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暴力という観点で国家の成立について子供たちに教えるには非常にいい本ですね。
ただ、これも考え方の一つであることを理解し、自分なりに考えてゆくことが哲学の本質ということも教えたいですね。
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暴力というのは、それだけで見るならば、たんに身体や物体に加えられる破壊的な力のことにすぎません。いわばそれはたんなる力の作用の一つなのであり、そこに人間がそのつど「善い」とか「悪い」といった価値判断を加えているだけなのです。
暴力を止めることができるのは、最終的にはそれを上回る暴力だという事実
暴力は話し合いをこえて、相手の行為をおさえこんだり、あいてをこちらに従わせたりすることができる、ということです。自分より強い暴力によって相手がせまってきたら、誰かが助けてくれないかぎり、私たちはその相手に従うしかありません。権力といわれるものがこうして生まれてきます。
国家≒社会のなかで唯一暴力を合法的に用いることができる存在
→国家=「社会における<暴力への権利>の源泉」
<暴力への権利>といのは、暴力を合法的に、つまり違法とされずにもいいることができる可能性のことです。つまり、社会のなかで暴力をごうほうてきにもちいることができる可能性はすべて国家に由来するということです。もし私たちが暴力を法に触れずに行使しようと思ったら、かならず国家からの認可を受けなくてはなりません。
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「人を殺すのはなぜいけないことなのか」「死刑は認められるのか」暴力の結果としての「殺人、もしくは処刑」を哲学的に考察する本書。前半ではカントの定言命法を手掛かりにこの命題そのものがもつ矛盾を明らかにしていく。
カントの定言命法といえば、条件の一切ない規範のことを指す。どこの家庭でも聞かれる母親の「ダメなものはダメなの!」というわかりやすい例で著者は説明を続ける。
「人を殺すのは〜だからいけない」という条件付きの仮言命法では、条件が否定されれば命題が簡単に反論されてしまう。だから仮言命法ではだめなのだとカントはいう。
道徳の根拠に理由(条件)をつければ、逆に脆弱になってしまうという逆説。だから「殺してはいけない」理由をつけることはできない。この定言命法の説得力には思わず唸ってしまった。
一方で、「殺してはいけない」という道徳が、仮言命法としてしか成立しないという事実が説明される。この命題自体が抱える矛盾こそ、「答え」のない哲学の真髄だろう。
後半は、ホッブスの社会契約説やリヴァイアサンで展開された国家論を足がかりに、暴力と国家の関係性を説明していく。
「暴力」というと、反射的に「悪いもの」という連想から、つい「正義」だとか「倫理」を引き合いに感情論で語ってしまいがちだが、本書で示されたように、客観的な思考によって導かれる考察にこそ、暴力の輪郭は掴めるのかもしれない。
現代社会における「暴力の悲劇性」を考えるときに求められるのは、「悲劇を繰り返さない」または「悲劇を最小化する」ためのリアルな方法論であって、「悲しくて何もできない」という諦観ではない。「暴力」の前に足がすくんだり、「暴力」の前に涙が止まらなくなっても、絶対に「暴力」の前で思考停止してはいけないのだ。
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暴力のことをちゃんと書いている本は初めて読んだ。14歳に向けてかいてあるだけあって、わかりやすい。ただし、自分が14歳のときに読んで、最後まで読めたかどうかは疑問。とくにカントのくだりは、かなりわかりづらい。47歳のオレが読んでも、どうもごまかされたような気しかしない。しかし、暴力の元締めとしての国家という考え方や、警察や軍隊だけでなく、税金というのも暴力の現れのひとつという考え方にはとても納得がいった。著者は前から気になってたので、今後もほかの著作を読みたい。""
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暴力の使われ方と国家の接し方を書いた本。
暴力はいけないことだと言われるが単純に悪と言えるものではない。
国家も暴力のもとに成り立っている
カントを引き合いに出して道徳の目線から暴力について論じている
カントは殺人はいけないが、死刑は肯定するという立場であった。
それ自体に矛盾があり、その説明にも無理がある
殺人は道徳の目線で話すことは難しく政治的に必要という立場である。
何かを統治しようとしたときには必ず暴力が必要となる
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中高生に向けて書かれた、国家論、権力論。暴力の行使を出発点に、名だたる思想家の考えを紹介しながら手際よくまとめている。社会契約説から国家の成立を説いた第5章は、秀吉の「刀狩り」を絡めた内容で本書の白眉。