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中世以来、ヤギェウォ朝をその最盛期としてリトアニア大公国との間に共和国(commonwealth)を形成し、キリスト教圏東方の大国として覇を唱えたポーランド王国も、選挙王制による大貴族達の党派間対立の中で政治的な力を失い、1772年から1795年まで計3回のポーランド分割をもって地図からその姿を消した。だが近代ナショナリズムが激しく興る中にあって、3国に跨って居住するポーランド人達もその波に乗り、とりわけ経済的に自立性を増した商工業者らの間で、民族意識が激しく芽生えていく。
しかしながら、全てのポーランド人がこうした民族運動に参加したわけではない。筆者はその中の一人、プロイセン王国ポーゼン州の大貴族フッテン=チャプスキ伯爵(1851年~1937年)に注目する。相続した大所領によって「プロイセン第三の大富豪」とすら称された彼は、多くのポーランド系貴族の子息と同様に、青年期をパリ、ローマ、ヴィーン、ベルリンといったヨーロッパの大都会で過ごし、大学時代にはハプスブルク家・ホーエンツォレルン家の両家を筆頭に多くの貴族と交遊を持つ。それは温泉保養地として名高いバーデン=バーデンに通うために、わざわざ近隣のハイデルベルグ大学に学籍を置くことほどであった。そして、大学を卒業したフッテン=チャプスキはヴィルヘルム1世の勧めもあり、プロイセン軍の近衛兵隊に中尉として仕官する。だが実際には軍人としての地位は飾り物程度であり、もっぱらその高い外国語能力と青年期を通じて培われた社交力を活かして、交渉事や国外調査などの裏方任務を多く任されていた。こうしてドイツ帝国の宮廷内に確固たる地位を築いた彼は、ホーエンローエ帝国宰相(在任1894年~1900年)の私設顧問として活動したほか、1895年にはプロイセン貴族院の世襲議員に任命され、以後収用法などの反ポーランド的な法案に関して政治的反対工作を行う。1900年にはポーゼン城代として現地に赴任している。第一次世界大戦に際しては、ヴィルヘルム2世直々に独立ポーランド再建の確約を受け、事情通として新たに設置されたワルシャワ総督府の運営、そして親プロイセン的ポーランド国家の成立に向け尽力した。
またポーランド貴族でありながら、フッテン=チャプスキは急進的なポーランド・ナショナリズムを戒めている。彼の政治的理想はプロイセン王のもとでのドイツ人・ポーランド人の統合という「プロイセン・ナショナリズム」の実現であり、ドイツ側の反ポーランド感情と同様に、ポーランド側の過度な反ドイツ感情もまた有害だと考えた。こうした考えの裏には、「国民国家」が国際関係の中で受け入れられるための必要条件であった時代にあって、現実に対応して何とか生き延びることを余儀なくされた国無き民族の苦悩であったのだろうか。
だが、彼の理想の一部を確か体現していたひとつの王冠の元での統一帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の政策がセルビア人一青年の暴弾を生み、そしてそれがきっかけで起きた第一次籍値戦によって彼が忠誠を誓っていたプロイセン王国が崩壊してしまったのは歴史の皮肉としか言いようがない。その来歴からいっても貴族であり、国際色豊かな世界に生きた彼が、民衆によるある意味で単純な民族感情を理解できなかったのは当然であり、そこに悲劇があると言えよう。