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ローマ帝国も終焉が近づき,読み続けるにつれて何だか悲しくなった。
コンスタンティヌスの凱旋門を是非この目で見たい。彼に恭順の意を表する意図もあり,元老院がばたばたっと造ったらしい。いろんな時代のものを取ってきて張り合わせたとかで,ローマの歴史が一覧できる。そして,新たに造った部分の彫刻など,まさに中世のそれそのものだ。
…ああ,やっぱり悲しい。
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毎年新巻が出ると、1巻から読み直しています。「人間は成功したのと同じ理由で失敗する」「権力は腐敗する」「システムは疲弊する」…すべて1000年以上前に起こったことなのに、同じ失敗を繰り返し続けている気がする。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言うが、賢者が権力を握るとは限りないし・・・
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テトラルキア崩壊後、唯一勝ち残った皇帝コンスタンティヌスの治世について。もはやローマ帝国ではないはまさにそのとおりだと思う。皇帝の考え方が、ここで「国家」→「皇帝」に、ある意味では国家の私有化がなされているるところが大きな違いか。
キリスト教が認められたりと、中世的な要素が芽吹いた時期でもあった。
それにしても、凱旋門が寄せ集めで作られていたとは。。実際見てみたい!
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政治学について考えさせられる一冊
指導者ないし支配者とは、指導する人々や支配下にある人々の欲求、ないしは需要をくみ上げてそれを実現化するのが任務であると思い込んでいる人は多い。だがそれは、民主ろ主義を、深くも考えずに鵜呑みにしているからであって、それゆえにこの種の「任務」は、凡百の政治家のモットーになっているのである。もちろんこれも、彼らの任務ではある。だが、任務の一部ではあってもすべてではない。需要には、すでに存在するようさもあるが、喚起してこそ生まれてくる需要もあるからである。
ローマの帝政は共和制の執政官と違い、皇帝をリコールしたければ肉体を滅ぼす、つまり抹殺するしかなかった。皇帝の抹殺が政局の不安定につながったとしてディオクレティアヌスが四頭政治を試みたが、これも短命に終わった。したがってコンスタンティヌスは帝国を一人で長期間統治したければ別のシステムを考え出す必要があった。
権力者に権力の行使を委託するのが人間である限り、権力者から権力を取り上げるのも人間であった。しかし、これが一神教の神であったらならば、権力者から権力を取り上げるのも神である。キリスト教は民族にとらわれず(ユダヤ教と違い)帝国全土の人間を対象としているのでとても好都合であった。
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コンスタンティヌスとキリスト教がメインです。
共同体がメインの国家が皇帝の権威がメインの国家へ変貌していきます。
コンスタンティヌスが王家の権威付けの為に利用したキリスト教の権威はローマ帝国が滅んでも残り続け現代まで影響を及ぼし続けているのを観ると歴史の皮肉を感じます。
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コンスタンティヌスの治世。
この巻が最終巻かと思っていたら、まだ単行本2冊分続くらしい。勘違いしていました(笑)
さて、この巻からはいよいよローマはローマ的性格を失い、暗澹とした中世へ突入していくわけだ。コンスタンティヌスはローマ自体を作り変えてしまった。コンスタンティノポリスへの遷都、キリスト教迫害から振興への転回、銀本位制から金本位制へ。彼の打ち出した政策は、国の礎から再構築していく抜本的なものばかり。ローマが生んだ唯一の創造的天才と評価を受けているのはカエサルだが、それに匹敵する功績に思える。
本書ではコンスタンティヌスがいなければ、という仮定でキリスト教について論じているところがとても面白かった。
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137頁の文庫本に10日以上かけて読んでいるのに、常に新鮮。
コンスタンティヌスはコンスタンチィノープルという首都を新たに作り、キリスト教を解放?しローマ帝国を解体していった!!皇帝ではないか。 権力を一方にだけ持たせるととんでもないことにつながっていく。 ローマのよき時代の終焉。
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★2010年65冊目読了『ローマ人の物語37 最後の努力(下)』塩野七生著 評価B+
