紙の本
2023年に読んでも頷くことばかり
2023/12/11 21:10
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投稿者:けんけん - この投稿者のレビュー一覧を見る
2023年になって、氏が指摘していたことがますます目につくようになってきた。改革したはずの教育はもう死に体といっても過言ではない有り様だが、氏の言うように街場から変えていきたい。
未読の方には是非読んでもらいたい。
紙の本
教育はビジネスではない
2009/08/05 20:57
12人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
内田樹の著作を書評するのは難しい。ほとんどが頷けることばかりであるし、目から鱗の発見も多い。それでも、いくつか意見の相違がある。そうなると、相違の部分が気になり、一言言いたくなるのだが、それは読むに値しないからではない。大いに値するからである。とにかく、一人でも多くの人に読んでほしい。
ということで、今回は意見の相違にあまり目を向けず、貴重な意見の一端を紹介し、興味を持たれた方に是非手にとって読んでもらいたいと思う。
・私たちはこと教育に関しては、自説の誤りの責任を取るリスクを取らずに、言いたい放題に言うことができる
・子どもたちが毎日学校に通い、先生の言葉におとなしく耳を傾けない限り、教育は機能しません
・教育改革の成否は、教育改革を担うべき現場の教員たちをどうやってオーバーアチーブへと導くか。彼らのポテンシャルをどうやって最大化するかにかかっています。
・「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能なのです。
・教養教育というのは、要するにコミュニケーションの訓練だ
・成熟は葛藤を通じて果たされる
・「扉を開く」ために最後にしなければいけないこと。それは「その人を教える気にさせる」こと。これはわりと簡単です。「ていねいに頼む」こと、これに尽くされます。
・「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことができない。教える立場にあるもの自身が今この瞬間も学びつつある、学びの当事者であるということがなければ、子どもたちは学ぶ仕方を学ぶことができません。
ほら、なかなかすごいでしょ。他にもいっぱいこんな珠玉の言葉に出会えます。当たり前のことなのに、現在の教育で忘れられていることばかりです。教育の復権に必要なことばかりです。
紙の本
あたりまえのことを力強く宣言することの困難さ。
2009/02/17 16:40
7人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る
現状での学校教育はとてつもない暗礁に乗り上げている。‥‥現場や行政の見方は、ほぼ一致している。ではどうすれば良いか。ここからは意見が分かれる。教育行政はころころ猫の目のように変わるし、一時期は絶対的な善とされたはずの「ゆとり」が現在では必要悪くらいに減価されている。
ここで著者は主張する。「現状を維持しつつ、少しずつ直していくしかない」(取意)。あたりまえである。しかしこのあたりまえのことを自信を持って主張する専門家や機関はない。
結論は「特効薬などない」ということに尽きる。誰がどう考えたたってそうならざるを得ない。だが、その結論を得るためにどの道筋を通るかは非常に重要なのだ。
「誰かが決定的に悪かったから現状がある、だから誰かを断罪すればすむ」のではない。無責任に先送りし続けたからこその現在である以上、これからは全員で引き受けなければならない。
わたしたちがわたしたちの教育をよみがえらせるために必要なのは拙速な論理ではない。まずは現場への協力と、現場の先生方が自信を持って悩みながら教育できる環境にしていくことが最優先である。
「街場」、つまり市井で語られる四方山話的な教育論という意味のタイトルだが、実際の内容はどっしり太くて意義深い。そして、現場で悩んでいる先生方に対する力強いエールとなる教育論である。
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「全国の先生を元気にする本」とは泣けてくる。
本屋さんでは平積みにされ、かなり売れているようであった。この本がこれだけ売れるのなら、少しは日本の教育に関する余計な干渉も減ってくれるのでは。
教師だけではなく、生徒諸君にも一読をお勧めしたい。
