紙の本
飾らない、繕わない。
2008/07/28 20:56
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:求羅 - この投稿者のレビュー一覧を見る
角田光代さんの最新エッセイ集。
小説と違ってエッセイの場合、「さん」づけで呼ぶほうがしっくりくる。エッセイと一口に言っても、文章の美しさに惚れ惚れするもの、思わず笑ってしまうもの、視点の鋭さに唸ってしまうものなどさまざまあるが、角田さんのそれは、とても近しい感じがするのである。
小説を書いたことなどなく、一人旅をするわけでもなく、ましてや同世代でもない。共通点を探す方が難しいというのに、不思議と彼女の文章には共感できる。同じ目線の高さが、心地良い。
彼女のエッセイはほんとうに庶民的で、ものごとの捉え方も書く文章もごく普通である。ただ、「普通でいる」ということは、案外難しいのではないだろうか。
以前友だちと、「メールだと、必要以上に格好よく書いてしまう」という話になった。
近況(といっても、しょっちゅう顔をあわせている)やら悩み事やらを書いて送った文章を後で読み直してみると、「私って、こんなに格好よかったっけ」と、自分で自分にびっくりすることがある。会って話せば、脈絡のない話を行きつ戻りつし、情けない姿をさらけ出してお開きになるのが常だが、メールで伝えると、妙にかしこまってことさら自分を大きく見せてしまう。推敲して書いた文章はたしかに分かりやすいが、実像よりドラマ性に富んだ姿がそこにある。
人、とりわけ文章を書き慣れている人ほど、豊富な語彙や技巧を駆使して言葉を飾る傾向があるように思う。少し誇張したり脚色を加えたりしながら、文章を紡ぎ出す。それが「書く」ということなのかもしれないが、衒いのない素直な文章を書ける人を、私は単純に尊敬してしまう。
角田さんの文章やエッセイの中の彼女は、いたって普通である。機内で出る中途半端な日本食をマズイと言い、失礼な訪問者にムッとし、支えてくれた人たちに心から感謝する。けれど、飾らず、繕わず、等身大の姿をありのままに表現できるというのは、その平凡な響きとは裏腹に、じつは凄いことなのではないか。
かつて言葉を発するより文章を書くことを得意とした少女は、作家となり、書けない悔しさを知る。
――小説を書くということは、心底「負けた」と思い知るところから、ようやくはじめられる何ごとかなのではないかと私は思う。――
角田さんの文章がまっすぐ心に届くのは、彼女が驚くほど慎重に、峻厳な姿勢で書く行為と向き合っているからこそ、なのかもしれない。
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新聞や雑誌や会社の広報誌や・・・あちこちの媒体に載った角田さんのエッセイを集めたもの。
読んだ事があるものもあったけど、ほとんどは初めて読んだ。
角田さんを角田さんたらしめているもの、その核みたいなものを感じ、相変わらずこの人の文章はすっきりと読みやすいな、と思い・・・
そして、その核を元に小説が書かれているんだよな、と当然のことに気付き。
特別な出来事がなくても、街をただ歩いているだけで、きっと書く内容はたくさんあるのだろう。
それをきちんと自分の言葉で表現できるのが作家で、私はその文章を味わいながら、いろんな景色をみせてもらう。
一読者でよかった。
直木賞受賞後の言葉なんて、朝日、読売、毎日新聞にそれぞれ書いている。
全く別の内容を。
それが作家なんだろうけど、それでも驚いた。
私は彼女が作り出した作品を、ただ味わいたいと思う。
エッセイを読んだ後は余計にそう思った。
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エッセイ集。やっぱり角田さんの文章は好き。「本はいつだって私たち自身の鏡。成長すればその成長が、怠惰にしていればその怠惰が、くっきりと映し出される」「「へらへらした大人と話をしていると、へらへらの奥に、とてつもなくかたく厳しい芯が見えてくる。その芯の部分は、他人と共有、もしくは他人に強要するものではないと、大人は静かに知っている」「私は彼を思うとき、いつでも、背筋を伸ばしたいような気持ちになる。自分が何ものであるか、どれほどの名誉を得ているか、彼は自分からいっさい触れることがなかった。そんなものは彼にはなんの意味もなさなかったのだ。彼はただ、彼自身だった。花が美しさを誇示せずそこにただ在るように、彼は自分自身として、いたのである」最後の方の母親や平岡篤頼先生のことを書いた数編にはジーンとくるものがあった。2008/7
