- 現在お取り扱いが
できません - ほしい本に追加する
決壊 下 みんなのレビュー
- 平野 啓一郎 (著)
- 税込価格:1,980円(18pt)
- 出版社:新潮社
- 発行年月:2008.6
- 発送可能日:購入できません
- 予約購入について
-
- 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
- ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
- ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
- 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。
紙の本
神の存在しない日本社会を「悪魔」は食い尽くすのだろうか?ドストエフスキー流の融通無碍な視線で現代人の罪と罰と贖罪を見つめた思索のドラマがここにある。
2008/09/02 00:21
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:よっちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「2002年10月、全国で次々と犯行声明つきのバラバラ遺体が発見された。被害者は平凡な家庭を営む会社員沢野良介」
良介には妻と喘息もちの男の子がいる。故郷には退職後の気鬱にある父とそれとの生活に疲れ気味の母がいるが、この父母だって歳相応にはしっくりしないところがあっても普通の家庭だ。良介の兄・崇は良介とは違って子供のときから優等生の誉れ高く、いまではエリート公務員。常に衆に抜きんでた兄といつまでも凡庸な弟は微妙な緊張関係にはありながらも兄弟の絆がはぐくまれている。
この作品はいくつもの物語が輻輳しているからあらすじを述べるのは難しいのだが太い線で捉えれば三つのストーリーが交差している。
第一に、良介のブログ「すぅのつぶやき」(広大なネット世界に通ずる小さな穴に過ぎないのだが)から漏れ出た彼の内心が「悪魔」の網にとらえられ、殺害され、報道するマスコミがあり、そして彼の家庭、父母の家庭が「決壊」していく破滅への物語である。
第二に、酒鬼薔薇聖斗的中学二年生・北崎友哉のブログ「孤独な殺人者の夢想」を目に留めた「悪魔」が少年の内心にある憎悪の感情を増幅させそれによって少年が殺人を犯すストーリーである。そして周辺に少年の仲間たち、教師たち、事件を取り上げるマスコミ、そして彼の父と母の破滅の物語が展開されている。
第三には「悪魔」ではないかと疑われる崇の物語である。疑惑については良介の妻、警察、これもまたマスコミ報道、彼の複数の女友達や知人、職場の人間関係から物語られ、読者も当然に疑う場所が用意されている。彼は「悪魔」なのか?………。
そして数多くの散りばめられた挿話がストーリー全体に厚みを加える。それぞれの挿話は見事にわかりやすい。例えば警察の取調室の模様は恫喝役となだめ役がいて最後は泣きで落とすという誰でも知っているパターンで描かれている。報道バラエティ番組にはこれも典型だが、コメンテーターと称する過激な発言をするタレントが実は結論的には迎合的におさめるという、昼にテレビをみればだれでもが目にするあの型どおりが再現される。学校で事件が起これば事件の核心を突こうとする先生と大人の解決を求める先生が激論をはじめ教育の場が大混乱するという挿話だって、学園ものドラマには昔からよくあったシーンだ。このように挿話は、事件の周辺に現実に存在するいくつもの視線でもって構成されている。今の社会を代表する観察者たちが事件のある断面をみせるのだが、観察者は型どおりに演じる喜劇役者だから、読者にすれば、いかにも表層だけを眺めている滑稽なくらいに無責任な傍観者との印象がますます強まって、もともととらえどころの難しい事件の本質が彼らによってはるか手の届かない遠くに追いやられてしまうことを実感するのだ。
二度読みをすれば、ストーリーが浄化されて著者のいくつかのメッセージが浮上してきた。ただ私の思考にはなにぶんにも消化能力に不足があって、感覚的でしかないのだがインパクトあるこんなイメージが残された。
100人の少年たちを集めたテレビ番組で「どうして人を殺してはいけないのか」とつぶやく少年とタレントコメンテーターの番狂わせの対決も印象的なドラマだった。この問いかけに対し神が存在しない日本人はどのような答えを用意できるのだろうか。かつては儒教的倫理にその答えを求めた。倫理を喪失した現在、それでは法秩序でもってこの深淵を説明できるのだろうか。
神が存在しない世界でも悪魔は存在するという言説に説得性が感じられるのはなぜなのだろうか。それは人の性は悪であるからなのだろうか。そして悪を無理やり閉じ込める「秩序=文化」に無理があるのだろうか。
いつの時代でもそのときの社会秩序から取り残された人々は存在する。そのエネルギーが階層として集結し、既成秩序を破壊し、新秩序を打ち立てる行動に昇華した時代があった。エネルギーが集結することなく、新秩序などは無関心にある個人の反社会的行動は単なる犯罪なのだろう。いずれも彼らは社会秩序の中に存在したのだが、いまや、その枠組みから「積極的に離脱」する人々がいるらしい。恐ろしいことだ。離脱社会的犯罪という概念が生まれるのだろうか。
すでに社会的制裁を受けている父母が殺人を犯した少年の前で「どんなときでも私たちはおまえの味方だ。せめておまえの反省の気持ちを遺族に伝えたい」と悲痛の懇請。そして少年は「………」。ぞっとするようなセリフが用意されている。罪とは?罰とは?贖罪とは?殺人を犯した少年の罪を両親は負わねばならないのか。父母はだれにどのような償いをしたら赦してもらえるのだろうか。その場合だれの赦しが必要なのだろう。これは法秩序では説明できないだろう。
この作品はあまりにも「言葉」があふれている。読者は言葉の海に溺れそうになる。言葉は思考する手段でもある。「知」そのものでもある。そしてあらゆる言葉・情報に通ずる崇は「この世界」の「知」を象徴する存在として登場している。知的存在者の彼はあらゆる事象を根源に遡って言葉でもって分析する。周囲の人たちはその彼を崇敬する。しかしながら崇は「言葉」「知」によって事象の本源、世界の成り立ちが解明できないことも理解しているのだ。そこに彼の人間としての弱さがあって、そのために彼は崩壊していく。まるで読者が言葉の海に溺れるように。
一方また「悪魔」も「崇」と同様に知的存在者として登場する。「悪魔」もまた「崇」と同様に言葉を知り尽くしている。「悪魔」と「崇」は同根なのかもしれない。ただし「悪魔」は「この世界」ではなく「あちらの世界」の存在であろう。そして「悪魔」には「崇」と違い事象の根源、あちら側からこちらの世界の成り立ちを説明できる強さがあった。
悪意が善意を侵略していく暗黒のベクトルだけが見える物語であるが、ただ良介と彼の家族だけがちっぽけな灯をともしていることに気づくはずだ。悪の量感がすさまじいだけに良介と妻の結びつきは感動というにはあまりにもエネルギーが小さいのだがそこに救いが見えるようでホッとする。良介は兄と違って、言葉を知らない。分析的思考を持たない。凡人である。にもかかわらず兄よりもはるかに事象の本質、世界の成り立ち、真理に近づくことのできる人間だった。なぜそうなのか。私も言葉を知らないから説明ができないのだが、なにか、やさしさとか善意とかで結ばれた絆のようなものを大切にしたいとする、そんな感性がそうさせるのかもしれない。