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授業をもとに書き起こしたという本。学生の発表を基にコメントを加えるような形で持論を展開する形式。教員だけでなくて、学生・生徒にも読んでもらいたいなぁと。
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一理ある。
いや、大いに納得したし、見解も広がった。
しかし、現場では適用しづらいものも多い。
秀逸は、なんといっても冒頭であろう。
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『教育とは、メンターとの出会い』。これに尽きると思う。
自分が上京してきて、周りの友人に感じた何かしらの違和感。
自分よりも上にいるんだとわかっていても、なにが違うのか、どうやったら其処にたどり着けるのかがわからなかった。
でも今思えば、この経過は正常だったんだと思う。
人生はどれだけその時々でメンターをもてるか。自分を高めていこうと思う。
『教育制度を改革するというのは、故障している自転車に乗ったまま、故障を修理するというアクロバシーを意味する。それがわかっていれば、教育改革というのが、どれくらい困難でかつデリケートな操作を要するものであるかわかる』
『教育の本質は「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路をうがつことにある。外部との通路を開くこと』
『「どうしていいかわからないときに、どうすべきかの目鼻をつける」。こういうことは私たちの日常においてはしばしば起こること。私たちの人生で決定的に重要な場面と言うのは、すべて「こういう場面ではどういう風にふるまうのが適切であるかについてガイドラインもマニュアルもない局面でなお適切に振舞うこと」を私たちに要求する』
『ルールを教えてもらっていないゲームのプレイヤー』
『数値目標や外形的目標を決めて、それを粛々と達成するために大学に来たわけではない。何をしに入ってきたのかよくわからないという無垢な状態で、ただアンテナの感度だけが最大値になっている。そして自分を惹きつける何か知的な求心力に反応しようとして大学に入学してきた』
『学生達はその時に自分の上に強い指南力を発揮する人を探す。そして大抵の場合出会う。それがメンター。』
『学ぶものに「ブレークスルー」をもたらすのがメンターの役割です。ブレークスルーというのは教育的な意味において「自分の限界を超える」こと。それは生易しいものではない。「これがオレの限界だ」といってすらすら記述できるものは「自分の限界」とは言わない。それはただの「欠陥」や「不調」にすぎません。欠陥が改善されたり、不調が修復されたりすることはブレークスルーとは言わない。枠組みに捕われていた人が、その壁を打ち破って、外に飛び出す…というのも違う。枠組みに捕われていた人と破って出た人は結局、同一人物だということになるから。多少手足の自由は増し、可動性も広くなったにしても、「ああ、ようやく自由になった」と言っている「私」がオリの中にいた時の「私」と同じ目線、同じ価値観、同じ言葉遣いでいる限り、それはブレークスルーとは言わない。喩えて言えば、日本地図しか持っていなくて、その地図上の自分の街の場所しか知らなかった人が、突然、東アジアの地図を差し出されて「君の街はここだよ」と指し示されたようなもの。』
『ブレークスルーというのは、自分自身を見つめる「視点」が急激に高度を上げること。自分自身を「それまでより広い地図の中で」、つまり「それまでより高い鳥瞰的視座から」見返す経験のこと。その時、自分をこれまでとは違う倍率で見つめている想像上の「鳥瞰的視座」のことをメンタ���と呼ぶ。ですから、それは厳密に言えば「ひと」ではない。「私を高みから見ている機能」なのです』
『学びというのは、自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるという形で進行する。この巻き込まれが成就するには、自分の手持ちの価値判断のものさしではその価値を考慮できないものである。自分のものさしを後世大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることは出来ない』
『学びとは「離陸すること」。それまで自分を「私はこんな人間だ。こんなことができて、こんなことができない」というふうに規定していた「決めつけ」の枠組みを情報に離脱すること。自分を超えた視座から自分を見下ろし、じぶんについて語ること。自分自身の無知や無能を言い表す、それまで知らなかった言語を習得すること』
