サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

e-hon連携キャンペーン ~5/31

hontoレビュー

ほしい本の一覧を見る

なぜ「教育が主戦場」となったのか 「統治の失敗」という見過ごされた論点 みんなのレビュー

予約購入について
  • 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
  • ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
  • ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
  • 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。

みんなのレビュー4件

みんなの評価4.0

評価内訳

  • 星 5 (3件)
  • 星 4 (0件)
  • 星 3 (0件)
  • 星 2 (0件)
  • 星 1 (0件)
4 件中 1 件~ 4 件を表示

紙の本

著者は、「中学への算数」「大学への数学」で優れた解説を行うことで知られる人である。本書で彼は最近教育言論界に台頭しつつある格差論議を木っ端微塵に粉砕している。なかでも最大の功績は苅谷剛彦が『大衆教育社会のゆくえ』で開陳した議論がはらむ重大な欠点を詳らかにしたことだろう。

2009/12/17 11:34

16人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る

苅谷は「日本には階層があり、その階層には階層固有の文化資本が存在する」という前提に立ち、「教育が社会の不平等を再生産している」と結論付け、「教育が社会の不平等拡大に貢献している現状を修正すべし」とアピールしているわけだが、栗田氏は進学校を経て超一流大学に進学した人間なら誰でも感じる疑問を理路整然と展開していく。

第一に、そもそも苅谷氏が提示する「上層ノンマニュアル家庭が持つ文化的資本(これが格差の根源だ!)なんて、日本には存在しない」と栗田氏は喝破する。そして返す刀で苅谷氏の著作にも(日本の階層に存在するはずの)文化資本格差再生産の具体的メカニズムの過程に関する記述がすっぽり抜け落ちている。彼が定義する「上層ノンマニュアル」という定義もおかしい。苅谷に寄れば医師、弁護士、大学教授、大企業・公官庁の管理職などとなっているが、これは如何にもウイングを広げすぎだ。大企業に採用された一流大卒は、ほぼ誰でも自動的に入社10年前後で管理職になるわけだが、彼らで自分が上層だという意識を持つものは、まずいない。大企業で上層と意識されるのは役員になったもののみだろう。公官庁だって同じだ。キャリア採用されれば全員が自動的に課長にはなれる。そこから上が問題で審議官という役員待遇になれるのは同期でも限られていて、更に局長、事務次官となるのはごく一部だ。他はご存知の通り組織外に放り出され天下りという再就職を余儀なくされる。苅谷がいう「上層ノンマニュアル」は「非下流(低偏差値・低所得)」程度の意味しかもっていない。「プレジデント・ファミリー」なる商業雑誌が組む「東大生の親の顔がみたい」「私たちはこうして子どもを開成・桜蔭に合格させました」式の特集が飛ぶように売れたかというと、普段知ることの出来ない「教育格差この根本原因」たる「家庭の文化資本格差」がこれらの雑誌で明らかされていると多くの読者が期待したからという指摘には、正直笑った。これらの雑誌記事を読んだ人なら分かるだろうが、どの家庭もたいした住宅ではなく「勉強はリビングルームで」とか「早寝早起きを心がけました」という類の話ばかりだった。栗田氏は「日本では階級社会はとっくの昔に崩壊しており、日本の家庭に文化的資本の蓄積など無い」と喝破している。

第二に、苅谷や小林雅之らが展開する「子どもの教育の成果は、投下する資本の額に正比例する(金をかけて塾に通わせれば東大に入れる)」式の議論の大嘘を栗田氏は明らかにしている。子育てをした人、塾で講師をしたひとなら誰でも知っていることだが、子どもというものは塾のよしあし、親の所得の多寡に「関わらず」、「できる生徒ははじめからでき、できない生徒ははじめからできない」ものなのだ。このあたりは養老孟司も同じことを言っている(彼は、子どもなんかほったらかしにして置けばよいとまで言い切っている)。現実に起きていることをつぶさに見れば「お金がないために学力格差が再生産される」のではなく「お金があっても学力格差が再生産される」のである。栗田氏が経験した「中学受験の典型的な失敗家庭」は、「父親が高学歴で高収入である一方、母親が美人だが低学歴で夫に学歴で引け目を感じ、子どもにその反動で無闇矢鱈にスパルタ教育を施すケース」なんだそうだ。「すべり台社会」というフレーズを広めたのは湯浅誠だが、これが当てはまるのは苅谷がいう上層ノンマニュアル階級なのであって、だからこそ上層ノンマニュアルは中学受験に熱狂するわけである。

