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投稿者:AQUIZ - この投稿者のレビュー一覧を見る
いつだったか、手にしたことがあるような気もしたが、恐らく紹介文か書評か何かを目にしただけで、実際に読んだことは無かったのらしい。古く、有名な本だったらしいが邦訳が文庫となったのは、これが始めてだとのことだったので。
「パパラギ」と云う、奇妙で理解しがたい風習を持つ人々について、ある身分の高い男性が同胞へ語ろうとした演説をドイツの編者が彼の意志に背く可能性をも冒しながら編纂したのが本書の原典だと云う。
ツイアビ氏という語り手は、異様な格好を最善のものであると信じて着飾る「パパラギ」達を冷静に観察して同胞へ伝えようとする。不健康で、目的の判らない奇妙な着衣や装身具は、彼らの文化には存在し得ないものであるから、それらを辛うじて似た点を備えた自分たちの社会にあるものに例えて語る。誇張もせず、批難や侮蔑を飾り立てるため歪めることもせず、率直に、ありのままを語る。
不可解で、矛盾に満ちた「パパラギ」達の慣習や思想をツイアビ氏は観察している。
ただし、ツイアビ氏は暗く、貧しく、愚かで悲しい「パパラギ」達の生き方を自分たちと同じように変えようとは望んでいない。淡々と彼らの姿を同胞へ語り、「パパラギ」達が信じて求めている幸福や豊かさが、明るい光ではなく忍び寄る闇であることを警告するだけだ。
まるでSFやファンタジィじみた異界の人々の観察記とも思える本書だが、比喩に満ちた寓話ではなく、素直に見たままを連ねたツイアビ氏の手記が原型である。
では、この衰退し滅び行くような「パパラギ」達は、60年経過した現在、とうに死に絶えたのだろうか。
実は、僕たちは「パパラギ」の生き方をツイアビ氏より良く知っている。
パパラギとは、南海の島の酋長であるツイアビ氏らが白人(ここではヨーロッパ人)を指す言葉である。全身を布や革で無闇に被い尽くし、光も風も与えられない石の箱に住まう人々のこと。
ツイアビ氏は、実際にヨーロッパの国々を見た。白人達が自分たちに与えようとした、彼らの思い描く机上の空論に過ぎない叡智が、いかに取るに足らないものであるのかを確かめた。
新しいものを頑なに否定したのではない。未知のものを直感だけで恐れたのでもない。
良いと勧められたものを無防備に信じることもなかったが、先入観だけで避けて通ることもしなかった。
パパラギは、60年も前のヨーロッパ人のことであるが、僕たちの生活は今やパパラギと同化を経て、一層の暗闇へと向かっているのかも知れない。当時のパパラギとシャパニ…彼らの言葉で云う日本人…には、かなりの差異があっただろうが。
パパラギも、シャパニも、あらゆる石の箱に住まう人々も、ツイアビ氏と同じ暮らしを営むことはできないに違いない。一年の半分を雪で覆われる僕の街が、彼らの島と同じく椰子の木に囲まれた、年中とても暖かな土地に変わったとしてもだ。
仮に僕が、宇宙を隅々まで気軽に旅し、様々な物質を自在に操り、誰も餓えず、病に苦しむ者もない星へ視察に向かったとして、果たして観察すらも満足にできたものだろうか。
ツイアビ氏たちの島には、両手の指で数え切れるほどの種類の食べ物に、同じ数ほどの道具しか存在せず、家には窓もない。物質量だけを比較すれば、彼らの文化は酷く粗末で貧しい。
僕たちは、ビルも道路も、携帯電話もインターネットも破棄することはできないだろう。新しい物を得るたびに足りないものが次々に生まれていく。これを豊かさと発展であるのだと信じなければ、辛すぎて生きて来られなかったのかも知れない。
それでも、大切なものだけは全部持っている南の島の人々のように、捨て場のないガラクタに埋もれながら、石の箱の中から出られなくとも、きっと光を探すこともできると信じたい。
この1冊の「パパラギ」は、明るい海を渡る小さな舟。通り抜ける風。明日には昇る太陽だ。
物欲からの脱出を
2020/05/13 10:06
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