『商取引のマーケットでは、「誰が」買ったということには「何を」に比べてほとんど重要性がない。けれども教育においては、「誰が」受けたかは場合によっては「何を」受けたかよりも重要。そしてほとんどのビジネスマンは、自分たちがそんなに面倒な商品を扱うことになるとは考えもしないで教育産業に参入している』
『とにかくそれまでは「お上の言うとおり、隣のやる通り」というルールで企業も学校も経営されてきたわけだけど、今度はそれが「アメリカの言うとおり」という、グローバルルールで経営されることになった。日本人は「日本人的でなくなる」ときに仕方も「日本人的」なのだ』
『人間は学んでいるときには、自分が今何を学んでいるのかよくわかっていない。自分がどこへ向かっているのかわからない。それでいいんです。その無知と不能の知覚基づいてはじめて、「自分がやっていることをわかっている視座」というものを想像的に設定できる』
『専門的な知識や技術はそれなりに身についた。ただ、それが何のためのものかを考える機会が与えられていない』
『良い教師が正しい教育法で教育すれば子供達はどんどん成熟するという考え方が、人間についての理解として浅い。』
『ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えること。自分で設定した限界を超えること。限界と言うのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではない。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。こんなことが私に出来るはずがないという自己評価が、私たち自身の「限界」を形作ります。「こんなことが私には出来るはずがない」という自己評価は謙遜しているように見えて、実は「自己評価の客観性」をずいぶん高くに設定しています。自分の自分を見る眼は、他人が自分を見る眼よりもずっと正確である、と。そう前提している人だけが、「私にはそんなことはできません」と言い張ります。でもいったい何を根拠に、「私の自己評価の方があなたからの外部評価よりも厳正である」と言い得るのか。これもまた一種の自惚れに他ならない。それが本人には自惚れだと自覚されていない
だけ、いっそう悪質なものになりかねない』
『私には責任がないから寝ている。責任があるものだけでな��とかしろと言えるのは実は危機感がないから』
『やりがいのある仕事 それは自分が一人の力で成し遂げた仕事に対しては、自分だけがその報酬を占有できるような仕事のあり方。例えば歩合制の営業マン、クリエイター、ミュージシャン、俳優、漫画家、作家。誰それのやった仕事というタグがしっかり貼り付いていて、それがもたらす利益を誰とも分かち合わずに済む仕事。クリエイティブでパーソナルな仕事 』
『今の子供たちは「集団を形成すること」と「個体として孤立すること」の2つの要請を同時に受けている。それがいじめという病態の根底にあるのではないだろうか。グローバル資本主義の人事ルールが幼い子にまで浴びせかけられている。本来ならば、まず同年齢の仲間達と集団を形成して、彼らと呼吸を合わせ、感覚を共有して、一つの共生態を作り出すことに専念するべきときに、「集団をつくるな。他人にうかつに共感するな。個別化せよ。自分のタグをつけろ」を言われる』
『自分らしさは商品購入行動でしか表現できないというイデオロギーが支配的なものになったのは80年代から後のことそれまでは消費単位は家族だった。消費に先立っては「家族内合意」が必要であった。したがって消費は抑制的になる。それゆえ官民挙げて「自分らしく生きる」キャンペーンが展開。誰の同意も必要とせずに商品選択を自己決定できるようになった。そのキャンペーンの過程で、消費行動に際して、「同意が必要な他者との共生はよくないことであるということ」についての国民的同意がいつのまにか成立した。』
『まず言葉のストックが必要になる。まず言葉のストックをどんどん増やしてゆく。その「わたしの実感によって充足されてない空語」が私の実感を富裕化させる』
『宗教性とは 自分を無限に広がる時間と空間の中にわずか一点にすぎないという、自分自身の「小ささ」の自覚、そして、それにも関わらず、宇宙発生以来営々と続いてきたある連鎖の中のひとつの環として自分がここにいるという宿命性の自覚。』
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うーん。
これは素直におもしろい。
著者の結論として一言で言えば、教育っていうのは社会そのものを形づくるものであると言うことがいいたかったのではないかと思う。
そしてその責任は誰よりも私たち1人1人にある、ということ。
