刺激的かつ実践的な開発経済学入門
2010/03/10 00:58
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:梶谷懐 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本はもともと"Whiteman's Burden"(「白人の責務」)という挑発的なタイトルが付いている。著者のイースタリーがのこの言葉をあえて書名に使うことで主張したかったことは、およそ次のようなものだった。
確かに、途上国の貧しい人たちが豊かになれるよう援助をすることは重要だ。しかし、その援助が成功するためには、貧しい人たちがまず自分達で「豊かになろう」という意思を持つことが大前提となる。現地の人々の自発性を無視し、巨額な金額をつぎ込むような援助のあり方は、植民地時代に西洋人が抱いていた「白人の重荷」=「こいつらは自分で豊かになる能力がないので、先進国のわれわれが救ってあげるしかない」という傲慢さにつながるものである。その傲慢さは単に無駄な援助を生み出すだけではなく、かつての植民地支配と同じく、途上国の現実に大きな弊害をもたらすだろう・・
イースタリーは、そういったお題目が先行しがちな、上から目線の"Planner"中心の援助に代わって、途上国の現場とのフィードバックや、経済主体のインセンティヴを重視する"Searcher"中心の、いわば「地に足のついた」援助を推奨している。
援助についてのある方法論をどの援助対象国にも当てはめるのではなく、各国ごとの「固有の事情」あるいは「現場感覚」を尊重すべきだ、経済発展の一定段階までの時期においては、「市場経済」のメカニズムはそれ自体では十分に機能せず、政府が積極的な役割を果たすべきである、といった彼の主張は、日本における開発経済学研究や日本の開発援助について多少なりとも勉強してきたものにとっては非常に耳に入りやすい議論だと思う。
ただ、イースタリーの語り口には、やはり日本人の発想とは大きく異なると思える点もある。それは、上で述べたような一連の「開発主義」的な発想に基づく開発援助を 'Searcher'中心の援助として、ジェフリー・サックスらに代表される'Planner'中心の援助に対比させ、あくまでも前者は「よい援助」、後者は「悪い援助」という非常にわかりやすい形で描き、読者に印象付けようとしている点だ。
また、彼の主張には、若干の留保もつける必要があるだろう。まずこのような理念の下でなされていた日本のODA自体が、左右からの批判にさらされてきた。特に、「理念がない」「現地政府の意向を尊重しすぎている」といった点が繰り返し述べられてきたことには注意が必要だろう。すなわち、日本の援助においてはむしろ「Plannerの不在」こそが問題にされてきたのだ。援助においてPlannerの役割を否定して果たしてよいのか、ということはやはり改めて問われるべきだろう。
また、彼が肯定的に引き合いに出す東アジア諸国の経済発展、最近の例では中国の発展の経験も決してよいことばかりではなく、政治的民主化の遅れやコーポレートガバナンスの不透明性ということが常に問われ続けててきた。この点イースタリー自身が直接東アジアを主なフィールドとしていないだけに、その経験を若干美化する傾向があるように思われる。
こんな点を差し引いても、本書は開発経済学の刺激的かつ実践的な入門書として、面白いことこの上ない、お勧めの一冊であることは間違いない。
成果まで評価してこその援助
2011/08/01 22:39
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くまくま - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書全体を通じて、プランナーとサーチャーという立場が比較軸として語られる。
プランナーとは、援助対象から離れた場所で、大所高所に立ち、課題の理想的な解決が可能だと考えている援助者のこと。サーチャーとは、援助対象のすぐそばにいて、全ての課題を解決することは不可能だが、今よりも少しだけ物事を良くするためには何をすれば良いかが分かっている援助者を指している。
ちなみに、国連や世界銀行、先進国からの援助などは大部分がプランナーに属する。
なぜこのような比較軸が成立するのか。それは、プランナーによる援助が、ほとんど事態改善の役に立たないという悲しい現実があるからなのだ。
プランナーからの援助は、非常に大規模だ。何百億円、何千億円という規模で、ポンポンと援助がなされる。数ドルあればワクチンが打てて多くの命が救えるというのであれば、これだけの規模の援助があれば何億人の命が救われたのだろうと思うかもしれないが、そう上手くはいっていない。そこに行き渡るまでの間に、援助金・物資がどこかに消えてしまうのだ。