前巻の最後の努力(中)に続いて、コンスタンティヌス帝の時代を描く。
40年ぶりの唯一の皇帝となった彼が行ったこと。それは、新しい首都、新しい政治体制、新しい宗教による新しいローマ帝国を築くことであった。
しかし。これは、ローマ帝国の大きな変質であり、この変革によりヨーロッパ世界は俗に言う中世へ踏み出して行くことになるほど、インパクトのある施策となった。
まずはビザンティウムに新都コンスタティノポリスを建設。旧勢力の元老院はじめ従来の有力者が残るローマを離れ、建国以来のローマ帝国の支柱であったローマ伝統の神々(神殿)の存在意義を徐々に消してしまう。
また、ローマを離れることで元老院の立法機能を取り上げ、単なるチェック機能に変えてしまう。これにより、皇帝が自らの意志で法律を好きに改廃できる権利を有することが出来るようになった。また、軍人と元老院の相互の人材の交流によって、次世代のエリートを育てていた人材プール、養成の場としての機能も失われ、軍人と有力民間人の分離が急速に進んだ。
宗教でも、ローマの神々からキリスト教への転換を図る。
元首政時代のあくまで元老院から委託されて政治を司る代表、人間として皇帝から、キリスト教の権威付けの元、神の意志をうけた司教から選ばれ皇帝となったという図式を目指した。後の王権神授説に近い。
皇帝は、自らの地位の正当化のために、キリスト教への援助を実行する。キリスト教の司教達が望む資産を与え、税の免除などにより他の宗教に優越する特権を与え、少数派であったキリスト教信者の増加をもくろむ。そして、自らは司教を公会議などでコントロールした。
さらに、蛮族の侵入から帝国を守ってきた絶対防衛線には、農民を監視役としてアルバイトで雇いながら、侵略の後に皇帝直轄軍が反撃に出ればよいと言う絶対防衛から侵略後の反撃という大きな考え方の転換を行う。これにより、各地域に大きな軍団を養う考え方から皇帝直轄軍を強化し、合わせて国内へにらみをきかせる皇帝による軍の私物化が実行される。
世界史ではコンスタンティヌス帝は確かに、重要な人物として習った覚えがあるけれども、何故それ程までに取り上げられるのかは、よく理解していなかった。しかし、これらの施策を読み、キリスト教の大幅な強化、生き残りに如何に貢献したかを見ると、現在の世界史観の土台をなす欧米歴史観の元となるキリスト教、それへの多大なる貢献をみれば、納得が行く。著者の塩野さんが書くとおり、ここまでしても、結局ローマ帝国は後100年程度しか持たなかった。歴史の真実は、厳しい。
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コンスタンティヌスの時代
コンスタンティノープルへの遷都、ニケーア公会議の招集、キリスト教の公認と活用と振興。中世の始まり。
2011/02/27読了
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キリスト教の台頭がわかって面白かった。もし、コンスタンティヌスがローマの伝統のままキリスト教を認めなかったら???歴史にIfはありえないと塩野さんも書いていたが、世界が今と変わっていただろうと思うと、とても興味深い。
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コンスタンティヌス大帝の治世。ニケーアの公会議を主催し、キリスト教の一体化に貢献。キリスト教を活用することでローマ帝国を立て直そうとしたのか、どうか。唯一神からの信託による支配は絶対王政の権威の礎。それは帝政ローマのローマ的なるもののからの変貌であった。
コンスタンティノープルの建設思想にもよくあらわれている。
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11/5/7
コンスタンティヌス帝。防衛線を放棄し、キリスト教を振興する。ローマンスピリットが生き続けた古代は終わり、中世が始まる。キリスト教を振興したのは、一神教の絶対神によって皇帝権を授けられたとして権力の安定を計れるということには同意するが、コンスタンティヌス帝は実力により皇帝にのしあがっており、どれだけキリスト教振興のメリットを享受したかの記述があまり無く、ピンとこなかった。
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カエサルが構想し、アウグストゥスが構築したのが帝政ローマ
ならば、ディオクレティアヌスが改革し、コンスタンティヌスが盤石
にしたのが絶対君主制のローマである。
「ローマ帝国」の名称は同じでも、国の実態であればまったく異なる
ものとなった。
「ローマ軍の背骨」とまで言われ軍団中の精鋭揃いだった国境の
防衛軍は、「攻めて守る」から「攻め込まれて撃退する」までに堕ちた。
それは、軍団が守るものがローマ市民の安全ではなく、絶対君主となった
皇帝を守る為に存在するようになったからだ。