この本で述べられていた葛藤が子供の、そして私たちの成熟を生む、ということをこの本は実践している。「子供は教師でなくとも、自分に葛藤を教えてくれる人から勝手に学び成熟する」という観点と、「結局教育を変えるのは現場にいる教員しかいない」という見事な葛藤を埋め込んでいるように思った。
教養の大切さとは、すなわちココではない外部が存在するということを知ること、コミュニケーションをとる、ということの大切さを知ること、答えのない問題に答えをだしてみせること、などの下りは新入社員としての自分にも良く言い聞かせたいと思った。
大学院時代の自分の苦しみも、良いメンターを自分で見つけられなかったことに対する悔やみのように思われる。
言葉、宗教、就職、仕事・・・・教育とはまさにそれらの根幹つくり、社会をつくり、日本人をつくるものなのであって、その責任は当然ですが、日本人である日本の皆さんが負うしかないのだなぁ、と思った次第であります。
教育改革とは走っている自動車を走っているまま修理するようなもの、という表現は巧みに教育問題の難しさを表現していたと思います。
イマイチまとまっていませんが、何を言いたいかと言えば、教育現場の人はもちろんだけれど、生きている間は我々は常に教育され、する立場であることは変わらないと思うので(成長したいと思い続ける限りは・・・)、ビジネスマンこそ、もうひとつの価値観を見つけるためにこの本を読むべきではないかと思うのです。。。
あと何より、こういう日本人のアイデンティティを強く語れる教員がミッションスクールで教えている現実が、日本という国の底力を表していると思う。(決して宗教によって制服されない思想と自信の蓄積、という意味で・・・)
このエントリはそのうち書き直しが必要かな・・・。
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国語教育、キャリア教育。
ことばの力。言霊。
周りの人のパフォーマンスを上げる能力。
こういう志を持つ先生が増えてくれたら
きっと日本の未来は変わる。
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大学での講義録を、現場の先生を読者に見立てて加筆修正したもののようだ。子を持つ親、一般の社会人にも是非とも読んでもらいたい。独特な切り口であるが偏見ではない、具体性もあり素直に納得できる見方で、教育に対する考え方ががらっと変わってしまった。教育論と言っても、学校での教育ばかりでなく、社会に出てからの教育も含めた人生論に近い。日本にこんな先生もいるんだ。
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ブログ上で社会問題について
独自の論を綴り、有名になった(らしい)
内田樹氏の「街場の…」シリーズの新刊。
文章はかなり平易で読みやすい上、
教育問題は(筆者を含む)知識人にとって、
無責任に物を言いやすい領域だとする
本書独自の主張が本文全体で貫かれており、
その点ではとても興味深い一冊ではある。
ただし、この点を加味したとしても、
筆者の専門が教育というわけではない
(彼の専門はフランス文学らしい)ためか、
教育そのものの分析がやや浅い印象はぬぐえない。
特に後半の国語教育論は読むに耐えない。
なので、
教育問題を考えるとっかかりとして読み、
その上で他の教育書を読むのが、
この本のベストな読み方ではないかと思う。
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内田氏自身が「どこにもない」と言われたらしい教育論が展開されている。
元々、大学院生のために開かれた講義録に著者が加筆して、一番おもしろいであろう「過激すぎる」部分を削除して(あ〜!残念)、出版されたもの。
高校生・大学生には勿論、教育現場にありながら、いまだ自分の頭はどうして固いんだろうなんて思っている先生方にはぜひ読んで欲しいなあ。
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教育と商売の違いを明快に書いた本。職業訓練のために教育があるのではない。だとしたら、教育の役割って?それは自分がわからないことを言語化し、適切な人に「教えてください」と言える力を育むこと。「支援を求める能力」の大切さがわかる教養書。