しかし、プランナーたちの多くは、援助効果の評価を行わない。ただ、多額の援助を行った時点で満足してしまう。この背景には、援助を実施するのが政府、ひいては議員であり、有権者にアピールできるのは、援助の成果ではなく援助をする行為自体だという現実がある。
実際に多くの命を救っている援助者の多くは、サーチャーだ。
例えば一人当たり1,500ドルのエイズ薬でわずかの人を延命する代わりに、コンドームを大量に配ることでエイズを予防する。学校でご飯を食べられるようにすることで、子どもたちの命を救うと共に将来の人材を育てる。女子トイレの個室を作ることで就学率を高める。
そんな、現地から遠く離れた場所では思いつかない様な、現地の事情に合わせた小さな対応を積み重ねることで、前よりも確実に良い状況を生み出しているのだ。
ではなぜ、この様な非効率なプランナー・アプローチは無くならないのだろう。それには、本書の原題である「THE WHITE MAN'S BURDEN(白人の責務)」という考え方が、影響を及ぼしているように見える。つまり、現地の人々は遅れていて、自分で課題を解決することはできないから、外から正しい解決策を与えてあげよう、という姿勢があるのだ。
しかし、プランナーは認めたがらないし、評価をしていないから認識もしていないのだが、現実にはそんなことはない。むしろ、プランナーたちが支援したことで泥沼の政治状況に陥ったケースが多くあることは、歴史が証明している。多くの場合、外圧では物事はよくはならないのだ。自分たちで試行錯誤して、解決策を見出していかなければならない。
それでは支援には意味がないのか。そんなことはない。現地の人々は、何もない中で現状をよりよくするための努力をしている。そんな人たちに資金・資材を提供することはできるのだ。そうすれば、改善のスピードはぐんと増していくはずだ。
本書は四部構成であり、プランナーの失敗事例、プランナーとサーチャーの比較、植民地政策と現代の支援の類似性、今後のあり方、を見ていく構成になっている。
第一部の英語訳が日本語になり切っていないところや、似たような議論が繰り返される部分もあり、なかなかに読みづらい気がするけれど、示唆される内容は、対外的な援助に留まらず、震災などの被災地援助にも共通して言えることではないかと思う。
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091209 by東女ms.terumi 高価 結論だけでも
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「援助はなぜ、貧しい国の人々を幸せにすることに失敗し続けてきたのか?」
ここに2種類の「貧困の悲劇」がある。
1つ目は、貧困が人々を苦しめているという悲劇。
2つ目は、莫大な援助をつぎ込みながらも、それでも貧困はなくなっていないという悲劇。
いったいどのようにしたら、貧しい国の人たちを幸せにすることができるのか。
援助を増やせばいいのか、援助のやり方を変えないと駄目なのか。
本書は、善意にあふれた先進国からの援助のうち、たった数パーセントしか本当に必要な人に届いておらず、これまで経済成長に成功してきた国は、援助をそれほど受け入れてはいない国である、という現実をまず冷静に分析する。そのうえで、本当に有効な援助とは何か、どんな援助のやり方が、本当にそれを欲している人々のもとに届けることができるのかについて、これまでの援助のやり方とは異なる援助を提案する、いわば、論争の書である。
経済発展とは自助努力であり、援助はそれを側面支援する、という意味で、著者は援助は必要だと考えている。だが、先進社会にいる官僚が「貧困を一挙に解消する」などというビッグプランを立ててもうまくいかないと主張する。そうではなく、本当に援助を必要としている人々の近くにいて、常に彼らの声を聞き、需要を探し出し、うまくいくやり方を見つけ出すのに長けている人たち、そう、まさにマーケット・リサーチャーのような人たちこそが、マラリア汚染地域に住む子どもたちにマラリアによる死亡を半減させる1つ数セントの薬を、確実に届けることができるのだ。
2つ目の悲劇がなくなれば、私たち先進国の援助は、確実に、第1の悲劇をも救うことができるだろう。
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スナップショット アマレッチ一〇歳 3
第1章「プランナー(Planners)」対「サーチャー(Searchers)」 5
