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本書は「ならず者」の名を徹底的な分析の俎上に載せつつ、「来たるべき民主主義」をその緊急性において考え抜こうとするデリダ晩年の代表作と言えよう。まず「ならず者」の意味論的分析に関しては、この語が語源的に「街路」に関係しているとの指摘が非常に興味深い。街路に徘徊する「ならず者」。ボエームから郊外の反抗者たちまでの寄生者たち。
また、デリダの「来たるべき民主主義」の思考が、他の哲学者たちの思考と対照されている点も注目されるべきだろう。「来たるべき民主主義」を考えることは、しばしば同一視されるカントの統整的理念の想定とは異なっている。統整的理念が、理性的な主体の努力に依拠しているのに対して、「来たるべき民主主義」は、他者の予測不可能な到来につねに開かれることを指し示していて、それ自体としては「不可能なもの」であるが、にもかかわらず緊急に要請されているのだ。そこにあるのは、ナンシーの言う「兄弟愛」でもないし、さらに鵜飼哲の解説によれば、「来たるべき民主主義」は、ランシエールの考える、代替可能で対等な者たちの「不和」にもとづく「民主主義」とも異なっている。
では、「来たるべき民主主義」の思考が理性的な主体の権能に依存せず、同等な主体によって分有され得ないとするならば、そこにあるのは非合理主義的な理性の放擲なのか。デリダによれば、けっしてそうではなく、「来たるべき民主主義」の思考は、理性の可能性の条件とも言うべき無条件性を、理性のうちに呼び覚ますのだ。それは無条件の歓待や赦しの可能性を開き、理性に自己自身を思い起こさせるのである。そして、無条件性を具えた理性であることを現実に引き受けるのは、分割不可能な至高性としての主権であり、その力こそが、それ自身「ならず者」と化した超国家的権力に立ち向かいうるのだ。しかもその力が発揮されるには、「理性に理性を働かせなければならない」。具体的には、無条件の歓待や赦しの余地を私たち自身が切り開いていかなければならないのである。
「ならず者」が語られること自体のうちに内在する問題を炙り出しながら、「来たるべき民主主義」をその緊急性において考え抜こうとするデリダの『ならず者たち』。それは今なお急を要するものであり続ける世界的状況へ差し出された彼の晩年の代表作であると同時に、その状況へ立ち向かう私たち自身の、「理性」を担うべき「メシア的」力を思い出させる書物でもある。
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デリダの理論の深みをうかがわせる」
帯によるとデリダの「晩年の主著」である。この書物は二つの講演で構成される。一つはスリジィの恒例の一〇日間にもおよぶ講演とセミナーでの長文の記録「強者の理性--ならず者国家はあるか」であり、もう一つは「来るべき啓蒙の〈世界〉--例外、計算、主権」である。
最初の講演ではデリダは、アメリカ合衆国が一部の諸国を告発するために使った「ならず者国家」という概念をとりあげて、そのいかがわしさを暴き出す。ここまではチョムスキーと同じだと思われるかもしれないが、問題は政治的なものに限られない。主権と理性の問題であり、生の自己保存としての免疫と、それが生そのものを滅ぼしてしまう自己免疫、「死の欲動」(p.299)の問題でもある。アクチュアルな政治的な問題を哲学の根本問題にまで引き戻す手腕は、アガンベンとデリダの二人の思想家の際立ったところだろう。
第二の短い講演では、時間的な制約もあって、デリダは「電報的でも綱領的でもある」(p.293)形で、これまで論じてきたさまざまな問題を要約的に、手際よく提示する。その要約の巧みさのために、読者は目がくらくらするところもあるが、逆に引用に耐える短い文章も多い。第一論文では時間の余裕がありすぎて(デリダはそれでも足りない、足りないと言い続けるが)、迂回路をたどる時間が長すぎるので、引用できるところはあまりない。この迂回が楽しいのもたしかであり、デリダのセミナーは楽しかっただろうと想像する。
書評では電報的なものをさらに印象批評的に取り上げることしかできないのは残念だ。最初の論文では、民主主義が自己免疫を引き起こし、自殺する寸前にいたる事例を考察する。何よりも範例的なのは、アルジェリアだ。民主主義を否定するイスラームの政党が民主的な選挙で圧勝することが確実になった時点で、軍がクーデターを起こし、選挙を無期延期したのだ。
