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1188年~1189年の『吾妻鏡』の記述。
・本巻の政治情勢
・吾妻鏡 第八 文治四年(1188)正月~12月
・吾妻鏡 第九 文治五年(1189)正月~12月
本書のほぼ三分の一をを占める分量の注、有り。
付録は、時刻表/方位、平泉復元地図。
地頭と荘園のトラブルや年貢、武士による不法行為や、
寺院仏閣の訴訟等の問題がまだ続く一方、
伊勢神宮の上棟、東大寺や内裏の造営など、
朝廷の望みに添った、或いは寺院仏閣への武士の力を
知らしめる行いも頻繁に登場する。
また、喜賀井島の制圧で当時の西の果てを押さえた記録も。
そして、鎌倉幕府の奥州への圧で、義経は滅亡する。31歳か。
続いて奥州合戦。追討に関する朝廷側の動きの鈍さに対し、
頼朝自ら出陣の大規模な出兵であり、幕府中枢の関わりもあり、
奥州滅亡と戦後処理、鎌倉への帰路等は詳細に記録されている。
文治5年7月19日出陣~8月8日合戦開始~9月3日に泰衡の死~
10月24日鎌倉帰着と、当時の東の果て、奥州の遠さが伝わってくる。
興味深かったのは、梶原景時と畠山重忠の描き方の違い。
突然登場する北条時連(時房)の15歳での元服の記録は、
将来の北条家初代連署だからの忖度が働いたような印象を受ける。