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ひたすら長い分、ドップリと物語世界に浸れました。ミルトリン探偵シリーズの吉田音ちゃんがまた出てきたのも嬉しかったです。
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書店で平積みされてるのを見つけて、手にとってびっくり。分厚い!
咄嗟に「吉田さんがいつの間にか京●さんに……!」と思ってしまいました。
それぐらいの分厚さ。
中身はまだ読んでません。
いつもどおり、マイペースに読み進めようと思います。
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小説家の「私」は新しい物語をつむいでいる。
現実世界と、自分の空想の世界。
2つの世界を行き来するうちに、それらは交じり合い、流れ込んでくる。
澱んだ大河のように底まで見透かすことの出来ないが豊かな物語と、それを飾るコミカルな言葉遊びたち。
わくわくしながら、少しずつ読み進めた本。
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パラレルワールドに壮大さに絶句。何が現実で何が創作なのか、どうでもよくなるのは、単純に引きこまれるほど面白いからだろう。物語の終わりは、感動的。カタリベはカタリベに戻るのだ。
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2010.02.21. 期限がきたので、返却。正直イマイチ。吉田さんのは、すっと入れるのとダメなのとがあるなあ、その差が激しい。この本は、文体がなんだか森見さんを思い出させた。
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まずはこの厚さにたじたじ・・・
でも読み始めたら・・・
波長が合うというか、この世界に没頭できるというか、
「78」のときもそうだったけれど、読み終えたくない!よとしみじみ。
もしも。無人島へ一人で行くときひとつだけ持ち物を許されるなら私は「圏外へ」と答えます。
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コトバが独自の命を持って虚実の境を行き来する。「揉みほぐし」のエジンバラ先生の口上がスゴイ。唯一越えていないと思われた境界を最後にきっちり越えて終わる。力作。
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正直・・・よくわからなかったな。
先が読めなくて、どうなるかもわからなかったのは、
筆者自身もそうだったんじゃないかな。
でもなんか、思いついたことをぽんぽんかかれて、
それを「こういう話だから」ってまとめられても、
わたしはもっと筋の通った話が好きだから、
気持ち悪く感じてしまったな。
ちょうど、エジンバラ先生の話し方みたいに。
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本を書いている人、カタリテが物語に干渉されていき、内側と外側の区別が曖昧になり、場面はあちらこちらに切り替わり、なんだかよくわからなくなる、とても抽象的な物語だった。
これは、大人にならないと、あるいは詩の精神のことを理解しないと読めない。
携帯電話を「圏外探知機」として登場させたり、サテ、ということば自体が人物となりカエルの姿を借りてやってきたり、徳という漢字の中になる「十四の心」を持ったコウモリ(傘)が人になって南新宿を飛び回ったり、支離滅裂で、南新宿にも亀裂が生じる。
言葉の迷路、思考の迷路、その中に迷い込み、出られないし、出たくもないような、そんな気分になる。
この本は、6日間の旅行にでかけるときに持っていった。旅にとてもぴったりな小説であった。
吉田氏の小説を読んでいる人とは、みんな詩やジョークでつながっているような気がする。
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『円田さんが昔から唱えてきたのは、どんなものにも「役割」と「詩」があるということ』-『まるで向こう側が透けて見えるかのよう』
なつかしい名前が其処かしこに登場する。ただ単に再び昔の姿を認める、というのではない。最後に見た時から、それなりの年月を重ねてずいぶん容姿も様変わりしている。それなのに感じる「なつかしさ」。それは少し考えてみると実に不思議。例えばそれは幼馴染みに会ったときにも感じる思い。すっかり姿形が変わっても、何十年も月日の隔たりがあったとしても、否定しようもなく沸いてくるこの「なつかしい」という感情は一体どこからくるものなのか。もしかすると、吉田篤弘はその問いに対する一つの答えをこの本の中に示したのかも知れない。
例えば、伊坂幸太郎や三崎亜記の作品にも以前の作品の登場人物が再び別な角度から描写される形で登場する場合はある。但し、その時に感じるものは「懐かしさ」ではない。もちろん、あっ、と気付いて、にやっ、とするような心理はある。しかしその時に思い描いているのは、どこかしら「閉じた世界」あるいは「凍結した世界」であって、その心理は箱庭を眺めている時の心持にも似ているような気がする。それを嬉しいと思う読者心理もあるけれど、それは吉田篤弘のこの本の中で見知った登場人物を認めた時の気持ちとは随分違うようにも思う。
これはもっと真面目な「カタリテ」と「登場人物」の間に横たわる深くて暗い河の物語。読み手を嬉しがらせるために、かつての登場人物たちが再び現れたのではない。
相変わらず吉田篤弘は言葉に対して絶妙な感覚を発揮する。言葉に一つ一つこだわっていちいち脱線してゆくのだが、その列車のポイントの切り替えが何となくアナログ的で、心地よい。知らず知らずに紺の制服制帽の一人の鉄道員が背丈ほどもある鉄のレバーをよいしょとと一方から他方へ倒している姿を連想してしまう。もちろん、列車は読者。鉄道員である作家が動かしているのは鉄のレバーではなく、小さなポイントの文字。繋がっている筈の線路に当たる言葉を一瞬にしてバラバラにし、音を探り漢字の意味を探り、列車が脱線してしまいそうになるまでひやひやさせたかと思うと、一瞬にして元に戻し列車を通す。
