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最近、クラシックに目覚めた。少しお勉強の気持ちもあって読み始めた。
理解できるところできないところありはしたが、自覚的に音楽を行くことの大切さはあるのだろう。一時ジャズにハマった時があったが、クラシックの方がもう少し幅広く楽しめそうな気がする。
物語を理解するように音楽を理解することができればもっと楽しめるのかな。
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ジャンルを問わず、なんかいいなと思う音楽と、ピンと来ない音楽があるのはなぜ?
その疑問が少しは解けた気がします。
それから、都はるみの「唸り」に関し、複雑な4連譜や7連譜、微分音や特殊記号を駆使しないと譜面にできないという部分、基礎知識がないので本当のところは理解してないと思うけど、自分なりに面白かったです。
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印象派の写実的な鑑賞からロマン主義の実存的捉え方を経て、、コミュニタリアニズム、ポストモダンまでの、これはまるで思想史をなぞるような、「文学部唯野教授」の音楽史版講義を受けるかのような示唆に富む。が、やはり作者としては、というか、作者の嗜好としては古典的な写実主義に肩入れしてる感はある。観客がリズムをとれないコンサートを嫌悪しながらも、「音楽を言葉で語ること」を至上のものとしているからだ。言葉や言語の奥に音楽があることを相対化しながら、この一点は頑固に譲らない。メタとしては言語での音楽解説はこの本の否定につながるからという理由ではさすがに無いとは思うが。とにかく音楽鑑賞についての言説は時代的にもエリア的にも網羅されているはず。素晴らしい。
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サプリメントのような音楽の消費のあり方を批判し、音楽の感動は言葉を超えるという信仰がどのような歴史的経緯で作られてきたのかということを検討した上で、あるべき音楽の聴き方とは何かを論じている本です。
とくにクラシック音楽については、鑑賞するためにも歴史や文法、意味を踏まえる必要があるという言い方がよくなされますが、著者はそれらの重要性を押さえながらも、アマチュアとしての聴衆の復権を主張し、「自分自身はひどい謡しか出来ないにもかかわらず、師匠の舞台のちょっとした不調もすぐに見抜く旦那衆こそ、理想の聴衆ではないか」と述べています。
音楽に関する受容理論について考えるためのヒントが多く散りばめられているような気がして、興味深く読みました。
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好き嫌いでしか音楽を語れない自分に嫌気がさして読んでみました。
教科書的な羅列ではなく、
歴史、先人の言葉を紐解くことで音楽の色々な楽しみ方を教えてくれます。
まだまだ音楽を楽しめるぞとホッとできた本。
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冒頭で記載しているように、音楽は一人で楽しむ部分もあるが、語り合うことの喜びということがある。たんに「よかった」などというだけではなく、自分なりの感性でこんな感想を持ったということを、言葉にすることが大切であるとしている。
たしかに、「よかった」という言葉くらいしか出てこないのが通常で、一方でうがったディテールを言っても言葉が上滑りしてしまい、とても共感にはいたらないのが音楽体験の共有化の難しいところだと思う。
この本では、一番大切なのは自分の感性ということを言っている。例えばコンサートを聴きに行っても、「感想は?」と聞かれて言葉が出ないときのほうが多いような気がするけれど。巻末のマニュアルを参考にもう一度考えてみたい。
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聴くことと語り合うこととが一体となってこそ音楽の喜びは生まれるのだ。
芸術音楽は、「趣味や知恵を深めること」を当初より前提として創られている
音楽の建築性
今日では実は逆に、音楽をいつでもどこでも聞けると思わないこと、聴くための手間を厭わないことが大切。
「料理も作れないお前に、料理の良し悪しの何がわかる!」→「では君はニワトリでもないのに卵の良し悪しの何がわかるのかね 」
