーの奴隷になってはいけないのだと。
そしてかなり考え方にピンときたのがレヴィナス
レヴィナスの章は内田樹さんが解釈を説いているのだけど、自分が何者かわからないルールも共有できず理解できない人間とぶつかりあい、共生していく際にどうするのか?という部分。そのような異質に相対したときに始めて自己も立ち現れる。
ただそれには不快が伴うのであろうというのは容易に想像できて、でもその不快感もいってしまえば自分のフレームの中での不快感で、他者にとっては快なのかもしれない。
これの部分にはため息がでた。理解できないものをどう理解して自分の世界と相手の世界を両方ふくんだ世界にたどり着けるか、そうすることで人間として成長するのだろうなー。