スナップショット ガーナ今昔 40
第1部 なぜプランナーによる援助は発展をもたらさないのか 45
第2章 ビッグ・プッシュの伝説 47
スナップショット 十代の医療補助者 69
スナップショット グラミン銀行の秘密の歴史 70
第3章 市場はプランニングできない 75
スナップショット 貧困に対するシェル財団のビジネス的アプローチ 128
スナップショット ビジネスを行う上での改善 130
第4章 プランナーと悪漢
スナップショット フェラ・クティ 184
スナップショット ニューヨーク大学教授レナード・ウォンチコン 185
第2部 「白人の責務」を行動に移す 189
第5章 富者に市場あり、貧者に官僚あり 191
スナップショット 民間企業がインドの貧しい人々を助ける 238
第6章 貧しい人々を救う 241
スナップショット 簡易水道 269
第7章 癒しの人――勝利と悲劇 271
スナップショット 予防をめざす売春婦 301
第3部 白人の軍隊 305
第8章 植民地主義からポストモダン帝国主義へ 307
スナップショット ガーナのスワスモワ大学 351
スナップショット キングスフィールド教授、インドへ行く 352
第9章 貧しい人々の社会に干渉する 357
スナップショット 貧しい人々に向き合う化学者 388
第4部 未来 391
第10章 自分の国の経済発展は自前の発想で 393
スナップショット クマウから来た三人のクラスメート 420
第11章 欧米流援助の将来 423/2. ドバック 439/8. 基本に立ち返ろう 441/9. あなたに何ができるか 442
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原題’White Man's Burden。白人の債務。俺ら白人偉いもんね,かわいそうな有色人種たち助けてあげなきゃね、ということか。たしかに傲慢だな。でも傲慢な援助と訳すと人種差別的な意味合いが全く分からなくなってしまう。
本書にある事実;援助資金や援助物質が中央政府に届いたとき、どこの国であれほとんど実際に必要な貧しい人に届くことはない。
そこから導きだされる結論;Big Plan, Big Pushは無意味である。
さらには;プランナーは失敗し,サーチャーが成功する。プランナーはたとえ問題の国にいなくても答えは分かっているとばかりに解決策を押し付ける。サーチャーは試行錯誤を繰り返して個々の問題に対する解決策を探ろうとする。
提案:「人はインセンティブに反応する」という人間の本性をいかした制度設計をせよ。
基本的に本書に賛成。課題は自分の活動の中にいかにフィードバックとアカウンタビリティを導入していくか。
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渋谷のお気に入りの本屋で
タイトルに引かれて購入。
2週間弱くらいかけて読みまシタ
自身も貧困国の支援に従事した筆者が
コレまでの「白人の責務」的支援は
効果が無かっったと批判
<従来>
・支援国のプランナーによる
・大規模でユートピア的支援計画
・現地の権力者を通した支援体制
・癒着を生みやすく、効果が出にくい
<これから>
・現地のサーチャーのフィードバックを反映した
・小規模でも市場主義型の支援
・現地の貧しい人に直接届く支援
・支援する人、される人の自律的行動を生み出す効果
という構造で、
これまでの史実を統計的に検証しつつ
フィードバック型支援を主張しマス
モノゴトをなるだけ多くのソクメンから見つめる
そのためには、非常に意義のあるオモシロィ一冊でした
それにしても、コノ「計画型」のモデルって
どっかのクニの権力・支配構造にそっくり(笑)
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(2010.04.17読了)
世界には、貧困に苦しむ多くの人々がおり、援助によって貧困に苦しむ人々を救おうという活動が行われている。多くの資金が投入されているにもかかわらず、一向に成果が上がらないように見える。それは、どこに原因がありどうしたらいいのかを考えるための本のようです。
●貧困の悲劇(6頁)
何でもない病気で何百万人もの子供たちが命を失っている。これらの子供の命を救ったり、小学校に行けるようにするのに必要な援助予算はそれほど大きいものではない。
過去50年間、先進国は2・3兆ドルもの援助を供与してきたにもかかわらず、子どもたちの命を救うための薬が子供たちのところに届いておらず、小学校へ行けるようにもなっていない。
援助資金がきちんと貧しい人々のために使用されるにはどうしたらいいのか?