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『(前略) そして私自身が音楽を聴くときの目安にしているのは何かといえば、それは最終的にただ一つ、「音楽を細切れにすることへのためらいの気持ちが働くか否か」ということである。細切れとはつまり、演奏会の途中で席を外したり、CDなら勝手に中断したりすることだ。何かしら立ち去りがたいような感覚と言えばいいだろうか。音楽という不可逆にして不可分の一つの時間を、音楽とともに最後まで共体験しようという気持ちになれるかどうか。自分にとってそれが意味/意義のある音楽体験であったかどうかを測るサインは、最終的にこれ以外ないと思うのである。』
――p.29より引用
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160123 中央図書館
音楽は、鑑賞にあたってパッシブな芸術であるところが他の彫刻や絵画と異なる。またそのモチーフや構造を言語で説明することも難しい。
結局のところ、鑑賞者の内部にある自分なりのコンテキストやパターンと、どのように相関するか、というところがツボである。それを自分なりの言葉で表現することが、音楽がわかる、ということへの扉を開くのだ。
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20世紀初頭のドイツで活躍した音楽評論家パウル・ベッカーのことばが引用されてました。
「音楽は国境を越えている/音楽は人々を一つにする」と言い立てながら、それは出来るだけ効率的な需給バランスの調整と利潤追求を旨とする産業となり、人々を一つにするどころか、「趣味の多様性」の美名のもと、社会を無数のモナドへと分断してしまった。
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音楽は受動的でマッサージのようなもの。内なる図書館。音楽の文法。音楽を記録しポータブルなものとすることが音楽に与えた影響。語ること、やること、聴くこと。そういったキーワードで音楽の聴き方について語る。
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「音楽を言葉にすることを躊躇しない」。著者のこの言葉の後押しされて、「音楽を語る語彙」を模索したい。
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扱っている題材はクラシック音楽なのですが、必ずしもクラシック音楽だけを語っている本ではない、それどころか音楽だけを語っている本でもない、読んでいると様々な自分の好きなモノ、好きなことへの想いやスタンスを考えられる本、クラシックを聴く人にとどまらないと思える。
一章「音楽と共鳴するとき」では、(p.12)音楽を聴いて、それが自分に受容できるかどうかについて、ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」から「内なる図書館」という言葉を引用し、「われわれの内なる図書館の本を中傷するような発言は、われわれのアイデンティティーに対する攻撃」と説明しています。
ここは、とってもなるほど。これまでの視聴履歴が私の内なるCDとなって、嗜好を形作っているところはあります。それは音楽だけでなく、オペラも劇も、能もですが。体験して内なる履歴を増強すると、受け止め方、感じ方は変わりますね。ちなみにこの「読んでいない本・・・」は、他の読書会などでも話にあがることが何度かあったので、ぜひ読んでみたいです。
(p.32)の村上春樹の「意味が無ければスイングはない」からの引用、「自分だけの引き出し」という言葉も同様。こちらの言葉は、仕事のスキルなど、他でも使われる、聴いたことのある言葉でしたが、音楽やその他の藝術体験としては認識していませんでした。村上春樹は小説はあまり読んだことが無いのですが、音楽のエッセイは何冊か読んだことがあり、この言葉は気づいていなかったので読み直してみよう。
二章「音楽を語る言葉を探す」では、(p.48)のショパンの、シューマンのエッセイに対するコメントには異議あり(本書への異議でなく、ショパンに)。音楽にしろ、なんにしろ、作品は生み出されたあとは、作者からは切り離され、場合によっては、作者の意図と異なる読み解き方をされることはあるのではないか。意図と異なる読まれ方、読み解き方をされるのは、作者の力不足であって、こう読め、それは間違いとは言えないのでは、と。これは音楽だけでなく、絵でもアニメでも漫画でも同様に。もちろん、作者としては自分の子でもある作品を、勝手に自分の意図と異なる読み方をするなと言いたくなる気持ちはわかりますが。
