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特に一部の地域コミュニティでは、人間の活動は贈与で成り立っている。そこには、霊とのつながりから導き出される現所有者との
過去所有者とのつながりがある。それが、恐らく地域コミュニティにおいての不和をなくさせてきたのかもしれない(もしかしたら、逆なのかもしれないが)。
では、なぜ現代社会では不和がすぐ近い人間同士でも起こるのか?それは、現代社会がつながりを見えなくしているからかもしれない。
人間、やはり視覚でとらえられないものに対しては非常に弱い(ラ・ポール効果の目隠しした人の誘導でも分かるが…)。それが人とのつながりを
希薄にさせているのか…。考えさせられる逸品である。
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>贈り物がもたらしたさまざまな利得を自分が占有し退蔵していると「何か悪いことが起こり、自分は死ぬことになる」
>『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである。
別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。
だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。
生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。
贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。
そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。
>スランプというのは「私たちがそれまでできていたことができなくなること」ではない。
できることは、いつでもできる。
そうではなくて、スランプというのは「私たちにできるはずがないのに、軽々とできていたこと」ができなくなることを言うのである。
「できるから、できる」ことと、「できるはずがないのに、できる」ことはまるで別のことである。
「できるはずのないことが、自分にはできる(だから、この能力は私物ではない)」と自覚しえたものだけが、次の贈与サイクルの創始者になることができる。
(ブログ「内田樹の研究室」より、とりいそぎ。
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ほぼ世界の全域にわたる地域に関する資料を渉猟し、古代の法に関する文献を蒐集することによって、贈与、受領、返礼を義務とする文化が、太古から人類のあいだに、しかも地域を横断する仕方で息づいていることを、比較文化的に浮かび上がらせる文化人類学の古典的研究であるが、そのアクチュアリティは、発表から85年以上を経た今も色褪せない。本書の議論において何よりも重要なのは、人類が太古から、場所によっては「ポトラッチ」と呼ばれる蕩尽の祝祭に極まる歓待と贈与の文化を発展させてきたことであり、またそこに生まれる鷹揚な交換を可能にする関係こそが、文化そのものを育んできたという洞察であろう。それとともに、英語のinterestという語で表わされる私的利害の追求が、簿記の行なわれる比較的新しい社会の歴史的産物であることも明らかになる。むろん、蕩尽の祝祭には呪術的な供犠が伴なうこともあるし、モース自身が認めるように、それが引き起こす興奮は、戦争とも隣り合わせのところに人を拉するものでもある。しかし、人間は贈与を通じて他の人々との協働関係を築いてきた。そのことの底流をなすモラルを見逃すべきではないとモースは言う。「感情には理性を、こうした突然の狂態に対しては平和への意志を対置させることによって、諸民族は戦争、孤立、停滞を協同関係、贈与、交易に変換させることができたのだ」。このことを可能にするモラルの所在を、いまは見失われつつあるのかもしれない人間の、あるいはその主体性の根源史のうちに探り当て、モースも述べているようにその地点から、「政治」と呼ばれるものを「ポリス」の手前で捉え返すことが、今あらためて求められていよう。
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贈与と返礼を巡る考察。豊富な具体事例も魅力の一つ。
古代社会・未開社会での経済を考えたとき、「物々交換」とは異なる原理が存在するのではないか、ということを事例を引きながら丁寧に説いている。本文中の引用に留まらず、注釈部においても多く事例が掲載されており、読むのにとかく時間がかかった印象。それだけに結論部で述べられている利己的すぎてはいけないし・度を過ぎた寛大であってもいけないこと、また社会学という学問のあり方についてが非常に印象的だった。
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バタイユきっかけで。
まずはじめに単純な物々交換の話じゃないんだよ、と釘を刺される。
興味深かったのは以下の点。
■ 私たちの社会では区別がついている事柄が混ざり合っている社会