南太平洋のとある部族の首長が、ヨーロッパのど真ん中に投げ込まれます。物質的な豊かさを追い求めてしまう、20世紀からの風潮に鋭い疑問を投げかけていました。
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いま目の前にある世界が正しい(あたりまえ)と思い込んでいる人が読むべき本
俗世の価値観にとらわれている人が読むべき本
パパラギは、「金」にとらわれている、
パパラギは、「時間」にとらわれている
パパラギは、「自分」を中心に考えている
パパラギは、「欲」に目が眩んでいる
パパラギは、「自然」をないがしろにしている
パパラギは、「神」をないがしろにしている
過信
勘違い
思い上がり
ゆがんだ価値観
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大学時代の友人の不思議ちゃんが今は、スピリチュアルカウンセラーになっているらしい。
そんな職業があるんだ、と思いながら別の友人から色々、近況なんかを聞いているとその子の愛読書がこの本で、という話題になった。
価値観の多様化、なんてことが声高に言われるようになって久しいが、これぞまさに異なる価値観。
結局、自分も枠にはまった「常識」に取り込まれてしまっているんだよな、と感じる。
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サモアの酋長ツイアビの話
サモアで白人(ヨーロッパ人)のことをパパラギと呼ぶ
ツイアビから見たパパラギについての考察は、単純で面白い。
その反面、とても的を得ていて、鋭い。
自分の生き方も考えさせられる。
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おまえたちの目を見、それを金持ちのアリィ(紳士・男)の目と比べるなら、
彼らの目はかすみ、しぼみ、疲れているが、
おまえたちの目は大いなる光のように輝いている。
喜びに、力に、いのちに、そして健康にあふれ、輝いている。
おまえたちの目は、パパラギの国では子どもだけしか持っていない。
彼らが都市と呼ぶところは、
平べったい手のひらのようにうつろな場所なのだ。
物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいからだ。
パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。
寝むしろと枕のほかには何もない、
海を渡るおだやかな季節風のほか、
何も訪れてこないサモアの私の小屋のことを、
あれほど恋しく思ったことは一度もない。
私はよく、何歳かとたずねられた。
そのたびに私は笑って、知りません、と答えた。
私たちの言葉に「ラウ」というのがある。
「私の」という意味であり、同様に「おまえの」という意味でもある。
ふたつはほとんどひとつであり、同じ意味である。
目的地に早く着くことが、
たいした得になるわけではない。
ぶらぶら歩き、さまよう楽しみを、
私たちを迎えてくれる、
しかも思いがけない目標に出会う喜びを、
彼らはすっかり忘れてしまった。
かしこいサモア人なら、暖かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。
頭だけでなく、手も足も、腿も、腹も、からだ全部で光を楽しむ。
考えるということは、道をふさいでどけようもない、
大きな熔岩のかたまりのようなものだ。
パパラギという人間の中では、
欲望と精神が敵意を抱いて対立しているようだ。
彼らは、くだけてふたつに割れた人間だ。
考えるという重い病気が、彼らを襲っている。
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夏休みや冬休み、リゾート地でオトナがぼんやりと読むのに、いい本です。
書いてある内容を「いいなあ」と腑に落ちるようになるには、年季が要ると思う。
都市も田舎もひととおり暮らし海外生活の不自由さすらもこなし、それでも「なんだか違和感がつきまとう」体験を積まないと、酋長さんのメッセージはあんまり面白くないんじゃないかなぁ。
