- 現在お取り扱いが
できません - ほしい本に追加する
- 予約購入について
-
- 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
- ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
- ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
- 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。
紙の本
ユニクロを着るように本を読む
2009/05/04 08:49
19人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
松岡正剛氏の『千夜千冊』全七巻(求龍堂)はすごいとしかいいようのない本だ。偉容でさえある。ぜひ書店なりで現物を見て頂きたいのだが、イメージでいえば、「広辞苑」級の本が七冊並んでいると思っていただきたい。そして、それらがすべて「本の案内」だから、すごい。
あえて「書評」と書かなかったのは、、松岡氏自身が「書評じゃありません」と語っているからで、では何かと問えば、これは氏の「読書法」にも関係するのだが、「旅行感想記」のようなものと答えている。そうであったとしたら、それはそれで果てしもない旅の記録ではあるのだが。
そんな「読書の達人」松岡氏が中高生を中心とした若い読者向けの「ちくまプリマー新書」の一冊として「読書の楽しみ」を語ったのが、本書である。
おそらく読者層を意識してであろう、編集担当者の質問に松岡氏がこたえるといったインタビュー形式でまとめあげられている。
「ロジカルにならず、といってノウハウばかりにもならず、しかもぼく(松岡氏)の体験談」も程よくまじり、口当たりのいい「読書術」だが、内容は刺激に満ち、このテの本にしばしば見受けられるのだが、若い読者だけではもったいない、充実の一冊である。
書名は「多読術」になっているが、それに縛られることなく「読書全般の話」として読んでいい。
少しことわりを書けば、松岡氏のいう「多読」とはそれほど形式ぶった読み方でない。
むしろ、松岡氏は、ものを食するように、服を着替えるように、本を読むことを推奨している。
「気負っていても本はカラダになじんでくれない。世の中にいろんな食べものがあるように、本は食べてみないとわからない」(21頁)という。そのことを「生活体験と連動」と書いているが、だからこそ松岡氏は「その本を喫茶店で読んだとか、冬の寒い夜に読んだとか、タイトルに痺れたから読んだとか」(79頁)といったことも無下にはしない。
松岡氏は「人にはそれぞれの本の読み方があり、好きに読めばいいのです」(131頁)と語っているが、まったくその通りだ。
しかし、たまにはこういう「読書術」の本を読むことで、さらに刺激的で活発な読書生活が広がるのではないだろうか。
本とは本当においしいのですから。
◆この書評のこぼれ話はblog「ほん☆たす」で。
紙の本
刺激的な本の話
2009/11/20 19:26
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:marekuro - この投稿者のレビュー一覧を見る
あらためて説明するまでもないかと思いますが
著者は千夜千冊で有名な松岡正剛氏。
おそらく読書好きには高い知名度を誇る方でしょう。
そのような方の読書方法が気になって手に取りました。
その内容は良い意味で評者の期待を裏切ってくれました。
というのも評者は読書のノウハウがたくさん書かれている
と想像して購入したわけですが、確かにいくつか気になる
ノウハウもあったのですが、実際は本について多面的に語られ
ているといった印象です。
あとがきにも書かれていますが
ぼくが本書でおススメした多読術は(中略)
うんと柔らかい。もっと認知関係敵で、かなり
パフォーマティブで、プロセス的で、極めて
編集的なのだ。
(中略)
いいかえれば、第一に読書というものを生活
体験と連動させ、第二には本を「意味の市場
の中に位置づけ、第三には読書行為を知的な
重層作業というふうに捉えたからである。
(中略)
読前、読中、読後を分断することなくつなげた
といってもいい。
(p203-204)
上で引用している読前、読中、読後に関して具体的に著者が
説明してくれるのは以下の通りでした。
そもそも読書には「読前術」「読中術」「読後術」が
あるんだろうと思います。読前術は本との接し方
や目次読書に始まりますし、読中術にはマーキング
読書やマッピング読書がある。読後術は本棚の
並びにも、自分で感想ノートや感想ブログを書いてみる
事にもあらわれる。
(p123)
自分が期待していたのは、著者の言うところの「読中術」の類だった訳です。
では本の内容にがっかりしたのか?というとそういう訳ではありません。
むしろ、著者の本に対する思想。その点が刺激的で夢中になって読みました。
評者が今まで自分の読書方法にどこか満足できなかったのは
もしかしたら、前、中、後の中にばかり目がいっていたからなのかも
しれません。
そういう意味では自分自身の読書という行為について、いつもより
一段高い所から眺めてみる機会を得ました。
本書では本に線を引いたり書き込んだりすることを推奨しています。
これは好みの分かれる所で、別に正解など無いのだと思います。
評者は書き込む派であり、本書はたくさん線を引いて、たくさん書き込み
ました。
その線を引いた所の全てを抜粋するわけにもいかないので