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『必要なのは「あるべき社会」についての「正しい情報」ではありません(あるべき社会についてのほんとうに「正しい情報」というのは、「そんなものはかつて存在したことがないし、これからも存在しない」です)。そうではなくて、「あるべき社会」を構築「する気」に私たちがなるかどうか、です。「正しい情報」を提供することが、人間が世の中を少しでも住みよくする努力に「水を差す」ことになるならば、「正しい情報」なんか豚に食わせろ。少なくとも、私はそう考えます。』−『第7講 踊れ、踊り続けよ』
内田樹の本を読んでいつも感じるのは、この人からは常に何かを学んでいる気にさせられるな、という強い思いである。時としてそれは、論評されているテーマについての、ずばり、と切り取られ言い切られた核心に対しての共鳴であったりもするのだが、この教育論を読んで、改めてそんな個々の具体的なことではなく、自分はこの人の中に伝道者の姿を見出してしまっているのだ、ということに気がついた。
これこれは実のところこういうことなんですよ、という言い方を内田樹先生はよくされる。それが余りに核心をついているものだから、そっそうですよねーなるほどなるほど、と先生いうところの「知的負荷を軽減する」ような態度で、その言明に飛びついて行きたくもなるのだが、そうじゃないそうじゃない、自分で考えなくちゃ駄目なんだ、という気持ちにも同時にさせてくれるところ、そこが内田樹の教育者としての凄味だと思うのである。
今回の「街場」は、いつものように語られたあるテーマとその周辺の思考、というお馴染みのスタイルでありながら、テーマが教育ということで、教育について教育的に語る、という入れ子のような面白さがある。いわば、混沌としたレベルを概観するメタなレベルを保持することだけでなく、その混沌としたレベルにも否が応でも絡め取られていかなければならない、という宿命があって、ますます内田樹の教育者としての真骨頂が示されているように思うのである。ああ、こういう人に「付いて学ん」だら、どんなに面白いことが経験できるんだろう、そういう気にますますなるのである(日々、ブログも楽しみしているけれど)。
一人の技術者として、あるいは少なからぬ時間を歌という行為に費やした者として、自分は、いわゆる「職人気質」という教育の在り方を信じている。ある技術は、一般的には方法論を通して、人から人へ伝わっていく。少なくとも、その外に居る者にはそう映る。しかし、どんなに解り易く具体的に方法論が示されても、その習熟は往々にして個人だけでは為し得ないことが多い。にも係わらず、先達と供にその技術に取り組むや否や、それは容易に「体得」されるのである。実のところ、一緒にやる、それだけで真に会得されるわけではなく、再び一人でそれに取り組もうとすると、如何に自分が未熟であるかを思い知るものなのでもあるけれど。だから正しくは「体得」ではなく「体得感」ということになるだろう。
優れた教育者は、何かの技術を体得させる術を具体的に持ち合わせている人のことではなく、体得感を与えられる人のことであると思う。そういう「伝える」ことの本質に迫りつつ��君たちもよく考えないとね、というメッセージも色濃く残すあたり、この本は内田樹先生の本の中でも秀逸の一冊であると思う。
ある人に師事するということの本質は、案外衣食住を共にする書生のような形が最良なのかも知れない。それは何かを具体的に教わるということではなく、何か訳がわからないうちに伝わってきてしまうものにさらされる、ということに他ならないだろうな、ということに思い至るのである。そして、やっぱりこういう人の傍にいて、どんな面白いことが起こるのかを見てみたい、と思うのである。
『「思い」というのは、「言葉にできなことがある」という事況そのものを言い換えた言葉にすぎません。「思い」が言葉の前にあったわけではありません。「その言葉では組み尽くされていない何かがまだ残っている」という感覚が導き出したものです。』−『第10講 国語教育はどうあるべきか』
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神戸女学院大学教授が語る画期的教育論。冒頭でいきなり、「教育」について語ることは控えようと教育論否定発言。しかし、著者はふざけているのでも、あきらめているのでもない。その発言の意図は読み終えてから、納得させられる。教育について、こんな考え方もあるのかと、目からウロコ。都心から離れたマイナーな文学教授で、映画論・武道論まで幅広い興味を持っているからこそ、こうした奇抜な発想ができるのだろう。
教育なんて興味のない人でも、義務教育には接したはず。だから、教育は人ごとではない。学生であっても、学生を引退した人でも、読んでおくべき本だ。できるなら、この本と学生時代に出会いたかったと、私は思う。
教育とは自分で何ができるのか、できないのかを知ることだという著者の言葉が印象に残った。