●「プランナー」ではなく「サーチャー」(8頁)
「プランナー」は何を供給すべきかを決めるのに対して、「サーチャー」は何が求められているかを見つけ出す。
●社会的規範(104頁)
強奪を抑える社会的規範は、今日、多くの貧しい国々ではあまり機能しない。ブラジルの都市スラムでは、強奪は日常茶飯事で、「みんなまるで犬みたいで、自分の家だけを守り、家の外で誰かが強盗にあったり殺されても、誰も気にしないんです」と若い男女は言う。
●平等社会(125頁)
共産党が中国全土に導入した共同体システムは、食糧生産の破綻に向かっていた。このシステムでは、全員が耕作に共同責任を持ち、収穫は平等に分配することになっていた。一生懸命働いたかどうかにかかわらず米が平等に分配されるため、結果として誰もが一生懸命働かなくなった。
●ハイチ(170頁)
ハイチは1957~86年の間、デュバリエ家(パパ・ドックとベビー・ドック)の二人の統治下にあった。ハイチ国民の平均所得は、デュバリエ政権誕生時よりも末期の方が低かった。ハイチの民主主義は、200年の歴史のうち、まだ最近5カ年(1990年及び1994~98年)のことにすぎない。独立以来おおよそ200回のクーデター、革命、暴動、内戦を経て、ハイチは今でも世界で最も非民主的で、腐敗が多く、暴力が多い不安定な政府である。
●人為的国境線(334頁)
欧米諸国は三つの方法で、今日の途上国に深い苦悩を与えた。第一に、欧米諸国はそこがすでに自分たちの領土であると信じているグループとは別のグループに領土を与えた。第二に、一つの民族グループを二つかそれ以上の国に分断させてしまうような国境線を引き、そのグループのナショナリストの大望をくじき、結果としてできた二カ国あるいはそれ以上の国において、少数民族問題を生み出した。第三に、歴史的に敵対関係にあった二つかそれ以上のグループを、一つの国に合体させてしまった。
●分断された民族の割合が高いと(335頁)
かつての植民地で、分断された人口の割合が高いと、民主主義、政府サービス提供、法規範、汚職といった側面で、今日うまくいっていないことが分かった。さらに高い割合で分割された国では、乳幼児死亡率、識字率、さらに麻疹の予防接種、ジフテリア・百日咳・破傷風三種混合ワクチン、清潔な水の供給のような特定の公共サービスはさらに劣悪である。
●イン��の独立(342頁)
ガンディーとネールの国民会議派は、ペシャワールからダッカまでの、ヒンドゥー教徒、ムスリム、シーク教徒を含む、一つの統一的なインド国家としての独立を求めて運動していた。ムハンマド・アリ・ジンナーは当初国民会議派に属していたが、ヒンドゥー教徒による少数派ムスリムに対する抑圧を恐れて、離党した。彼はムスリム連盟を設立し、ムスリムの分離国家を求めた。パキスタン、すなわち「清浄な国」である。
インド亜大陸のムスリム地域には、ほとんど共通点がない。東パキスタンになったところに住むベンガル人はベンガル語を話し、ベンガル人のムスリムは見かけ上、宗教以外のあらゆる文化面で、ベンガル人のヒンドゥー教徒と見分けがつかない。西パキスタンになったところに住むムスリムは、ウルドゥー語を話す。(ウルドゥー語は人口の7%!)