なので翻訳のかたのあとがき「若い人に読んでほしい」は無理あるかと。若い人って自意識過剰でバカだし。
ちなみにパパラギとは「白人」の意味のサモア語だそうですよ。
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痛烈な文明社会批判。耳に痛いというか胸に痛いというか……。ツイアビが生きていたのは19世紀だけれど、今読んでもまさにその通り。技術力はどんどん向上しているけれど、人間は殆ど変わっていない。
でも最早文明社会でしか生きられない身としては、ここまで軽蔑されるのはやはり哀しい。
最初に彼らと触れ合ったパパラギたちが、もっと彼らを尊重し尊敬していれば、ツイアビもここまで頑なにはならなかったんだろうか。考えたところでどうしようもないけれど、つい考えてしまう。考え過ぎると不幸になるって、真理だな。
“自分探し”している人たち、自己啓発本を何冊も読み漁るより、これ一冊を読む方が色々ガツンと来るんじゃないだろうか。
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文化を持たない
サモアかどっかの
島の長老が
初めて
人の文化を見て
サモアの人に
文化
っていうか
文明か
というものを
伝える話
いいですよー
曇りなき眼とは
このことだな
って思います。
この本では
文明を
否定してる感じがするんですが
僕は
都会人で
でも
アンチテーゼ文明
な所もあって
バランス良く
文明を使っていければ
いいと思っているんですよ
人類は
ここまで進化して
すごいなって
純粋に思うし
もっともっと
便利になりたい
良くなりたい
ってのは
当然の欲だとも
思うんですよ
犬だってね
美味しい食べ物ばかりを当たると
まずいものを食べなくなるって
言うでしょ
だから
生物として
至極
当然のことなんですよ
パソコンなんて
すごいでしょ
SEの人とか
ほんとすごいと思いますよ
最近仕事で
エクセルのVBAとか使ってるんですけど
便利よーこれ
マクロとか
あっ
でね
そんなン触ってみると
SEってすごいなって思います。
もう
PCとか
このまま
どこまでいくんだよ
って思ったりもしますが
何を言いたくなってきたんだろう
僕らは
いろんなものを得る代わりに
いろんなものを失っているんだろうな
って思います。
いまは
選べることがたくさんあります
しかし
それは
苦しいことであり
ラッキーなことでもあります
僕は
この時代に生まれ
便利の中で育っちゃったから
なぁ
どうなりたいんだろうなぁ
まぁ
気の向くままかな
とりあえず
オポノポノしよう
それが1番
0が
1番です
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電車なんぞで読もうものなら、周囲から奇異の目で見られること間違いなし。爆笑します。最高に面白く中身のある本です!一人でも口角を押さえる事は完璧に不可能で「何読んでるの!?」と家族皆に聞かれる程。と言いますのも、酋長ツイアビの私たち「文明人」に対する指摘はユーモアに富むに留まらず、グサリグサリと胸に突き刺さり唸らされます。指折りのマイベストセラーに入る一冊!
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この本を読んでいると、自分のいる世界が、ぐにゃりと曲がる感じがする。自分がこれは「善」だと思っていたことが、実は幻想なのかもなぁと思ったりする。
読んでいてあまりにもばっさりと切られまくるので、何回も、くえぇ~と唸ってしまった・・・。
南の島の酋長ツイアビが、白人社会を独自の目で語り、警鐘を鳴らす。
白人社会の文明、技術、思想、などは、グローバリズムという聞こえのいい言葉とともに、日本はもちろん世界中が同じ方向に舵を取りつつある。自発的に、または無理やりに・・・。
世の中のビジネスマンは、こういう本に触れる機会があるんだろうか?
読んでどう思うんだろうか?特殊な人の戯言のように思うんだろうか?
