紙の本
面白かったです
2021/12/03 11:13
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:iha - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドイツ人作家さんによる小編~中編集です。どの作品も旅先での出来事が淡々と綴られていますが、終始フワフワした感じで物語が進行してゆき、個人的には非常に読みづらかったです。
投稿元:
レビューを見る
ひんやりと冷たいお水を夏のあつい日に飲むような心地よさ
でも、自分の軸が、不安定でぶれていて、繊細でいて
投げやり。でも、何だか読んでいて心地よい本でした。
サガンと雰囲気が似ているとも思いました。好きです。
投稿元:
レビューを見る
短篇集。7篇収録。
主人公たちの年齢を遥かに超えてしまった身としては、読みながら、「いや〜そんなのは、一時の気の迷いだって」なんて言ってみたくなったり。肩をがしっとつかんで、「しっかりしてよ〜」と揺さぶってみたくなったり。
徹底して反抗だけしていればよかった10代の頃とは違って、親のことを気遣うくらいには大人になり、かといって、きっぱり生きていくほどには大人になれず・・そんなもやもやした年代。
自分が何を望んでいるのか、何を望まないのか。何をしたのか、何をしたかったのか。すべてに紗が掛かったように、はっきりととらえることができない。人間関係においても。何もかもがどうでもいいような、どうでもよくないような。
そんな主人公たちが旅する先の(非日常であるところの)風物は、テラスの木の手すりの蜘蛛の巣に至るまで明晰に捉えられていて、心情のとらえどころの無さを際立たせている。
5番目に配された表題作とその後の2篇では、主人公が自分の核となるものをつかんでいて、そこから他者との関係を探っているように見え、前の4篇の主人公たちとは趣きが違うように思える。この後半の作品の、そこはかとなく感じとれる明るさが好き。
めげない風な主人公と、行きずりの関係ではあるけれど、他者とある瞬間を共有したという肯定的な感覚が好もしかった表題作「幽霊コレクター」と、珍しくユーモラスだった「アリ・オスカーソンへの愛」がよかった。
Nichts als Gespenster by Judith Hermann
投稿元:
レビューを見る
最初に読んだのは原文。
本屋で立ち読みをして、そこから暫く辺りを見渡して、今自分が「この場所」に居るということを実感しました。
それから日本語訳が出るというのでどういうニュアンスで読めるのか気になって購入。
責任を持って行動できるようになった人たちに読んでもらいたい本です。
この本の登場人物たちも自分の行動に責任や意識を持って行っているような、そんな感触が受け取れました。
素敵で鮮やかでしっとりとした短編の世界観に浸って貰いたい。
(2009.07.24)
投稿元:
レビューを見る
「人生」という旅を、少しずつ受け入れるようになったあなたへ。親友が恋した男との、密会。老いた両親と旅して変化する、娘の感情。恋人以上だけど夫婦未満、微妙なカップルが旅の途中で出遭った「幽霊コレクター」…。ドイツで30万部を超えるベストセラーとなった青春の終りを予感する旅をめぐる、傑作短篇集。
投稿元:
レビューを見る
ドイツ人女性作家の視線が淡々となぞるもの。
あたりまえのようにある孤独、
旅先での現実味の無い風景、
誰かが自分を満たすことは無いのだという悟りもしくは諦観、
タバコのフィルターのにおい、
ほんとうはわかっているけどそっとしておくもう一人の自分。
一作目『夏の家、その後』で一躍有名作家となった筆者による
五年の間を置いての新作。
短編小説だが、一貫した流れが見え隠れする。
若くはない女たちが、ふとした旅で見せる小さな変貌。
恋のようなもの、恋ではないもののはざまに立ちつつ、
淡々と自分を理解する女たち。
筆者は丁寧で繊細な言葉で彼女たちの像と、
その背後にある静かな風景とを結んでいく。
主人公たちの旅先はさまざまだが、筆者も旅人らしい。
自分に心地いい温度と湿度の作品に出会えると幸運を感じる。
これから、『夏の家、その後』を読もうと思う。
投稿元:
レビューを見る
『ヨーナスとイレーネはもう眠っている。スンナも眠っている。マグヌスも眠りについた。世界の終わりはどのような基準で測ればいいのだろう? 地平線はどのくらい離れているのだろう? そしてそれは、どこでも同じ遠さなのだろうか? 朝五時にポール通りとポツダム通りの角に立っていたマグヌスはどんな様子だったのだろう? そして自分は、その年月のあいだどこにいたのだろう?』−『冷たい青(コールドブルー)』
全ては、昨日のことと呼べそうなくらいの出来事。けれど、昨日とは、いったい思い出すのも大変なほど遠い過去なのか、それとも今もまだ鮮明に思い浮かべることができるくらいに新鮮な時のことなのか、よく解らない。それを定義しようと、硬質の言葉で足元を固めようとする先から、するすると逃げてゆく。それは所詮そんなものなのだ。