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おなじみ角田光代さんのエッセイ。
私的に、角田さんの小説の方は当たりハズレがすごいある。統一感がないからかなぁ。
ふわふわ読めるもの、感動するもの、どろどろ黒いもの。いろいろ。
底のほうに流れてるものはやっぱり一緒な気がするけど。。
気になったとこ。
小説というものに、当然勝ち負けはない。一位も二位もない。けれど、小説を書くということは、心底「負けた」と思い知るところから、ようやくはじめられる何ごとかなのではないかと私は思う。
小説を実際に書く以前は、有名・無名作家、年配、あるいは同世代の作家の書いたもの、ときとして古典や名作を読んですら、「これなら私にだって書ける」と、思う。そして実際に、数行を自分の言葉で埋めてみて、はじめて知ることになる。「あんなふうには書けない」と。同じ日本語、同じ言葉であるはずなのに、まったく異なるのである。なぜなのか。自分には何が足りないのか。愕然とする。
書ける、という錯覚と、書けない、という深い敗北感。そのどちらをも経験していない小説家はいないのではないか。
→
音楽にも通じることのような気がした。何が足りないんだろう。。?って思う。でも、それを見つけられるのは自分自身だし、納得するまで向き合うしかない。んだなぁ。。きっと。見つけられないからこそ、ずっとずっと成長できるんだろうなぁ。
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今まで新聞などに載ったエッセイをまとめたもの。
角田さんのファンなので、もう読んだものもいくつかあったりして目新し感はなかったものの、角田さんの書いたものを読むだけで幸せ。
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角田光代さんのエッセイを読むのはこれで3冊目です。
小説もエッセイも図書館に何冊も入っています。
これは新聞や雑誌のコラムのような短いものがたくさん収められています。
250ページで80編ほどあります。
ひとつが平均3ページです。
短いものばかりですが最近のものもあります。
亡くなった両親への思いを綴ったものもあります。
「対岸の彼女」直木賞受賞のことばがいくつか載っていたり、「八日目の蝉」について触れたものもあります。
角田光代さんは自宅から徒歩5分のところに仕事場を持ち、8時半から17時までそこで仕事をするそうです。
近くに小学校がありますが、小学校が夏休みに入り、子供の歓声(喚声)が聞こえなくなると意欲を失い能率が落ちるそうです。
そのあと仕事場か自宅の場所が変わって、電車で通うようになっています。
遅刻が許されない会社員や学生と自分は違うのだから、急がないようにしようと決意するところは微笑ましいです。
表題作の「何も持たず存在するということ」は、高校時代演劇部だったという角田光代さんに踊りの指導をしてくれた年配の男性がいて、その人は無口で指導以外のことはほとんど語らず、特に自分のことを全く語らなかったということです。
その人は世界的に有名な舞踏家だったそうですが、自分がどれほどの名誉を得ているかを語らなかったそうです。
角田さんはそのことを思うと、背筋を伸ばしたくなるといいます。
そのような大人であり続けことは難しいです。
この出会いは自分の宝だと角田さんは述懐しています。
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私はきっと、父がどんな男だったのか知らないままだろう。それは彼がもういないからではなくて、だれかと関わるということはそういうことなんじゃないかと思うのだ。知り得ない人を、その存在も不在もまるごと引き受けることなのではないかと思うのだ。/「かれのいない時間」
(P.62)
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角田さんのエッセイ集。この人のこの人なり、を知ります。こんな見方をするんだー、とか、ふむふむ、とか。好きです、この人。
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朝日・日経・読売新聞やさまざまな雑誌に連載された角田さんのエッセイをまとめたもの。
タイトルに引かれて読み始めました。
こんなおしゃれなタイトルをつけられるなんて…すごいな。
直木賞での受賞の言葉には泣きそうになってしまった。
お母さんを亡くされたすぐ後での受賞…。
「私が神様なら、この順番を逆にしていたと思う。」