「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのであろうか」
全く同感である。4世紀のローマ帝国は、既にローマ帝国ではないし、
キリスト教徒からは「大帝」と呼ばれるコンスタンティヌスだが、私は
「大帝」とは呼びたくないね。笑。
コンスタンティヌスについては著者もあまり好きではないのか、人物像に
ついてはほとんど描いていない。やはり、著者の大好きなカエサルの
構想したローマと、あまりにもかけ離れたローマを再興したからなのか。
尚、ハドリアヌス帝以降のローマ史に疎かったので、コンスタンティヌスは
キリスト教を国教にしたのだと思い込んでいた。そうじゃなかったんだな。
キリスト教をも公認しただけ…だったんだ。
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ローマの防衛力の低下、経済の低迷から帝国を維持するために、さまざまな政治システムの変化、変貌は理解できましたが、そもそも、帝国の経済低迷と、防衛力の低下の決定的要因がなんだったのか、よくわからないまんまです。
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ローマ帝国の領土を維持するために皇帝が最後の努力をしたという内容でしたが、この時の改革(?)が滅亡の原因を作ってしまったようですね。
この本を読み始めた最大の動機は「ローマ帝国滅亡の根本原因を探ること」だったのですが、このシリーズ(文庫本では35~37の三分冊)で、私としてはその回答が得られたようで、気分が爽快です。
今の日本の政治家も選挙の度に「改革!」と言っていますが、それが長い目で見て良い方向に向かっていたかどうかは20年程経過すると明らかになるのでしょうか、それとももっと早く結果が見えてしまうのでしょうか、気になるところです。
また、キリスト教が急激に普及した理由(メリット)を塩野氏は多く挙げていますが、私が最も庶民の立場から納得したのは、キリスト教徒ならば日曜日の週一回、神に祈りを捧げるということで休むことを認められたことにある(p127)でした。
以下は気になったポイントです。
・新しい都市の存続は、仕事をできる人がどれだけ多く住みついたかにかかっていた。これが新都:コンスタンティノポリスに課せられた使命(p19)
・コンスタンティノポリスには、ギリシア、ローマ、シリア、エジプトの神々に捧げる神殿は許されなかった、一神教とは他の神々を認めないことに特質がある(p22)
・ローマ帝国では、兵士たちは1年ごとに交代させても、将校たちだけは最前線に立ち続けた、司令官クラスと兵士クラスの戦死率の差は驚異的、それが元老院主導の時代(p28)
・ガリエヌスの法により、軍団叩き上げから元老院するキャリアパスを奪った、これをさらに徹底させたのが、ディオクレティアヌスによる軍事キャリアと政務キャリアの完全分離政策であり、元老院は安全保障という最重要事から締め出された(p35)
・皇帝の考えは元老院で採血されることもなくの立法機関としても存在理由がなくなった(p35)
・国境線で早くも敵を撃退する安全保障システムの象徴であった「防衛線:リメス」は、滅びる100年前には放棄された(p40)
・コンスタンティヌスは通貨について、銀本位制を金本位制に変更した(p43)
・流通貨幣であるにもかかわらず貯めこまれて市場に出てこないのは、ローマ人が自国通貨を信用しなくなったということ(p46)
・ディオクレティアヌスが東方を、マクシミアヌスが西方をという形で帝国防衛を分担する「二頭制」が始まったのは、紀元285年から(p68)
・コンスタンティヌス皇帝による皇帝資産のキリスト教会への寄贈行為は、ミラノ勅令に違反しただけでなく、ローマ帝国皇帝の公人としての身の処し方としても違反していた(p86)
・コンスタンティヌス皇帝の寄附行為は「コンスタンティヌスの寄進状」として中世時代に欧州の王や諸侯を縛った証文であったが、1440年になって偽物であることが証明された(p88)
・キリスト教の聖職者は、国家の公職から軍務に至るまであらゆる公務につかない権利を認めた、これで聖職者階級の独立が公式に認められた、更に司教区内での司法権も認めた(p89、125)
・コンスタンティヌス皇帝は、エジプト産小麦をすべて、コンスタンティノポリスへ送ることに決定し、首都ローマへは行かなくなった(p97)
・ニカイア公会議できまった形のキリスト教が、今にいたるまでのキリスト教になった、つまり、神と、その子イエスと、精霊は同位であるが故に一体であるとする「三位一体説」(アタナシウス派)である(p106)
・キリスト教徒の兵士には、神に祈りを捧げるという理由で日曜を休日にすることを認めたが、異教徒の兵士たちには日曜も訓練を課した(p127)
・紀元330年5月11日に、新都コンスタンティノポリスの完成を祝う式典が挙行された、この年をもって首都機能の全てが完全に、ローマから移転した(p131)