「よくフランスのプリデューから「上流が上流を再生産する」などというフランスのような牢固とした階級社会でのみ当てはまる議論を、あたかも普遍的な論理であるかのように日本にも当てはめる社会学者がいるが、彼らは日本の現実を全く見ていない」という指摘も重い。「仮に東大生たちに、『あなた方は、(日本社会の)上層としての特別な(家庭)教育を受けてきましたか』と聞いたら、3000人のうち500人くらいは思い当たる節があるかもしれないが、あとのものはポカンとするだろう」という指摘には、正直笑った。私は500人というのは多過ぎで50人以下であると感じる。更に「あなたは東大出身の上流階級としてどのような教育を通じてあなたの階層を守りたいと思いますか」等と聞こうものなら「こいつ、頭おかしいんじゃないか」という目で同情されるという指摘は東大出身者なら誰でも感じることであろう。苅谷や小林の議論というのは東大に入れなかった連中の学歴コンプレックスをネタにした低俗な俗論だと栗田氏は言っているわけだ。ちなみに私の知人には麻布・東大法学部を経てトップで財務省に合格した人(採用時に大臣官房文書課に配属された人)が何人もいるが、彼らはごくごく普通の家庭の出身である。

格差は昔からあったし今もある。別に小泉竹中の新自由主義的政策で格差が拡大したわけではない。ジニ係数など見方によって多様な解釈が可能である。むしろ格差という点では昭和40年代以前のほうが階級格差は大きかった。ではなぜ階級格差が激しかった昭和40年代に「一億総中流」なる幻想が日本中を覆い、今なぜ「格差が拡大した」と多くの人が思うようになったのか。それを栗田氏は「ごたまぜ仮説」で説明している。以前は「貧乏人千人に金持ち一人、小学校卒千人に大卒一人だった当時、世の中はどこもかしこも貧乏な小学校卒で溢れていたので、貧乏人は金持ちと自分を比較しようとなんかしなかった。小学校卒は大卒と自分をくらべようとしなかった」と山本夏彦氏は喝破したが、これは昭和40年代までは続いていて、日本では所得に応じて住む場所も付き合う相手も違っていたので、お互い似たもの同士しか知らなかった。似たもの同士を比較して「自分は中流」と納得していた。ところがバブルが崩壊した当たりからマンションが林立するようになって、以前なら口も聞かなかったような接触が階級を超えて起こるようになり、それまで見ぬふりを決め込んでいた格差が具体的に見えるようになったというわけだ。これも納得である。そして日本における階級とは収入や財産の多寡とは必ずしも連動せず、栗田氏は金銭感覚を重視する。金遣いが荒ければアブク銭を失うのに時間はかからない。上流階級の特質を敢えて言えば、それは勤勉で禁欲的であると栗田氏は指摘する。もちろん全ての階層が教育を通じての再生産に失敗しているわけではない。成功している例が、ごくわずかだがある。それは低学歴低所得の最底辺層で、これは親が不出来なら子どもも不出来であるケースが非常に多い。ただしこれは昔もそうだったし今もそうだというだけで、何も昨今急激にこの傾向が顕著になったわけでない。『ドキュメント高校中退』に取り上げられている例は多くこの類で、この問題は奨学金を供与すれば解決する話ではない。

ただ「日本の教育システムが官僚要請と大学教授要請を目的としておりサラリーマンは教育対象の圏外」とするのは頷けない。日本には一橋大学や神戸大学のような「サラリーマンの士官学校」たる高等商業に端を発する教育機関が明治の昔から存在した。この当たりは社会適応に失敗した東大理系にありがちな思い込みの激しさ、視野の狭さを伺わせる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

教育論議の迷走を見事に整理しきった好著

2009/12/21 13:02

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:武井啓蔵 - この投稿者のレビュー一覧を見る

著者の栗田哲也氏は、言わずと知れたカリスマ数学講師である。彼は数々の「数学天才」を育てたといわれるが、その教育論は見事というほかは無い。今、世間に広まっている学力論議の大半は栗田氏によって「的外れ」と切って捨てられている。なぜ的外れなのかというと、今の教育論議は出来る子も出来ない子も一律に論じたくそみそ一緒の議論ばかりなので、どれもこれも結論としてピントはずれになるからだという。こうした教育論の迷走を正常化すべく、栗田氏は教育を三つのレベルに分けて論じるべきだと提言する。三つの段階とは、(1)読み書きそろばんが不得手な層、(2)読み書きそろばんは出来るが、それ以上の応用問題が不得手な層、(3)読み書きそろばんは当然のごとく出来て、それ以上の面白さを追求する層の三つで、教育方法はそれぞれの段階で全くアプローチが異なると喝破するのである(さすが!)。

