投稿元:
レビューを見る
なぜ国民国家は法外に放り出された人びとを、生活保障の対象にできないのだろうか。(p.204)
伊丹空港、通称では兵庫の地名がつくこの空港は正式には大阪国際空港という。通称と正式名の名のとおり、行政区分としては、兵庫県伊丹市と大阪府豊中市・池田市にまたがって空港はある。この空港の敷地内、猪名川に近い滑走路のすぐ脇の「中村地区」では、長く人が暮らしを立ててきた。そのほとんどは在日朝鮮人。ここは日本最大規模の「不法占拠」地域だった。
「不法」ゆえに、航空機の離発着による激甚な騒音と振動の被害を受けながら、その対策はとられず、「不法」ゆえに、行政サービスも行われずにきた。
この「不法占拠」に対して国と伊丹市が異例の移転補償を行うことになった。しかも、隣接地への集団移転により地域コミュニティが保持され、地域に住む人たちの文化的ユニットが承認された施策だった。
「不法占拠」への「移転補償」はこれまで例がないという。"常識的に"考えれば「盗人に追い銭」と言われかねないこの施策実施を考えるには、「公共性を積極的に増進させる」あるいは「公共性をよりよいかたちで組み替える」という視点が必要だと著者は言う。
▼仮に国籍や不法かどうかに関係なく、国がもっと早く容認していれば、在日の人びとが公営住宅に入居可能となり、「不法占拠」地域が生まれることもなかった。結果として、「国民国家」の周縁には、「国民」という概念からこぼれ落ちた、長期被災者・ホームレス・不法占拠者などの"群れ"が数多く生み出される。…
法外生成論のアプローチは、国家が敵と見なした他者を軍事力で排除するような20世紀末の正義に代わって、例外状態におかれた社会的弱者の存在を肯定・容認する「寛容な正義」を追求することによって、国家政策や現代社会論に対しても、理論的・普遍的貢献をなしうるのではないだろうか。(pp.204-205)
▼「国民国家」「民族」「土地」「労働」「生活環境」から何重にも締め出されながら、人びとが自らの規範に従って実践することによって生成されていく、相対的に自律した独自の社会的制度体(秩序)が、「生きられた法」である。…
「生きられた法」は、法律としてのルールではなく、生き方としての技法である。…「生きられた法」は、たしかに法制度上は存在しない。したがって「不法」なのである。しかし、法制度に存在しないということと、法制度と適合しないということはけっして同じではない。(pp.201-202)
▼「法律=(唯一)正しい」という近代社会の「奇妙な」結びつきをいちど絶ち切ることで、法とは異なる水準の「正しさ」の可能性を探ってみたい。たしかに、法はある事象について正しいか/正しくないかを判定する。それに対して…ある物事が「不法」(=正しくない)と考えられるようになったのはいつからなのか、ということを問う。そのように問うことで、これまで不問にされてきた差別のしくみ(構造的差別と呼ぶ)を明示的に記述することを目論んでいる。(p.49)
伊丹市の前空港室長・宮本孝次さんの、2003年4月の発言。
▼「弱者に対する施策とは違います。人間と��ての権利言うか、プライド、そのなかでの事業です。共に創っていくかたちです。一番失敗したら駄目なのは、地元におられる方には50年、60年の歴史がある、それを救済やってあげますよという立場では絶対ありえないし、逆に言うと、戦後復興を支えてこられた一員として、ほんとうに大事な立場ですよということから始まったから。それが一番、大事なところです。いま表にある(日本の)発展いうのは、陰で支えておられる在日の人も、一般市民もそういう方々の力があって今日の繁栄がある」(p.112)
法律は、六法のなかにもあるかもしれないが、生きる場のなかにもある、ということだと思う。
*神戸新聞「同じ空の下 伊丹・中村地区は今」(2002年)
http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/rensai/0202hansin/index.html
*伊丹市「中村地区整備事業」(2007年)
http://www.city.itami.lg.jp/home/SOGOSEISAKU/KUKO/0000248.html