短篇の冒頭に投げ出される漠然とした疑問。それがきちんとした形で説明されることもなければ、それに対して答えが与えられることもない。物語のようなものは、ただ、過去と現在を行き来しながら進んでゆくかのようで、綴られているのは主人公のあいまいな思いばかりであるような気もする。そこにどこかを目指して動いて行くような物語の流れはない。
主人公の胸の内にかつて萌した、あるいはたった今湧きかけた、小さな心のうねりも、大きな動揺も、どれも同じ振幅の同じ周期の波に変換してしまいながら、ユーディット・ヘルマンは書き進める。その変換によって、変化を求めて日常から逸脱した筈の主人公の冒険の語りは、淡々と進んでしまうように見える。しかし、その単調に見える波を簡単に乗り越えてしまうと、この作家の面白さは見えてこないように思う。
人々が生来の土地というものを失って、つねに流浪することが半ば宿命づけられている社会。それが如何に蔓延しているか。そんな当たり前のような事実がじわじわと沁みてくる。帰るべき土地を持たない自分たちは、最終的に頼るべきものを持たないという意味なのだな。そういう理解が閉塞感のようなものを伴って迫ってくる。帰るべき土地、最終的に頼るもの。それは、安全装置としての社会的機能やまして利便性をいくら追及しても得られないもの、やはり共同体のようなものを意味しているのだろう。
それに気付いた人も気付かずにもがいている人も、一様に「今、この瞬間の」自分の立ち位置のことを不安がる。そんな風に近視眼的にならざるを得ないのは、小さなうねりを打っちゃって大きな道筋を示す単純な視座が失われているからに他ならない。むやみに小さな変化を正しく予想しようとすれば近似式は高次の関数となり安定性を失うのは必然だ。一見すると近視眼的ともみえるそんな現代的な世界観をユーディット・ヘルマンは描いているように思う。
どうにかなりそうでどうにもならない、と悲嘆に暮れてみた直後、どうにもならなそうでどうにかなる、と楽観的になってみる。そのどちらの未来予想にも何の根拠もない。しかし未来予想に果たして十二分に確実な根拠が与えられたことなど、かつてあっただろうか。今年の不作が来年の豊作を意味しないように、期待していた事柄は往々にして違った形で手元に遣ってくる。要はそれをどのように頂くかということだけなのだ、と思う。その無根拠の楽観性を、かつての共同体は支えていたのだと思う。「人間万事塞翁が馬」。その知恵の本質は「どのように頂くか」ということだ。
だからこそ、相反することわざがどちらも生き残る。 「大は小を兼ねる」、「過ぎたるは及ばざるが如し」。矛盾していると思いつつ、この瞬間に一番の慰めになる言葉を掛ける。それが共同体の支える知恵の本質だ。しかし、そこから切り離されてしまった人は、全てを自分で決断しなければならない。自分で自分自身を勇気づけなければならない。しがらみから逃れられて清々したと思っていても、自分のことを全て自分で見極めるのは苦しい。何故なら人は自分のことを案外知っているようでほとんど知らないから。その見知らぬ自分によって自分自身が苦しめられる構図。現代社会に蔓延する総鬱化の本質は、経済的な閉塞感というような単純なものではないのだということも、この本の中で改めて理解する。
移民二世や三世の描く世界観と、生粋のベルリン子であるらしいユーディット・ヘルマンの世界は、驚くほど響き合う。親世代の価値観との急激な変化に葛藤する移民二世たちの書くものとユーディット・ヘルマンの書くものが似ているそのわけは、あとがきにもある通り、ベルリンの壁「前」と「後」という価値観の変化が原因なのかも知れない。でもそれはそんな矮小化されたような理由なのか、とも自分は感じる。例えばジュンパ・ラヒリが広く受け入れられたのは、そこに現代社会に共通した何かがあるからである筈だし、そこにこの作家も繋がってゆくのだと思う。そして自分はユーディット・ヘルマンの作品の中に柴崎友香の世界観との共通も見る。それは、共同体を失った現代人を等しく苦しめている世界なのだと思うのだ。すべては幻のように見える。「幽霊ばかり」なのか、と訝しく思う。
そして答えは決して、与えられない。但し、容易には、と注釈がつくことも、また確かなことであるように思う。
投稿元:
レビューを見る
図書館で綺麗な背表紙が目に留まり、借りて読んでみました。ふっとよぎっては忘れてしまうような心の揺れさえも描かれていて、大好きな1冊になりました。女性目線の短編集で、非常に面白かったです。
投稿元:
レビューを見る
与えられた役割を巧く遂行できない人間という者は存在する。しかも理由は気がのらないという些細な理由で。その人物は時が熟すのを待っているのだろう。私にもそういった瞬間が今に訪れ、いとも簡単に出来事を消化できると。しかし状況は待ってはくれてない。どうしようもない時間が密接に周囲に撒き散らされる。些細な、しかしどうしても覆せない、他人には理解できない憂鬱さ、勿論気持ちのことなのだが、自分に真っ向から嘘をつき何もなかったようにやり過ごせない、不器用なんだか、ある意味正直なんだか、そういうのに眼差しを向けた感じかと。