この点については、四章「音楽はポータブルか」でも再び取り上げられていました。(p.144)ストラヴィンスキーが「通訳はいつも裏切り者である」と言って演奏家の解釈を信用していなかった。彼の理想の演奏家は、オルゴールの蓋を開ける人であり、作曲者のプログラム通りに再生するロボットであったと。これは作曲者の権利であるのかもしれませんが、傲慢にも思えます。(p.161)で述べられている「作品は作曲者の完全な個人的所有物ではない」「作品は作者にしか理解できないと考えるのは間違っている」、一方「演奏家はそれを「ネタ」として自分の芸を披露するための素材に使っていいわけではなく、守らなくてはいけない客観的な実質も存在する」という意見に非常に共感します。
三章「音楽を読む」は、(p.134)のイメージが面白かったです。「惑星ソラリス」のように、空想したものが現実となる世界の音楽版。
脳波と���感の生理的メカニズムを解明し、感動を電気刺激で再生、再体験が可能になるという。この説明からは、むしろ「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」で感情をコントロールするボックスの方が想起されましたが。感動する、気持ち良いとの感情を読み取り、それに合わせて作られる音楽、読書会では「サウンドの最適解」という言葉が出ていましたが、各個に最適化された音楽があれば、それが最高に素晴らしいベストな音楽になるのだろうか?でも同時に、それでは「衝撃的な出会い」は生まれないだろう。
第四章「音楽はポータブルか」では、(p.168)「音楽を聴くときには、歴史、文化文脈の中で聴いている」という意見も面白かったです。確かに私はミーハーなので、絵でも音楽でも、誰が描いたか、作ったか、演奏したかという属性は、自分の気持ちにとても影響している。きっと嘘、または間違ったキャプションに騙されて引きずられた感想を持つと思います。ただ、どちらかというと作者の名前より、タイトルの影響が私は大きい。クラシックの曲は、番号だけのものが多いですが、たまに名前がついているものが、やはり心に残るし、そのタイトルに聴いた気持ちは影響を受けていいます。悲愴とか英雄とか運命とか。唯一そうでないのは「第九」くらい。でも、あれも「歓喜の歌」というタイトルがありますし。
もう一つ音楽、旋律、メロディーに影響しているのが歌詞。これも不可分な部分があります。私の場合、それはもっぱらアニメソングなのですが、歌詞の影響、大。あと画像、動画もか。アニメの場合、キャラクターとも不可分です、私は。ただ、アニメと全く別の曲として出会って、認識している人ももちろんありえると思いますけれど。タイトルに音楽が引っ張られる影響は以前から思っていたので、そのあたりの話が載っていないかと思ったのですが、それはちょっと見当たりませんでした。
五章「アマチュアの権利」では、(p.185)の映画「帝国オーケストラ」が非常に気になりました。
第二次大戦、ナチスの政権下、ナチスの国威高揚に利用されたベルリン・フィル、そして指揮者フルトヴェングラー。ここに触れられている「第九」については、他の「第九」についての本でも取り上げられていました。音楽は多くの人の気持ちを誘導できるということ。しかし、それを「悪夢」ということはできないのでは? 銃や原子爆弾の用途は、たった一つですが、音楽が利用されたありようは、あくまで包丁が、車が、本来の用途以外の結果を生み出したのと同じ。ただ、それらの結果が偶然であり意図した結果でないのに対し、先のナチス下の音楽は、明確に意図をもって利用されているところは、確かに「洗脳」や感情コントロールボックスと同様、恐ろしい道具ですが。
最後に五章の(p.204)「もっと聴いて楽しみたいから学ぶ」、ここにとても共感します。それは、音楽だけではない。絵でも劇でも、古典芸能でも読書でも、もっと純粋に、学ぶこと自体でも、学ぶこと、親しむことは楽しみをもたらすものだと思います。さらにそれは、自分自身が中に入ることで、一層親しみ、学ぶことができる。なので、音楽を聴く機会だけでなく、演奏する機会がこれまでにあったことに、非常に非常に感謝を覚える読後感想となりました。
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岡田先生はほんとうに今勢いがあるなあ。
なんというか、ナルシストというかディレッタントというかそういう感じがただようのもこの分野ではよい。
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本書はかなり売れていそうだ。
ただ私としては全く面白くない本だった。
やはり私はこの手の芸術学者が書いた本は
面白いとは思えないし、
さほどの価値があるとも思えない。