・取り上げられている社会では、
法、呪術的な意味、物の価値、他の族との交流、物資の流通、
地位や名誉の保持・更新…
色々なものが混ざり合っている。
・人・物・魂の混ざり合い →古いローマ法の売買について
・贈り物の拒否が盗みと混同される(p52) →受け取る義務
■ 物に宿る精霊・魂
・私は物を失くした時、「あーどっか遊びに出かけたのか」と思うことがある。
そういう感覚の意識下の部分は、これと繋がってるような気もする。
意識上の理由は喪失感の埋め合わせと、そういう世界の方が面白いからというものだが。
・物を与えることは自分の一部を与えることでもある。
だから物には還るべきところができるし、もらった側は返さねばならない。
他人の魂に由来する物を持ち続けると自分を蝕む (p37)。
→ 贈り物は毒でもある
・赤い糸じゃないが、贈り主と品物との間にはそういう繋がりがあって、離れない。
だからもらった側はそれを断ち切る儀式を行う(p262)
これも感覚的にわかる気がする
・自分の領地に生えているのに、その木を切る際神々に対価を払うトラジア族。
上と似てる。神々の物を自分の物にする手続きなんだと思う。
父が窯焚きをする前に、安全祈願で窯の上に塩や酒を供えることがあるのだが、あれはかまどの神様に「火を操る術を自分にも分けてください」という手続きとしての意味も含まれてるんじゃないだろうか。
■富の循環
・サモアのオロア(父方の財)とトンガ(母方の財)
子供はトンガである。
里子に出すことで、オロアとトンガを相伝的に交換する体系。
(注釈と合わせて考えると意味がよくわからなくなった。解説がほしい)
・トロブリアンド諸島の宝、ヴァイグアの循環
日本だと神輿の持ち回りとかでこういうのありそうだ
■権力の保持・更新
・ポトラッチ: 富をどれだけ破壊できるか競争する(供犠の意味もある)
・返礼の義務がある中、どれだけ威厳をもって贈り物を受け取れるか
■ゲルマン法
・贈与・受領・返礼の義務が垣間見える伝承
(招待されなかった人々の呪詛、招待された人々の謝意・気前のよさ)
眠り姫の童話を思い出す。
・物の拘束(ネクスム)
契約の際、担保として価値の低いものを売り手に渡す(手袋、一枚の貨幣、ナイフなど)。
これらは自分の個性が染み込んだものであり、相手の手中にある限り拘束される。
契約履行は自分を取り戻すこと。
また、受け取る側も縛られるため、まず地面に投げつけるなど警戒する。
贈与が他者との信頼関係の持続に繋がり、協同関係が生まれるという最後の話も面白かった。社会の根幹に贈与が根を下ろしているのだなーと。
最初は読みにくい本だと思ったが、何回か読み返して線を引いていくうちに慣れてきた。誤字がいくつかあってそこは残念。でも読むたびに発見がある面白い本だと思う。
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ここの「感情の贈与」も面白い内容:
精読会初参加: 『たのしいムーミン一家』を『贈与論』の観点から読む
http://gf777.exblog.jp/13967277/
『レヴィ=ストロース入門』 p138 プリコラージュ
ブログヘ:
http://haiiro-canvas.blogspot.jp/2013/03/blog-post_21.html
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全人類に共通する慣習「贈与」。
これは、単に与えるだけではなく、受け取った側が返礼の義務を負うという点に特徴がある。
また、贈与に対する返礼といっても単なる物々交換ではなく、宗教的・法的・競争的・経済的・政治的な要素を多分に含んでおり、それらは全て集団的である。
本書は、世界各所および、あらゆる時代における人類社会の贈与活動についての考察を通して、現代社会が陥っている個人主義偏重を批判している。
本書で提案されているのは、貨幣経済に偏重しない、より集団社会的な人類の営みである。
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情けは人のためならず、風が吹けば桶屋が儲かる、ペイフォワード、バタフライエフェクト。これらはすべておんなじことを言っているのだと思う。こやまとしのりさんの実践されている陰陽五行の話にもつながる点は多い。
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本書は、経済は市場経済だけではないという論証になっていると思うので、市場経済に苦しめられている私としては救われる書物であった。
贈与経済を実践するためには、贈与を義務としてとらえるというマインドや贈与先の無数のリストを保持するという条件が必要だが、未開社会や原始的な社会においては、神話や呪術や宗教や法や倫理が様々に入り組んで構造化されることで、その二つが人間に与えられている。
そういうものをこれから組み立てようとするのは至難の業のようにも思えるが、やはり必要な気がする。最終的には、人類共同体が生き残るためのきまり(=倫理)の追求の問題になるのかな?
