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徳川家は家康が征夷大将軍になって江戸幕府を開いて15代300年近く続きましたが、それにはこの本に解説されているように家を続けさせるための経営戦略があったと思います。
その戦略も時代の流れに応じて柔軟に変化させてきたことが、成功の秘訣だったのかもしれません。著者は昔からよく読ませていただいている武光氏で、ビジネスマンにも役立つ内容が盛り込まれていたと思います。
また、「打ちこわし」では、店を壊したり帳簿を破ったりしたものの、誰も盗みを行わなかったという事実(p196)には驚きました。
以下は気になったポイントです。
・家康は、人間にとってももっとも避けなければならないことは「怒り」とした、怒りという激しい感情にとらわれてしまえば、正邪の適切な判断ができず、他人を傷つける(p20)
・二代将軍移行の将軍が、家康の行き方を見習い、大名達は将軍を支持し続けた、これは信長・秀吉が堪忍の気持ちを知らず、家康がそれを知っていたことにある(p29)
・人を使うには、それぞれの長所を用い、ほかに悪しきことがあっても、しかたがないと見逃すのが良い、というのが家康の近臣(本田豊後守)の言葉(p68)
・人の過去をとがめず、人の心を疑わない家康や、天下を取るに足る大人物であった(p70)
・家康は、1万石以上の領地をもち有力な家臣を敵性大名との境界においた、本田忠勝(10万石)は安房の里見家、榊原康政(10万石)は常陸の佐竹家、井伊直政(12万石)は越後の上杉家に備えた(p85)
・8000石の取れ高の土地を与えられた旗本の知行高が5000石とされた場合、5000石相当の軍役を勤めに対して8000石の年貢を取ることが可能(p86)
・豊臣政権は7公3民であったが、徳川家は4公6民であり、麦などの裏作の収穫には殆ど税がかからない(p87)
・おとりつぶしにあった大名であっても、その生活が立ち行くように配慮するのが徳川家のやり方(p101)
・徳川家綱は、殉死の禁止と人質の廃止を行った、文化が重んじられるべきとして、絵・碁・茶の湯を身に付けた(p119)
・徳川家康が秀忠に190万両であった、秀忠の時代に260万両、家綱の時代には380万両になっていた、これを綱吉の時代にゼロにした、貨幣改鋳により1703年までの9年間に452万両の金を得た(p127)
・吉宗は自分に対する批判者の意見を謙虚に耳を傾けた、更に吉宗は、才能はあるが生活態度のよくない者より、まじめで仕事熱心な人間を重んじた(p141)
・吉宗の人材活用術の一つで、自分の側の主張を述べる者と、相手との妥協点を見つめようとする者とが組んで交渉事を行うことは現代でも使われている(p175)
・吉宗のもとで新田開発が進み、1716年には408万石余りであった幕府領の石高が、1764年には463万石に増えている(p184)
・打ちこわしでは、店を壊し、帳簿を破り捨てるなどの乱暴を働いたが、窮民の指導者の指令によって、誰も盗みを行わなかった(p196)