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自分は神だと思い込んでいる患者と治療者との禅問答のような対話。患者は神ゆえに世界の悲しみを全て背負っている。神を悩ませるのは、力ある者からの力なき者への不条理な苦痛。つまり人間が人間に加える苦痛で、神は人間に平和に生きるための手段と、その手段の使い方を考える時間をふんだんに与えた。にもかかわらず、この世から悲しみは無くならない。神までもが精神科医に相談してしまうほどに、世の中には悲しみがあふれている。
この本はノンフィクションとして読んだほうが面白いかもしれない。
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神が精神科医を受診しにくる、という設定で宗教観を語っている。人々が何教を信じるかが問題なのではなく、何をするかが問題だ、というまっとうなバランスを持った話。
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色々と考えさせられる本というのは数多くある。しかしこの本ほどに様々なレベルで考えさせられる本というのは多くない。そしてその考えに(それは究極的には疑問と言い換えてもよいのだが)着地点が見つからないのは、それが多分に信仰の問題と絡んでくるからであり、突き詰めて問えば、それは信じるか信じないかという選択にまで行きつく問いであるからだ。
信仰、といっても、それは直ちに宗教的な信仰を意味するわけではない。科学の中にもそれはある。「神の不在は証明することができない」、その科学的な言明の意味するところを、未だ「無限」をてなずけられない科学の非成熟を示すものとみる(つまり科学のさらなる進歩はいずれ神の不在を証明し得るとする態度=信仰をとる)のか、あるいは、その不完全性はそもそも創造主である神の意図したものであるとする(宗教的信仰をとる)のか。日頃、科学教を信じるものである、とクレドしている自分にとって、それは中々にスリリングな二者選択の強要である。この本は詰まるところ、そのことを問うために書かれた本であると思う。
その問いはストーリー全体から教えのようにも伝わってくるし、自らを神と名乗るゲーブ(ガブリエル)の言葉からも直接的な問いとして伝わる。それにもまして其処彼処に埋め込まれている隠喩を無意識にに読み取ってしまって、その啓司のようなものに驚きもするのである。
例えば、本書は神を名乗る男の希望で行われた10回の精神分析セッションを各章として構成されている。「10」という数からは当然のことながら「十戒」が強く連想される。例えば、ガブリエルは三つの一神教に共通して表れる天使の一人で、神の声を伝える役割を担うものである。その天使と同じ名前の男が何かを語るということの意味。そのような符丁は余りに宗教的に過ぎるとしても、読み進めるにつれじわじわと人間という存在の抱える問題へと意識が吸い寄せられていく。その過程そのものまるで不可侵なる者によって意図されているのではないだろうか、という気がしてくるのである。それを、本書の執筆者とされる精神科医と供に、否定しつつ、否定しきれないものを感じ取って行くのである。
そういう大きな問いを強く意識させる一方で、本書には読む者個々に響く問いというものも埋め込まれているように思う。
「人間の精神の進歩は到達すべき地点より遥か手前で止まっているんだ。精神の進歩を『資源』と考えるならば、資源の供給は需要に全く追いついていない。石油資源の不足がこれからの問題なのではなく、言葉の真の意味での思いやりの不足がこれからの問題なのだ」−『限界点』
石油探査に係わる者として資源の枯渇は大きな問題だ。技術の進歩により地球上のありとあらゆる場所の資源が探査され、想像もしなかったような場所に隠されていた資源を探し出している。それは逆に残された探査の対象が急激に減少していることも意味する。しかし近年の本質的な問題は、探し得る資源の枯渇ではなく、早過ぎる消費による枯渇である。次々と産油国が純資源輸入国に転じ、国家規模で残された資源の奪い合いが進行している。そのことに���る困難さが技術の困難さを既に上回っている。全人類的に考えれば、その状況をなんとかすることは可能であろうとも思う一方で、それを成すために足りないものの大きさに、個人としては絶望するしかない。
そういう「気づき」は、きっと多くの読者の中で全く違ったフレーズからもたらされるものであろうと思う。そんな十全性のようなものを意識すると、この本自体の存在が「信じるか否か」を激しく問うていることに気づく。