という下りになっとくしかかったけど、
お母さんの葬儀という悲しい場面に集まってくれた編集者が、
直木賞受賞という嬉しい場面にも集まってくれて…。
悲しみと喜びを共有する順番はこれでよかった…という文章。
ずっしり胸に響く温かさでした。
後、各地を旅した旅行記。
中でも砂漠で見た月のエピソードはすごく神秘的でした。
自分の小説についてエッセイを書いていたりもして、未読の作品には興味を持ちつつ、
既読の作品にはストーリーを思い出しながら読みました。
意外と角田さんのエッセイを読んでいないことが分ったので、小説と並行しつつ読んでいこうと思います。
こうやって「この人すごい!」と思える作家に出会えるのは素敵なことだ。
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角田さんのエッセイ集。大音量目覚まし時計が警報機並みだったら悩むほど小心者かと思えば、ひとりでどこへでも旅に出る。様々な顔を持つ人だと思う。ところどころに出てくる比喩的表現がいちいち可笑しかった。『今日で東京3日目系タクシー』とかツボ。この不景気都内にはいっぱいいるんだろうか。そうかと思うと、タイで1時間一緒にバスを待ってくれたバイクタクシーの話には切ないような胸にじんわり染み込むような。紡ぎだされる言葉もまた様々な顔を持っていて魅了された。
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言葉ひとつひとつ、文章一文一文が、ほろほろと落ちてきて、それらをそっと大切に受け取って読み進めていく。
自分が悪くないって分かっていながら、すぐに謝ってしまうというところで「あたしもそうなんだよおおおっ!」と言いながら本を がたがた 揺らした。 どうでもいい。
いったいどうなんだろう、という疑問を、あたしに、たくさん落としていった、この本。そして、特に解決策が思い当たらないので、それでもいいや、と、あっさり投げ出す。
それでもいいぐらい良い意味で軽い本。
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久しぶりに買った角田さんの本。
角田さんのエッセイは読みやすいので大好きです。
でも、これは角田さんの生活スタイルをある程度分かった状態で読んだほうが面白いと思うので、
もし、角田さん初心者の方は、しあわせのねだんとかあたりから入ることをお勧めします・・・。
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角田光代さんのエッセイ。
いつも笑えるエッセイばかり読んでいたので、角田さんの
エッセイは真面目な印象を受けた。
ご両親の死、特にお母様の死を通しての著者の思いが
ズシリと重く胸に迫る感じ。
角田さんの人生もまた小説のようだと思った。
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角田光代さんの日々の目線、感じ方、心の声などを感じさせてくれた。
「何も持たずに存在するということ」(大野一雄氏―世界的に有名な舞踏家)
私は彼を思うとき、いつでも、背筋を伸ばしたいような気持ちになる。自分が何ものであるか、どれほどの名誉を得ているか、彼は自分からいっさい触れることがなかった。
そんなものは彼にはなんの意味もなさなかったのだ。彼はただ、彼自身だった。花が美しさを誇示せずそこにただ在るように、彼は自分自身として、いたのである。
そのような大人になり、そのような大人であり続けることが、いかに難しいか、年齢を重ねるにつれ実感する。そうした人に出会えたことは、決して失うことのない私の財産である。
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角田光代さんも、最近特にちゃんと読んでおきたいと感じる作家さんです。
これは彼女が各雑誌や新聞に連載していたものをまとめたエッセイだった。
作品の長さは連載している媒体によって違っていたけれど、
やっぱり量や長さはちゃんと弁えて書かれていた気がした。
こういうものって、どんなテンポで書き上げるんだろう。
「ちょっと、カフェ行って書いてこよー」の感じで、書けるものなのだろうか。基本的に、過去にあった事を思い出して書いていたり、今気になることを書いたりしているから、構成や展開をあまり気にせずパパパと書けるのであろうか?
私自身も最近「書く」ことに真面目に取り組みだしたところだったので、
書き手の姿勢として刺激される部分は多かった作品でした。