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[メモ(暫定)]一連の研究の問題意識は「未開あるいはアルカイックといわれる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られたものに潜むどんな力が受け取った人にその返礼をさせるのか」であり、モースが分析の対象としたポトラッチやクラは以下の特徴をもっている。①交換し契約を交わす義務を相互に追うのは個人ではなく集団である、②彼らが交換するものは、専ら財産や富、動産や不動産といった経済的に役に立つものだけでなく、何よりもまず礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市といった社会の全領域にわたる資源であり (全体的給付)、経済的取引はその一部にすぎないということ、そしてこの給付に対する反対給付がなされなければ公私にわたる闘争が起きる。贈与する義務、受け取る義務、返礼する義務の三つが働いている。
ポリネシアやメラネシア、北西アメリカの民族誌、はたまた最古のローマ法や古代ヒンドゥー法、ゲルマン法から贈与=交換の行為やそれに関する精神が浮き彫りにされるが、①それらを社会構築の原理にまでまとめたところに『贈与論』のすごみの一部があるのではないかと。一見すると自由でありながら、しかし義務として守らなければならない贈与=交換は他集団との平和的連帯を作る有効すぎるほどの手段であり、それはまったく過去の理論ではない(むしろ普遍的なものだと言いたい)。モースが晩年傾倒していた労働組合運動などはまさに社会的な互酬性を志向するものであって、楽観的に捉えているようにも感じたが、たしかにそういう志向こそが互酬という友愛に満ちたすばらしき道徳への回帰につながるのであろう。②またマリノフスキーが『西太平洋の遠洋航海者』で行ったのと同様に『贈与論』は、経済学によってなされてきた、凝り固まった図式に歪められ矮小化されてきた未開人の経済生活に関する先入観を相対化した。(その先入観とは、“原始人ないしは野蛮人は、あらゆる行為を、私利私欲を求める合理的な考えに促されて行い、目的を直接的に、かつ最小の努力で達成する。人間、特に低い文化水準にある人間が開花した利己主義からくる経済的動機に純粋にしたがって行動する”というもの)
『贈与論』から引用する。
「オーストラリアや北アメリカ(東部と平原インディアン)のクランの生活を統御する、集団の内側の比較的不定型で無私無欲的な経済がある。他方に、セム族やギリシャ人によって見出されて以来、少なくともその一部分がわれわれの社会にも知られてきた、個人主義的で純粋に利益追求的な経済がある。これら二つの類型の間に、経済制度や経済事象の膨大な系列のすべてが段階的に並べられるといえる。この系列は、容易に理論が組み立てられてきた経済的な合理主義に支配されているのではない。」(p278)
※「経済社会学上および政治経済学上の結論」の部分は、個人的にはすぐれた労働論のように思われるし、また網野善彦『無煙・公界・楽』の市場という場の性質と商品の性質につながるものがあるように思える。
③「全体的社会事象」という研究対象の提案が功績の最後に挙げられる。これはデュルケム『規準』の「社会的諸事実を物��ように考察すること」を洗練させ、深化させたものではないかと思っている。(それまでの社会学が、社会の諸要素をあまりにも断片的に分割しすぎ、あまりにも極端な抽象を行っていたことへの警鐘であると。)複雑な現象を、諸要素に分割することなく、動的な状態で全体を具体的に観察し記述することによって、その事象の「本質を、その全体の運動を、その生きた側面を、社会や人間が自分たち自身と他者に対する位置を情緒的に意識するその儚い瞬間を」、捉え、理解することができる。
最後に
「諸社会は、社会やその従属集団や成員が、どれだけ互いの関係を安定させ、与え、受け取り、お返しすることができたかに応じて発展した。交際するためには、まず槍から手を放さなければならない。そうして初めて、クランとクランのあいだだけでなく、部族と部族、民族と民族、そしてとりわけ個人と個人のあいだにおいてでも、財と人との交換に成功したのである。その後になってようやく、人々は互いに利益を生み出し、共に満足し、武器に頼らなくてもそれらを守ることができるようになった。こうして、クランや部族や民族は――だから、文明化されているといわれているわれわれの社会においても、近い将来、諸階級や諸国民や諸個人は同じようにできるようにならなければならない――虐殺し合うことなく対抗し、互いに犠牲になることなく与え合うことができたのである。これこそが彼らの知恵と連帯の永遠の秘密の一つである」(p290)
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薄いがアツく偉大な作品だった(全く関係ないが、一番最後に「アーサー王物語」の円卓の騎士の話をもってくるあたりとても好き)。レヴィ=ストロースを勉強し直すための有意義な遠回りだったと思える。『贈与論』は明らかにレヴィ=ストロースに「交換」の示唆を与えたのはわかるが、ブルデューが感じとった「実践」や「戦略」の含みをどんなにがんばっても感じ取れなかったわたしは、まだまだ未熟でも読み込みも浅いのでしょう。それにしても誤植が多かった。。。
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ドイツ語におけるGiftは「毒」の意味も併せ持っているというのは象徴的だ。そう、資本主義が商品の売買によって他者との関係を築くのに対して、それ以前の未開社会は相互の贈与によって他者との関係を築き、それは政治や法律の代替として機能していた。だからこそ贈与には受領や返礼の義務が付随するのであり、それは又物品だけでなく感情の交換をも担う行為でもあった。「貰ったのと同じだけ施しなさい。そうすれば万事上手くいく」これは決して偽善から生じたものではなく、人類の歴史が育んだ叡智の結晶であったのだ。知的興奮が止まらない。