「ゲノムの研究は肉体の世界のみならず精神世界の構造をも明るみに出し、生物の進化のプロセスに確固たる解釈を加えてゆくだろう。だが、善を求める人間の性向は明らかにされるだろうが、善の実行のメカニズムは決して明らかにされないだろう。何故なら個々人の自由意思や道徳上の良心は科学といえども決して完全には説明できないものだからだ。リチャード、」−『啓示』
そういう崇高とも言えるレベルとは別に、案外この本には無神論に対する強烈な皮肉のようなものも含まれているのかもしれない。まあ、神は残酷な面もあるとする宗教もあるのだから、それを崇高ではない人間的な皮肉と捉えてしまう必要もないのだけれど。とにかく、その最たるものがゲノムにまつわるものへの言及である。ゲノムというのは、人間という有機化学的な存在を還元主義的に分析する究極的な要素であると思われているけれども、恐らくその研究に携わる者の中にさえ、どこか居心地の悪さを感じさせる考え方でもあると思う。心の中で問ことを止められないのだ。「で、本当にそれで全てなの?」 その問いに対する否定的な答えが啓司された時、リチャード、という神の精神分析医となった男の名前に込められた隠喩に気づいたような気がした。
そう、我々は利己的な遺伝子の単なる乗り物ではない筈だ。但し、そんなことは神に言われずとも、心の奥では無証明的に解っているのではあるけれど。
ところでこのカバーの絵はオリジナルも同じなのかな? これはクレーだよね。たしか「忘れっぽい天使」というタイトルだったはず。だとするとそれも何か暗示的だね。
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ある精神科医のところに、神と名乗る男が現れる。
自分は神だが憂鬱を抱えていて、それを晴らす為に来た、と。
彼は本当に神なのか、それとも自ら神だと思い込んでいる精神病患者なのか、というところを軸に話は進んでいく。
ここで描かれる神は全知全能の神ではなく、疲弊し苦悩する神。
医師と神の間で交わされる会話を通して筆者の宗教観、哲学が語られる。
世の中には寛容さが足りないよね。
自分は寛容でありたいと思う。
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ストーリーの後半の頭まではかなり面白く読めたけれど、これからと言う肝心のその先があっさりと尻切れトンボでがっかり。
目指すは無償の愛か無欲の愛か!
片流れの愛か相互通行可能の愛か!
神はここでも定番の中年男だけれど
これを自分のコピーとしの出現だとか出来の良い精神病患者かも知れないとか、期待したりもしながら読み進んだけれど。
透し能力で相手を惹きつけようとするところも、幼稚な力の誇示でしかなく意味を成さない。
奇跡と予言の神の子イエスと同じように安易な方法で、怠け者に仕立てた人間に取り入って、出来もしない神が決めた善行だけを押し付けようと画策する。
神自身が迷って悩みを抱える全知全能でないところも、イエスそっくり。
開業セラピストである著者が、疲れた神だと名乗って現れた患者を病人として手放そうとしない上に、立場の逆転を拒むことに立ち往生している器量の狭さにも、立場の逆転を拒むことに立ち往生しているところにも、アメリカの男らしさにとらわれている著者の姿が出ているようで面白い。
一神教らしい創造主としての神とその出来の悪い作品としての人間との関係に、納得の行かないものを感じてしまう。
作品として何をコンセプトに人間を創ったのかも曖昧だし、この理不尽で馬鹿馬鹿しい現実を生き抜いてまで得たいほどの宝も見出せない。
与えると言う依存関係から出れないもどかしさを感じてしまう。
人間が地球と言う宝島で発見するだろう宝に付いても、ここでは一方通行でしかない無償の思いやりという遣り取りの寛容と正義だけでしかないけれど、私が描くパラダイスでは心身ともに満たされたが故の無欲の自分だし、その結果としての見守る博愛と責任ある自由と成長する喜びに向かう冒険であって、愛のニュアンスがまるで違う。
神の下での片流れの平等観を持つ愛と、集う人同士の対等な愛との違いを認めざるをえない。
負けるが勝ちとか失敗は成功の母とか言う意味すら持ち込めずに、表面的な善悪に振り回されている神の何と可愛く幼く惨めなことか。
結論としては相も変らず救世主再来の話でしかなかったのかな。
題の面白さにケロットだまされた感じ。
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精神科医の主人公の元へ、ある日「神」と自称する男性がカウンセリングを申し込む。その「妄想」を治すべく手段を試みる主人公と「神」との10回のセッション。
妄想「神」は本物だったのだけど、どんな奇跡を見せられても頑なに信じない主人公がまたすごい。
とにかく懐でかい神様。内容、すごくいいです。こんな神様なら着いていっちゃうかも。