例えば諏訪哲二という御仁がいる。埼玉県の新設の底辺校で人生の大半を過ごしたこの「教師」は、陰山英男の百マス計算を口を極めて貶している。「こんなもの幾らやっても高校生は浮かばれない」と。まあ、諏訪が相手にしていた落ちこぼれ高校生なら百マス計算がお似合いのように思えるが、陰山が対象にしているのは教育インフラもままならない山間部の小学生なのである。レベルで言えば「読み書きそろばんの能力が十分に備わっていない層」であって、この層を対象とする限り、陰山の百マス計算は極めて有効なのだと栗田氏は論じるのである(拍手)。悪いのは出版者で、「陰山方式が有効なのは、読み書きそろばんが不得手な層のみ」などと本当のことを言うと商売にならないので、「百マス計算はあらゆる教育上の悩みを解決する万能薬」みたいに喧伝するからいけないのだが、大半の読者は出版社の誇大宣伝を鵜呑みになんかしていない。これを鵜呑みにして、あらぬ喧嘩を仕掛けているのは読解力不足の諏訪哲二くらいのものだ。

逆に最高レベルの層にしか適用できないはずの教育方法(モンテッソーリやデューイが広めた「新教育論」や、昨今の「ゆとり教育論」で、要するに「型通りの押し付け教育を排撃し、子どもの自主性、子どもの自発性を極端に重視した「子ども中心主義教育」」の欠点も栗田氏は暴いていく。この種の子ども中心の教育は、読み書きそろばんを卒業して学校の授業に退屈気味の最上位層に「のみ」当てはまる特殊な教育方法なのであって、家庭が教育に無関心で、読み書きそろばん「すら」ままならない層には百害あって一理無しの教育なんだという。これは実際に「ゆとり教育」を子どもが経験した親としては「良くぞ言ってくれた」という至言である。公立の小学校は私の住んでいる高級住宅街といえども千差万別で、出来る子もいれば出来ない子もいる。「しらべもの学習」等といっても、そもそも興味の対象が「ゲーム、アニメ」くらいしかなく、社会や理科に興味も関心もない層には「何を調べればよいのか」見当もつかないし、当然「どうやって調べたらよいか」わからない。だから今の小学校で行われている総合学習の時間や生活科の時間は、文字通り「幼稚園教育の延長」に堕してしまうのである。似たようなことは底辺校の中学や高校でも起きていることだろう。人間の学力には厳然とした階層があって、それぞれの発展段階に応じた教育が必要なのだが、「能力別クラス編成」を差別を助長するとして戦後の教員組合は拒否し続け、文部科学省もこれを追認して「全国一律平等」の教育カリキュラムを組んできたので、こういうミスマッチが全国のいたるところで起きてしまっているわけだ。

栗田氏は苅谷剛彦が展開する「学力と階層」の粗雑な議論も一刀のもとに切って捨てている。苅谷氏に見えているのは(1)の低学歴層の学力低下の深刻さと、本来なら(3)に属すべき大学生たちの「教養の低下」で、これをごちゃまぜにしつつ全体を論じるから「あるときは低学力層の学習離れにスポットライトをあてて、階層格差を論じ、あるときは全般的な基礎学力の低下にスポットライトをあてて学力の危機を訴える離れ業が苅谷の論の特徴だという。「教育論壇」では、更にまたあるときは「知性の崩壊」を根拠に「大学生・エリート批判」なんか出来ちゃったりしている。苅谷氏は(1)にスポットライトを当てて論を組み立てる時は「基礎学力の低下は親が低学歴の層に顕著である」と「格差階層論者」が喜びそうな(実は以前から日本にはずっとあるアタリマエの)結論を引き出し、大学の教育関係者としては、教養という見地から見て、いまの大学生が(3)の学習段階にはないことを「知性の崩壊」「教養主義の崩壊」として批判する。そして最後は大雑把に「全般的な基礎学力の低下」をPISAなんかを引用しつつ「動かぬ事実」として括って批判している」と栗田氏は喝破するのである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

2012/09/23 23:04

投稿元:ブクログ

レビューを見る

2017/01/10 20:30

投稿元:ブクログ

レビューを見る

4 件中 1 件~ 4 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。