しかし「元に」戻った筈の線路は実のところ元々の線路なのかどうか。カーナビの「再検索」後の青い線が出発点からは切り離されてしまうように、それは確かに目的地に向かう「本線」である筈なのにどこか別の「支線」を走っているかのような錯覚を呼び起こす。その不気味さと小気味よさの混在した感触。
例えば、本の中の世界と外の世界が繋がってしまう話というのなら、エンデの「はてしない物語」のような本を思い起こしもする。エンデの本にあるような設定はファンタジー作品には決して珍しいものではないと思うけれど、二つの世界は「本」という「どこでもドア」のような扉を通して辛うじて繋がっているのみで、実のところは、きっぱりと分かれている。ナルニアの古い箪笥のケースも同じ。吉田篤弘が描く二つの世界の関係はもっと複雑に絡み合う。それは特別な挑戦のようにも思える。
生み出した親である作家なしに登場人物���、物語は、存在し続け得るのか。そのことがとても真摯に問われ考察されるために、作家は本の世界に深く潜行する。しかし作家は当然生身の世界に戻って来なければならず、その考察には最初からある種の哀愁がつきまとう。例えばそれは逃がしてしまったセキセインコ。現実の定めは頭の中では理解しつつも、きっとどこかが生き延びてひょっとしたら番いになって雛を孵して、と感情は別の物語を紡ぎ続ける。吉田篤弘はその紡がれた物語の責任を負うことを試みる。しかし、物語は独立だ。現実のインコが、そして作者が居なくなってしまっても、物語は生き延びる。一人称でしか語り得ない筈と思われたことは、語る人を問わず存在し、語り終えた後も消えてなくならない。物語の意味は矮小化されることはない。
『一人称のことです。貴方は、何故か一人称で語り始めると、必ず、三人称の深い憧憬を持ち始める』-『薄いガラスの被膜に覆われた目玉が』
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ん~・・・・今まで読んできた本のなかで一番感想に困るなあ・・・
ある作家が描いた「南新宿を舞台にした一場面。男女どちらともいえない親子が営む写真店」
そこに実の娘や盟友、そして預言者ソボフル・・・・
だめだ。自分でどう書いていいのかさっぱりわからない。
誰か読んでみてくれませんかねえ・・・そして感想を聞きたい。あらすじ的なものをどう一体表現したらいいものか?
自分の印象としては「夢」ですかね。まるで夢をみているような唐突さと場面展開。メタっぽいお話がお好きな方は・・・いやそんな結びでいいのかな・・?うーん・・
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ストーリーはいまいち説明できないが、彼の書く文章は文章というよりも「詩」であり、その言葉の使いかたの美しさと迫力といったら、ためいきものである。
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新しい小説に取り掛かった私。
私が小説に没頭しすぎていることを不安がる娘の音。
自称学者で将棋相手である円田君。
南を夢見るドクター。
雲呑を食べに行ったり小説と格闘しているうちに
いつしか現実と小説の境目があやふやになっていく。
世界中のカタリテが集まる<エッジ>で私は
物語から去っていったものたちと邂逅する。
装丁:吉田浩美・吉田篤弘[クラフト・エヴィング商會]
カバー写真:Getty Images
語るものと語られるものとの関係を表した実験的な小説。
ストーリーを説明するのが難しいのだけれど
いしいしんじのような雰囲気があります。ソボフルのあたりとか。
引用したい言葉がたくさんあったので以下。
「およそ物語というものは何かがズレるところから生まれます。」
「つまり、スラスラと書けないものこそ書くべきなんです。僕はそう思います。スラスラ書けるようなものになんか僕は少なくとも興味を持てない。もちろんネチネチ書くのも駄目です。そういう意味ではコレはスラスラとネチネチの二者択一ではなく、もうひとつの道と言えばいいんでしょうか」
「アナタがそんなふうにグズグズしているうちに、アナタが書くよりも早く物語のほうが、これでよろしかったでしょうかと飛んで行きます」
「この部屋にとっては、こういったものが全部ノイズなんだよ。土星の環だ。つまり『詩』だよ。(中略)で、僕が気になるのは、デジタルで作られたものは、どうもそういったものを拾い上げない傾向にあるということ。」
「なにしろ、カタリテなんぞこの世にはゴマンといるのだから、うっかりしていると、どこのドナタか見知らぬ語り手にコチラが語られてしまうことになる。」
「「圏外」というその二文字の警告が、私が求めていたココでありながらココではないところを示していた。おそらく、私はこの「圏外」にいる限り、私にとっての安全圏にいると考えていい。世間にも世俗にも世界にも追われることなく、しかし、それでいながら、しっかりこの世の地図上の現実に立っている。」
「少しでも波打ち際を擁する以上、その国の輪郭線は著しく正確さを欠く。そこにはそもそもホンライというものがない。でなければ、正確さを欠いた状態がホンライの姿になる。」
「人は「過去」と「未来」の双方から操られているわけだ。板挟みというヤツ。」
「僕はもうここまで書いてしまった。書いて書いて語りつづけた者は、終わりであるとか最後といったものに辿り着くまで前進を試みなくてはならない。たとえ、その途上において、自分に最もふさわしい居場所を見つけたとしても。」
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カタリテと「私」に関する物語。
なんか、まさかこんなすごく哲学的な展開をする話とは思っていなかったので、ビックリした。
知的なスリリングを味わえる作品だと思う。
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誰かが見た夢をそのまま描き出したような、ストーリーの突飛な展開に付いていけなくなりかけたが、ときおり現れる、目から鱗が落ちるようなものの見方や、クスりとさせられる表現には心を引かれた。作者のコトバへの慈しみが強く感じられる作品。