これは「民主主義の名における、民主主義に対するあらゆる侵害の典型的な出来事」(p.74)と言えるだろう。アルジェリア政府は、「開始された選挙過程は、民主的に民主主義の終焉に導くだろうと考えた。そこで彼らは、みずから民主主義を終焉させることの方を選んだのである。彼らは主権的に決定したのだった、民主主義を、民主主義にとって善いことのために、そしてその手当てをするために、最悪の、もっとも街全体の高い侵害に対してそれを免疫化するために、少なくとも暫定的に停止することを」(同)。これは「自己免疫的な自殺」(p.75)だった。
電報的な第二論文から自己免疫の簡単な定義を復習しておこう。「ある生体の中で、他者の攻撃的な侵入に対する免疫を当の政体に与えているもの、まさに当の主体が自発的に破壊しうる」(p.234)ことである。民主主義を守るために民主主義を殺すアルジェリア、主権を守るために主権の根源となるものを殺すクーデター、ならず者国家を攻撃するという名目で、みずからならず者国家となるアメリカ合衆国。アメリカ行政府は、「悪の枢軸」に対抗すると称して、民主的な自由を「不可避的に、また否認不可能な仕方で制限しなくてはならない。そして、それに対しては誰も、どんな民主主義者も本気で反対することができない」のである(p.86)。
それだけではない。「もっとも暴力的なならず者国家、それは、みずからその第委任者と自称する国際法を、みずからその名のもとに語り、みずからその名のもとに、いわゆるならず者国家に対する戦争を開始する国際法を、みずからの利害が命ずる場合には毎回無視して来た国、侵犯し続けている国、すなわちアメリカ合衆国である」(p.189)。
そしてアメリカ合衆国と同盟する国も、これに対抗する国も、すべての国も国益の名において、主権の至高性の名において、国家理性の名のもとで、同じように振る舞うのであるから、「もはやならず者国家しかなく、そしてもはやなず者国家はない。この概念はその限界に」(p.205)到達したのであり、「この終焉はつねに、初めから、近かったのである」(同)。なおデリダはこの主権性の理論の背後にキリスト教の神学が存在することを示唆する。「民主的と呼ばれる体制においてさえ、主権の根底には存在-神論がある」(p.299)。しかしこの論文ではそこまでは議論は進められない。
ところで自己免疫は、もっと普遍的な形で言い換えれば、アポリアでもダブルバインドでもある。「アポリア、ダブルバインド、および自己免疫的過程は、単なる同義語ではないけれども、それらはまさしく共同に、そして負担=責任として、内的矛盾以上のもの、決定不可能性を、……内的アンチノミーをもっている」(p.78)のである。この概念は、ここまで敷衍してしまうと、何にでも使える便利な道具のようになってしまうのはたしかだ。
後は電報的にいくつか。デリダはクローニングを好まないが、治療的なクローニングは否定する根拠がないと考える。それはそもそもすべての個別性には反復という要素が不可避的に存在しているのであり、それを無視して個性の貴さを、一つの生命の特異性をうたっても空しいからだ。「反復・複製は、生産・再生産とまったく同じように、文化・知・言語・教育の条件を保証しているのである」(p.278)。人間の特異性に基づくクローニング反対論は、「遺伝子主義ないし生物学主義を、つまりは根深い動物学主義、根底的な還元主義を、みずから反対しているはずの公理系と分かち合っている」(同)ことになる。
しかし自己免疫が絶対的な悪であるわけではない。出来事がその名に値するものであるならば、「出来事は、絶対的な免疫も何の補償もなしに、自らの有限性のなかで地平なしに、剥き出しの傷つきやすさにふれなければならない。その場合には、他者の予測不可能性に対峙して立ち向かうことは依然としてできない、あるいはもはやできないのである。その点からみれば、自己免疫性は絶対的な悪ではない。自己免疫性は対象にさらされること、すなわち到来することのないものない者に、したがって計算不可能にとどまるほかないものに、さらされることを可能にするからだ。もし絶対的な免疫性があるばかりで自己免疫性がないとしたら、もはや何も起こらないだろう」(p.290)。レヴィナスのアレルギーの議論と通底して、デリダの理論の深みをうかがわせる境地である。
【書誌情報】
■ならず者たち
■デリダ,ジャック【著】
■鵜飼哲、高橋哲哉【訳】
■みすず書房
■2009/11/20
■327p / 19cm / B6判
■ISBN 9784622073734
■定価 4620円
●目次
一 強者の理性(ならず者国家はあるか?)