(後に、東パキスタンは、バングラデシュになった。)
●基本原則(441頁)
援助にっ代わる組織は貧しい人々に役立っているかを探求するインセンティブを持たなくてはならない。
☆関連図書(既読)
「貧困のない世界を創る」ムハマド・ユヌス著、早川書房、2008.10.25
「グラミン銀行を知っていますか」坪井ひろみ著、東洋経済新報社、2006.02.16
「国をつくるという仕事」西水美恵子著、英治出版、2009.04.20
「貧困に立ち向かう仕事」西水美恵子著、明石書店、2003.10.30
「平和構築」東大作著、岩波新書、2009.06.19
「ノーマン・ボーローグ」レオン・ヘッサー著、悠書館、2009.09.30
(2010年4月17日・記)
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世界銀行のエコノミストが、世界銀行の成功・失敗事例をもとに、経済援助は、プランナー(トップダウンで計画を立案・遂行する人)ではなく、サーチャー(ボトムアップで地域地域の実情にあわせて、活動を支援する人)が望まれると解説している。壮大なテーマをもとに途上国の政治・社会に介入し、さらに混乱に陥れる先進国のやり方を、猛烈に批判している。
ところどころ、単純な相関分析をおこなったりしているところが、論の安っぽさを感じさせてしまうが、それでも数字をふんだんに使い、施策の評価を丁寧に行ってくれているところは助かった。
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”自分がしたいと思っても、できないことはできない。自分ができることをせよ”byレオナルドダヴィンチ
「白人の責務」を掲げるプランナーと貧しい人々を助けるコベル具体的なやり方を探そうとするサーチャーの対比。フィードバックとアカウンタビリティ。
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開発援助政策におけるユートピア的意見(つまり援助を増やせば貧困を撲滅できるという考え方)を否定しまくっている本。そうではなくて、今の制度を改めてもっと具体的なプランニングなどを取り入れるべきだと、著者のW.イースタリーは主張している。エビデンスを用いての議論なのでそれなりに説得力はあるが、やや強引かなというところもところどころある。しかしながら今後の援助政策を考えるうえで見逃してはならない視点を提供しており、価値のある本である。
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民間企業がBOPビジネスとしてインドや発展途上国の貧しい人々を助けている。
・援助に従事するものは、貧しい人の生活をよくするために自分は個別の分野で何ができるかを明らかにしておくべき。
・自分のできる分野の過去の経験に基づいて、どうすればうまくいくかを探求しなければならない。
・いろいろ調べた結果に基づいて実験してみよう。
・目標とされる人々からのフィードバックと科学的方法に基づいてきちんと評価すべきである。
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本書全体を通じて、プランナーとサーチャーという立場が比較軸として語られる。
プランナーとは、援助対象から離れた場所で、大所高所に立ち、課題の理想的な解決が可能だと考えている援助者のこと。サーチャーとは、援助対象のすぐそばにいて、全ての課題を解決することは不可能だが、今よりも少しだけ物事を良くするためには何をすれば良いかが分かっている援助者を指している。
ちなみに、国連や世界銀行、先進国からの援助などは大部分がプランナーに属する。
なぜこのような比較軸が成立するのか。それは、プランナーによる援助が、ほとんど事態改善の役に立たないという悲しい現実があるからなのだ。
プランナーからの援助は、非常に大規模だ。何百億円、何千億円という規模で、ポンポンと援助がなされる。数ドルあればワクチンが打てて多くの命が救えるというのであれば、これだけの規模の援助があれば何億人の命が救われたのだろうと思うかもしれないが、そう上手くはいっていない。そこに行き渡るまでの間に、援助金・物資がどこかに消えてしまうのだ。
しかし、プランナーたちの多くは、援助効果の評価を行わない。ただ、多額の援助を行った時点で満足してしまう。この背景には、援助を実施するのが政府、ひいては議員であり、有権者にアピールできるのは、援助の成果ではなく援助をする行為自体だという現実がある。
実際に多くの命を救っている援助者の多くは、サーチャーだ。
例えば一人当たり1,500ドルのエイズ薬でわずかの人を延命する代わりに、コンドームを大量に配ることでエイズを予防する。学校でご飯を食べられるようにすることで、子どもたちの命を救うと共に将来の人材を育てる。女子トイレの個室を作ることで就学率を高める。
そんな、現地から遠く離れた場所では思いつかない様な、現地の事情に合わせた小さな対応を積み重ねることで、前よりも確実に良い状況を生み出しているのだ。
ではなぜ、この様な非効率なプランナー・アプローチは無くならないのだろう。それには、本書の原題である「THE WHITE MAN'S BURDEN(白人の責務)」という考え方が、影響を及ぼしているように見える。つまり、現地の人々は遅れていて、自分で課題を解決することはできないから、外から正しい解決策を与えてあげよう、という姿勢があるのだ。