私は、今の日本での暮らしの中で、しあわせだとか、よろこびだとかは、なんだろうかと、この本を読んで考える。
それすらも、ツイアビには、笑われるんだろうなぁ。
そういえば、昔初めて行った居酒屋というかバーというかみたいな店の名前がパパラギだったなぁ・・・。
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酋長の感覚と言葉が新鮮だ。文明の危険なことは分かっているのに、読み進めると退屈さに変わっていく。生き物として病んでしまったと自覚する。
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この本を読むと、今の社会で当たり前だと思っていることがそうではないというシンプルな事実に気づかされます。
サモアに行ってみたい。。。
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サモア人村長が、“パパラギ”と呼ばれる都市で暮らす白人たちに対して洞察した本。これまで常識だと考えて自分が積み重ねてきた行動が、こういうようにも考えられると気づかされる名著だと思った。
① “すべては神のものだ”(「パパラギが神を貧しくした」)
パパラギは常にどうしたらあるものが役に立つか考える。それは皆のためではなくたいていは自分のためである。そのため、神がもたらした恵みも自分のもののように考えている。自分のものを取ろうとするものは泥棒と呼ばれる。ものが少なくなれば争いが生まれる。
“すべては神のもの”とする共有財産制であれば、取り合うことも、そもそも「私の」や「お前の」ものという概念はない。すべて分け合う。日本人にとっても、既に忘れ去られた考え方であろう。
② 新聞という“まやかし”(「まやかしの暮らしのある場所について、束になった紙について」)
パパラギはまやかしの中で暮らしている。そこでも顕著なものは、情報が束になった紙、「新聞」である。新聞は沢山の情報を提供し、その場にいずとも何が起こったのか知ることが出来る。だが、この新聞は2つの弊害をもたらす。
まず、多くの人が共通した情報を知るため、人とのコミュニケーションが減る。ほとんどは既知のことが増え、それを繰り返すだけになるからである。自分の目で見ずに、他人から聞いたことがあるだけの情報では人の心を動かすことができない。
そして、新聞は自身の考え、それも莫大な量の情報を人に送り出す。それをパパラギは前日の情報をも処理できぬまま、頭に詰め込む。次第にパパラギは消化不良に陥り、“まやかし”に追われ、それが真実だと考えるようになり、思考を止める。
これは新聞だけでなく、情報に溢れたインターネットにも共通したことだと感じ、情報を詰め込むだけでなく、時に立ち止まって自分で思考することも忘れてはならないと思った。たまには本を読むことを止めて旅に出るのも悪くないかも。
③「考えるという重い病気」(p132〜)
村長がパパラギに対して疑問を感じたことの中で、一番私が衝撃を受けた話。村長たちにとっては、パパラギが“考え続ける”こともおかしいというのである。
パパラギは考え続けることに慣れ、常に思考することを好む。旅行の際にも、この次はどうなるのだろうか、と考え続ける。だが、これでは心ここにあらずで、旅行していないのと同じであると村長は言う。
パパラギは考え、それを書物に書き溜め、次世代にも受け継ぐ。思考することは良いが、同じ思想を詰め込むことになってはならない。詰め込むだけにならないためには、「忘れること」も必要である。だが、パパラギは思想を捨てることができず、詰め込み過ぎて病んでしまった。適度に忘れる。覚えることが善とされた我々が、それを大切だと感じるにはどうすればいいのだろうか。
全体を通して先進国に住む人間にとっては感じることの多い本だった。勉強する、詰め込むことがすべてではない、だとすればどうしていくべきか。詰め込むにしてもいま詰め込んでいることは本当に必要なのか。自問自答するいい機会となった。
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まずはじめに、わたしとは全く異なる世界に住んでいる人だ。。と思った。
最初は腰布って?と思いながら訳が分からなかったけど、、仕事やお金、神様についての話をみるうちに、心が引き込まれていった。
自分の価値を高めるために、「なにか一つ専門性を身に付けよ」といわれる。でもそれって人として、一握りの力しか使わないことなのかもしれないなぁ。お日さまを感じる力、澄み切った空気をお腹いっぱい味わう力、そんな力を使う機会が少なくて。
また、お金がない、とかよく話すけど、何にでもお金を介在させて物や情報をやりとりしていることこそが変な話なのかな。身の丈にあったお金との付き合い方ってなんだろう。絶対的に正しいことがないはずなのに、神様が持ち出されるとそれが正義に変わるのはなぜだろう。
魂が喜ぶこととは、こういうことなんだろうか。と思った。
*アナスタシアの解説を通して知ってから、ずっと気になっていた。ある本屋さんで平積みにされていて出会いました。