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訳:吉田禎吾、江川純一、原書名:Essai sur le don(Mauss,Marcel)
贈与、とりわけ贈り物にお返しをする義務◆交換される贈与と返礼の義務(ポリネシア)◆贈与制度の発展◆古代の法と経済におけるこうした原則の残存◆結論
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ポイントは、元の持ち主の力が宿っている、というところですね。現代に置き換えると、たとえば楽天市場で自分の顔を出して商売している人がいるとします。その商品(お酒でも、チャーシューでも、果物でもいいですが)を買うことで、その商売している主人の人柄も買っているような気になることはないでしょうか。すごく気に入った商品であるならば、商品をみると、その主人の顔も思い浮かぶような。そういった感覚って、実はアニミズム的な、この『贈与論』で言われている感覚に近いんだと思っています。
そして、その感覚は主人への敬意を生みます。他者への敬意を持つことは、他者をあまりにぞんざいに扱ったりしないことに繋がる。お互いに敬意を持ちあう社会というものは、成熟した人間関係が望めるかもしれない。それは、コミュニケーションにおいての責任感を生むだろうし、他者への暴力性を弱め、利他の精神を強める意味を持ちそうな気配があります。人と人の関係のあったかみであり、それぞれにいとおしい関係、それが望めそうだということです。
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贈与論
人やモノを全て含んだ円環状の贈与体系をトロブリアントの民族からの実地調査をもとに検証している。また、贈与をするための霊的な感覚による根拠(ハウなど)を同時に示し、人類の経済の基層に贈与・交換があることを明らかにした。
ハウとは、何か物を与えられたら、人に与えなければならない。そうしないと、落ち着かないという気持ちを霊的存在に見立てて解説したものである。モノをもらっても人にあげなければ、ハウという悪い神が持ち主をどんどん蝕んで最後には殺してしまうというのである。これは、ものではわかりにくいが情報ならどうだろう。噂話を聞いたら人に語りたくなってしまう気持ちは、ハウによるものではないかと思う。円環状の贈与形態について、トランプをしていて気づいたが、ババ抜きは円環状の贈与形態のアナロジーではないかと思う。人からカードを受け、人にカードを渡す。そして、負ける人間とは、人に渡せない唯一のカード(ジョーカー)を最後に持っていた人である。このジョーカーを、持ち主を最後には殺してしまうハウに見立てるのは不自然ではないはずだ。時々思うのであるが、カードゲームや占いなど、古くから非科学的でありながら人々に親しまれてきたものには、何かしら人間の根本原理ともいえる真理を抽象化した形で内包しているのではないかと思うのである。情けは人の為ならずという日本のことわざも、贈与論の円環状の贈与形態の話をしているのかなと思う。
映画「ペイ・フォワード」は私の好きな映画の一つではあるが、これは典型的に贈与論的下敷きがあると私は思う。恩を受けたら、もらった恩をその人とは異なる3人の人に贈る、「恩送り」運動を少年が企画して、ロサンゼルスで一大ムーブメントを起こすというこの映画は、今や英語の教科書でも取り上げられている。
様々な経験的な具体例を挙げてきたが、人間は常に贈与・交換をする動的なシステムにいるという点は、レヴィ・ストロースに繋がっていると実感できる。本自体について言えば普通だが、脚注が膨大なので内容は少しだからすぐ読めた。
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アメリカなどの先住民のポトラッチなどから贈与が社会の基板であることを説いたモースの視点は感嘆の声を上げてしまう。
贈与の本質は3つの義務で
1.贈与する義務、2.受け取る義務、3.お返しをする義務
で、正のフィードバック構造を持つために、時には人を死に追いやったり争いに発展するという苛烈さからも、贈与という規範が社会の中枢に根付いているのが理解できる。
ただ、先住民の生活の基板が贈与で、資本主義社会に批判点が山のようにあるから、贈与社会に逆行しろという説は、あまりにも急進的であり論理が飛躍していると言わざるおえない。
いわゆる古典というのは、発想の斬新さと論理の跳躍の2つを兼ね備えていることがよく見られるし、レヴィ=ストロースなど後の文化人類学に多大な影響を与えたのは間違いない。
また、近年注目されているSNSのいいねや文化資本の問題などは、この贈与論の視点から見ると面白いし、多くの評論は多大な影響を受けている。
とりあえず、ポトラッチとタオンガ、この2つを覚えておけ(笑)
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現代では人の法と物の法とが区別される。
アルカイックな社会では区別がない。物に人格が宿る。
破壊を伴うようなポトラッチとて利益に無関心なわけではない。
富とはまず何よりも他者を支配する手段なのではないか。
いろいろ考えさせられる。。。
全体的給付と、貨幣による交換との前提条件の違いは
ネットワークの開放具合、密度の差じゃないのかな。
全体的給付では、
・全ての取引が人格を帯びる
・意味合いが常に集団内で確認される。
貨幣の性質・・・富の保存、尺度
これが取引の形や、富への態度に影響しているはずと思う。
後続の研究とか色々あるんだろが、どうなっているのかな?
しかし訳はこれでいいのかね?