紙の本
わかったようなことをいう前に
2024/04/27 15:05
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
名前はよく知られているがその実態は知られているとは言い兼ねる人物というのがいるが、ポル・ポトはその一人であろう。人類史に残るような蛮行を行った政権を率いたこの男は何者だったのか。やや西洋中心的目線が気になるが、ポル・ポトについてわかったようなことをいう前に目を通しておくべきものであろう。
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やっと読み終わった。本文686項、注207項もすごい。6800円もすごい。
感想の1は、凡庸であるということ。ジェノサイドということもひとつの政治的な見かたなので、あえて今まで聞かされてきたキリング・フィールド的な描写には力点をおかずに書いているので、スプラッタ的な恐怖ではなく、訳者が適切に表現する如くだ。
「(クメール・ルージュによる自国民殺害は)むしろかなり善意の結果だったりする。現実の裏付けのまったくない善意が、これまた現実の国の運営について何一つ知らないポル・ポトたちの途方も無い無能ぶりと組み合わさった結果としてあれだけの人がまったく無意味に死んだ。でもそれはーこう書くと反発はあるだろうがーある意味で事故でしかなかった。かれら死んだのは、故意によるものですらなく、多くはただの過失の結果だったのだ。」(訳者あとがき、P682)
私はここに個人としてのヒトラーとの共通点を見る。
個人としてのヒトラーは、失敗続きの無能な人で、ダメな男の子が、ダメな若者になって、ダメなおっさんになったという人だ。しかし、そのダメさ加減は、人として共感はできなくとも、怪物にはできない。
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しかしやはり、不満も残る。この不満もまた訳者の言うとおりで、問題を社会にするのならば、社会分析が雑すぎないかということだ。特に仏教の説明は、理解が浅すぎるように思う。
しかしなにか、システムのテクニカルな説明がないと、なぜこの場所でこの人達によってこの形でなのかが分からない。
一つの決定的な答えを見つけようとするのは愚かなことだというのは本書の中でも繰り返し述べられている。
一つに帰するつもりではないが、あえて指摘してみたい。
それはやはり、米軍の爆撃ではないかと思う。
P320で著者は「爆撃の激しさがカンボジア人を残忍な行動にはしらせ、そのせいでポル・ポトたちの政権がああいう性質になったと考えるのは間違いだろう」と明確に述べている。しかし私はここに反論したい。
P319で、ベトコンのトルン・ヌ・タン法相の引用としてこう書いている。
「ソビエトの代表団が省庁を訪れている間に、非常に差し迫った空襲警報が発令されたことがあった。負傷者は出なかったものの、代表団の尊厳はひどく傷つけられたー失禁と止まらない震えが、、かれらの内心の動揺を明らかに物語っていた。(中略)B-52のせいで、どういうわけか生き方が整理された(中略)。私にとっても他の人々にとっても、それは一生ついてまわる経験だった。」
著者は「ベトナムでもB-52の爆撃があったがポル・ポトのような政策は取らなかったではないか」という。しかし、残酷ということで言うと、北ベトナムも南ベトナムも米軍も、あの時代のあの地域はみな残酷だ。
もともと人間は憎悪や殺戮に走る傾向がある。しかしそれは同族殺しへの禁忌で抑えこまれている。しかしこれは、テクニカルにストッパーを外すことができる。物理的な距離であったり、組作業であったり、上級者の命令(責任分担)だ。
これは先日読んだ「人殺しの心理学」の趣旨だ。
これは個人レベルから集団レベルでも拡大しうるのではないだろうか。
人々の憎悪を煽って利用する政治家は多くいる。
憎悪の利用の目的はあくまで政治闘争であって、仮に人が死んだとしてもそれは事故だ。文革はこのあたりのように思うし、本書の中のポル・ポトもそう考えているように思う。
その振れ幅が大きくなっても、末端でそのシステムを運用するのは個人なので、一人の中の殺人の禁忌がはたらく。だから常に政治闘争が虐殺を生み出すわけではない。
しかし、個人に直接作用する、無差別な殺人という事実と、失禁や震えといった肉体的な恐怖は、個人の殺人の禁忌というストッパーを外してしまうのではないだろうか。
「事故(で人が死ぬこと)」に対する許容度が大きくなるということだ。
これは、組織と個人とリーダーと規則といった「システム」を、暴走させるスイッチになるのではないかと思った。
そしてそのスイッチとなるのは、やはり爆撃なのではないかと思う。
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現時点で、ということは今後もということだが、ポル・ポトことサルト・サルが引き起こしたクメール・ルージュという大虐殺を知る上で、最重要の一冊は本書だろう。本文700ページに対して、注釈が200ページというのは、本書が徹底的にクメール・ルージュの真相に迫るためのファクトを丹念に集めた証跡に他ならない。
本書を読むことで現代に生きる我々が得られるものは何なのだろうか?
もちろん、クメール・ルージュという大虐殺がなぜ起こったのかという歴史的な要因を知ることができる、というのはその一つであろう。本書を読めば、決してポル・ポトだけにその責を押し付けるのは明らかに誤っているということが理解できる。政治的に反する対立分子を暴力により消し去ろうとしたのは、カンボジアの国王として実権を握っていたシアヌーク自身であり、その責任は極めて重い。また、ベトナム・ソ連の連合 vs 中国・タイ・アメリカという東西冷戦を背景とした国際パワーバランスの空隙をポル・ポトが突いたのも間違いがない。
とはいえ、ここから何を得るかはもちろん人それぞれだとしても、何か一つの洞察を選択するとすれば、それは「理念なき手段は空疎であるが、それ以上に手段なき理念は悲劇を巻き起こす」ということではないか。ポル・ポト自身の語る言葉を読んでも伝わってくるのは、クメール・ルージュの理念に対して彼ら自身が何ら疑いを持っていないということである。彼らには国家運営において求められる一切の手段(経済政策、外交政策、教育・福祉政策等、すべての政策)は空疎なままであった。そこに毛沢東思想や民族自決といった理想だけが先走った結果、このような事態が巻き起こってしまった。
理念と共にそれを実現する適切な手段を用意すること。言葉にすれば単純であるが、そのバランスが崩れたときに何が起こるかという恐ろしさは、歴史から我々が学ぶべきことである。