しかし、プランナーは認めたがらないし、評価をしていないから認識もしていないのだが、現実にはそんなことはない。むしろ、プランナーたちが支援したことで泥沼の政治状況に陥ったケースが多くあることは、歴史が証明している。多くの場合、外圧では物事はよくはならないのだ。自分たちで試行錯誤して、解決策を見出していかなければならない。
それでは支援には意味がないのか。そんなことはない。現地の人々は、何もない中で現状をよりよくするための努力をしている。そんな人たちに資金・資材を提供することはできるのだ。そうすれば、改善のスピードはぐんと増していくはずだ。
本書は四部構成であり、プランナーの失敗事例、プランナーとサーチャーの比較、植民地政策と現代の支援の類似性、今後のあり方、を見ていく構成になっている。
第一部の英語訳が日本語になり切っていないところや、似たような議論が繰り返される部分もあり、なかなかに読みづらい気がするけれど、示唆される内容は、対外的な援助に留まらず、震災などの被災地援助にも共通して言えることではないかと思う。
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「人はインセンティブに反応する」という基本原則に沿った論になっている。過去の援助について、明解に失敗の原因を分析している。さらにMDGsもその延長線上にあるとし、そのディレクターでもあるサックスを批判しているが、これも説得力がある。MDGsを批判的、客観的に見るためにも有用。共同責任から各々特化した個別課題について責任を持てば成果も上がりやすい、そのようなサーチャーが援助の主役になるべきなのはごもっともだけど、そのサーチャーにどう資金を分配するかはプランナーが決めるしかないんじゃないかと思う。
サーチャーとプランナー、これプロフェッショナルとジェネラリストの議論よね。ジェネラリストがG8とかで、プロフェッショナルが援助機関やNGOや途上国各省庁だとすると、WHOなんかの国連の援助機関がジェネラリストとプロフェッショナルをつなぐ役割をすべきなのかね。半ジェネ、半プロというか。もちろんプロのプレイヤーとしての役割は果たしつつ。 後半には、欧米の植民地政策、冷戦における介入が、どれだけ途上国の経済に悪影響を与えてきたのかという分析もされていて、読み応えがある。痛いところを突いてるなーという印象。
これまで読んだ国際協力関連の本の中でも、かなり重要度の高い本。
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貧困問題についての本。内容はタイトルから想像出来る。ジェフリーサックスの意見に真っ向から対立している。個人的にはイースタリーの意見に納得した。訳が少し固いが、内容は素晴らしく読みやすい本でした。
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「人はインセンティブに反応する」という基本原則に沿った論になっている。過去の援助について、明解に失敗の原因を分析している。さらにMDGsもその延長線上にあるとし、そのディレクターでもあるサックスを批判しているが、これも説得力がある。MDGsを批判的、客観的に見るためにも有用。共同責任から各々特化した個別課題について責任を持てば成果も上がりやすい、そのようなサーチャーが援助の主役になるべきなのはごもっともだけど、そのサーチャーにどう資金を分配するかはプランナーが決めるしかないんじゃないかと思う。
サーチャーとプランナー、これプロフェッショナルとジェネラリストの議論よね。ジェネラリストがG8とかで、プロフェッショナルが援助機関やNGOや途上国各省庁だとすると、WHOなんかの国連の援助機関がジェネラリストとプロフェッショナルをつなぐ役割をすべきなのかね。半ジェネ、半プロというか。もちろんプロのプレイヤーとしての役割は果たしつつ。 後半には、欧米の植民地政策、冷戦における介入が、どれだけ途上国の経済に悪影響を与えてきたのかという分析もされていて、読み応えがある。痛いところを突いてるなーという印象。
これまで読んだ国際協力関連の本の中でも、かなり重要度の高い本。(細越)
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第4章 プランナーと悪漢
9. 悪い政府に対処する
→ドナーは悪い政府に対して無策。結果として、悪い政府・腐敗の進んだ国に多く援助。問題は認識されつつも具体策なし。
15. 国民に力を
→世銀やIMFはNGO/慈善団体を通じ、市民の声を吸い上げ、経済政策の企画面に反映させることを目指している。しかし、まだ力不足。
16. 腹話術
→プランナーたちは、融資条件と国家主権の間で板挟み。結果は、被援助国政府がプランナーに迎合する"腹話術"状態。
20. 国連と悪漢
→悪い政府への対応のまずさという点では、国連もIMF・世銀に負けず劣らずである。
21. 悪い政府を選別する
→米国のミレニアム。チャレンジ公社は、民主主義、国民へ投資していること、腐敗のないこと、市場への政府介入のないことなと一定の基準を満たした国のみに援助を与える。でも、部外者に政府の良し悪しが分かるのか
22. 再チャレンジ
援助機関は、援助では悪い政府を良い政府に変えることに成功してない。援助機関側は援助資金のフローを確保するために、悪い政府でもいいから金を出す先が必要。