1 自由な車輪
2 放縦と自由―悪知恵に長けた=車裂きにされた者
3 民主制の他者、代わるがわる―代替と交代
4 支配と計量
5 自由、平等、兄弟愛、あるいは、いかに標語化せざるべきか
6 私が後を追う、私がそれであるならず者
7 神よ、何を言ってはならないのでしょう?来たるべきいかなる言語で?
8 最後の/最低のならず者国家―「来たるべき民主主義、二回回して開く
9 ならず者国家、より多く/もはやなく
10 発送
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言いたい事は二項対立で考えるからおかしくなる、と言う事につきると思う。
ただ他で言われるように若干受動的なニヒリストであり、他者を苦しめる言葉で自分の首を絞めているような印象。哲学というより文学寄りなので、主張の偏りを感じた。
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J・デリダ『ならず者たち』みすず書房、読了。ならず国家を糾弾する合衆国がそのものへ、民主主義を守る為にそれを殺すアルジェリア-「強者の理由がいつでも正しいことになる」ことを主権概念の再検討から浮き彫りに。「自己免疫的な自殺」に注目し、「来るべき民主主義」を構想する晩年の主著。
とても読みやすいとはいえぬ一冊ながら、「民主主義」と切り離しがたい仕方で現前する国家主権の根源的な暴力性と、その変容可能性からの展望はさすが!
アクチュアルな政治問題を取り上げるのは、チョムスキーのおはこだが、それを哲学の根本問題にまで引き戻す手腕はデリダにはかなわない。
「民主的と呼ばれる体制においてさえ、主権の根底には存在-神論がある」。デリダは『ならず者たち』で、主権概念の背景にキリスト教神学が存在することを示唆するが、同書ではそれ以上のえぐりは展開されていない。
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2001年の9.11後の情勢を踏まえた「来るべき民主主義」論の深化とのこと。デリダの訳の分からない議論のなかでは「来るべき民主主義」の話しは、とても大きな刺激を受けているし、曲がりなりにも、9.11以降のテロリズムやアメリカの外交政策については、いろいろ問題意識をもって、考えてきたつもりである。きっと、理解できるはずである。
と思って、読んでみたが、これが見事に、全然分からない。デリダ、恐るべしだな。
きっと、「脱構築」についで、「来るべき民主主義」という言葉が、分かりやすいキャッチフレーズとして、広く流布したことへの反動であろうか、ここでのデリダは、極めて、難解である。
ある意味、初期のテクストの訳の分からない脱構築をやっていたときのなつかしのデリダが帰ってきた、という感じかな?
フランス語における「ならず者)(vouyou)という言葉の意味をかなりくどくどと分析したり、過去の自作の議論を前提として、どんどん話しは、ぶっ飛んで行ったり、やりたい放題である。用語的にも、「脱構築」「差延」「メシア的」「歓待」などなど、デリダ語のオンパレードである。
という意味で、デリダ哲学の総決算的なニュアンスもあるのかも。
それにしても、こんな訳の分からない本、しかも、フランス語の翻訳不能な語呂合わせ満載の本を訳した翻訳者のご苦労はいかばかりと思う。
でも、この本、読んで分かる人って、日本に何人いるんだろうか?