他のレビュアーさんが書かれていないことで、かつ気になった所を
以下に抜粋します。
掩巻(えんかん)・・・書物を少し読み進んだら、そこでいったん本を閉じてその内容を
追想し、頭の中でトレースするという方法。
慎読(しんどく)・・・読書した内容をひとり占めしないというもの、必ず他人に提供せよ
という方法。
(p129-130一部改変して抜粋)
なお、この方法は兵庫県の但馬の池田草庵という方で但馬聖人と呼ばれた
方の方法論だそうです。そして後々、有名な吉田松陰が真似をしたとの
エピソードが記述されていました。
著者の松岡氏が千夜千冊を無料公開したのは「慎読」から出ているそうです。
個人的には大好きな読中の
ノウハウが少ないのにもかかわらず大満足な1冊でした。
評者は著者の言う「本は2度読む」を実行した後に
この結論に至った訳であります。
なぜ2度も読むのか?それは本書を読んで確かめてほしいと思います。
きっと、上記以外にもたくさんのヒントや刺激をもらえると思いますので
読書論好きには激しくおすすめです。
紙の本
石垣りん・長田弘。二人の詩が思い浮かびました。
2009/08/22 16:27
11人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ここに私は、「りん読」という命名をいたします。
え~と。「りん」というのは、石垣りん。
石垣りんの詩に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」があります。
そこには、こんな箇所
「 それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、
それはおごりや栄達のためでなく
・・・・・・
全部が愛情の対象あって励むように。 」
りん読の「読」は、読書の「読」。
松岡正剛著「多読術」を、読むともなく、
パラパラとめくっていたら(この新書、インタビューに答える座談のかたちなのでお気軽読み)、ちょっと印象深いエピソードが語られておりました。
「あるとき、逗子の下村寅太郎さんのところに伺ったことがありました。日本を代表する科学哲学者です。そのとき七十歳をこえておられて、ぼくはレオナルド・ダ・ヴィンチについての原稿を依頼しに行ったのですが、自宅の書斎や応接間にあまりに本が多いので、『いつ、これだけの本を読まれるんですか』とうっかり尋ねたんですね。そうしたら、下村さんはちょっと間をおいて、『君はいつ食事をしているかね』と言われた。これでハッとした。いえ、しまったと思った。・・・」(p141)
こうして、すこし後に松岡さんは、こんな話をしております。
「昨今はグルメの時代で、誰もが、日々の会話でもテレビでも、食べものの話ばかりをしますね。お店へ行っても、食べながらまた料理の話をする人も多くいる。『このタコは南フランスの味だ』とか、『ここの店のはちょっとビネガーが強いけれど、タマネギが入るとまたちがうんだよ』という会話が、食事をそれなりに愉快にしたり、促進している。
それにくらべて本の話は日常会話になりにくいようですが、これはもったいない。『あの店、おいしいよ』というふうに、『あの本、いいスパイスが入っていた』という会話があっていい。・・・・
食べものと同じでいいんです。本のレシピや味付けや材料の新鮮さでかまわない。『この著者のこの本はこういう料理の仕方がいい』『この著者は焼き加減がうまい』『あれはソースでごまかしているなあ』というようなことでいい。あるいは、店のインテリアや『もてなし』がよかったということもある。店のインテリアというのは、たとえば本のブックデザインとか中見出しがうまかったというようなことです。それを『知のかたまり』のように思ってしまうのは、いけません。これは書評や文芸批評が『本についての会話のありかた』を難しくしすぎているということもあるかもしれませんが、本はリスクはあるものの、知的コンプレックスを押し付けるためのものじゃないんです。もっとおもしろいものであるはずです。これはね、日本にリベラルアーツ(教養文化)の背景が薄くなってきているということも関係があるようにも思います。大学からも教養課程がなくなっているし、どうもリベラルアーツを軽視する傾向があるね。そのくせ漢字クイズや歴史クイズや、観光地の検定が流行する。これは『○×の知』にはいいかもしれないけれど、人間にとって一番たいせつな『語り』にはなりません。」(~p148)
う~ん。「語り」が出てきたので、
ここで最後に、長田弘詩集「食卓一語一会」から詩「イワシについて」を引用。
「 ・・・・
けれども、イワシのことをかんがえると
いつもおもいだすのは一つの言葉。
おかしなことに、思想という言葉。
思想というとおおげさなようだけれども、
ぼくは思想は暮らしのわざだとおもう。
イワシはおおげさな魚じゃないけれども、
日々にイワシの食べかたをつくってきたのは
どうしてどうしてたいした思想だ。
への字の煮干にしらす干し。
つみれ塩焼き、タタミイワシ無名の傑作。
それから、丸干し目刺し頬どおし。
食えない頭だって信心の足しになるんだ。
おいしいもの、すぐれたものとは何だろう。
思想とはわれらの平凡さをすぐれて活用すること。
きみはきみのイワシを、きみの
思想をきちんと食べて暮しているか? 」
ということで、
石垣りんの詩「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」と
松岡正剛著「多読術」と
長田弘の詩「イワシについて」。
以上の炊事・食事と読書とを、
私は、「りん読」と命名したいと思います。
いかがでしょう。