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「路地(=部落)」を訪ね歩くルポ
筆者の人となりもあって、
ぶらりと訪ねて現地の人たちからの話を聞くスタイルに
読みながら臨場感たっぷりに引き込まれていった
彷徨い歩くように旅をする筆者には
何か熱い思いがあって旅をしている・・・というよりむしろ
自分の心の中の迷い道を手探りで歩いているような印象を受けた
結局旅の終わりにそのトラウマと対峙するのだが
そこに至るまでの旅は
きっとそのきっかけを探すためにわざわざ遠回りしたように思う
淡々とした語り口に却って胸が熱くなった
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以前、この著者の「被差別の食卓」を呼んで、その見識、視点、度胸、筆力に脱帽した。
奥付けを見ると私と同い年で、同世代にこんなにすごい人がいるのかと感心したものだった。
私は劇画ナックルズというエロ本系のコンビニ実話紙が好きで、
そこに彼が連載をしてたのがこれだった。
出版界の片隅で連載するのが惜しい内容で、
いや、片隅だから連載できるのかもしれないけど、
その端境期を狙っているのは確かで、
とにかく、えらい連載だった。
その連載をまとめて単行本で読んでみる。
だけど、まとめて読むと、なにか違う。
著者の「自分こだわり」が透けて見えてしまう。
連載では気にならなかった。読み捨てだからこそ、ペーパーバックだからこそ、自意識はスパイスだったけど、
それを抜き出してまとめて読むと、くどい。
このくどさは、このテーマだからと言って免罪されないように思う。
「マイオバン」がだれかを最後まで説明しないようなたぐいの鬱陶しさは、やはり駄目なものはだめだと思う。
著者は、歴史に残る仕事をしている。
それは間違いない。
だけどそれに対する、ストイックさに欠けている。
たぶん後30年引きずるような問題ではなく、すぐに方向転換すると思うが、
それでも早くしてほしい。
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被差別部落の人たちは、彼らの従事する仕事を通じて、あるいは水平社の運動により人知れず全国にあまねく人的繋がりがあることを知った。いっぽうでは、この作品を読むかぎり、若い世代の人たちの部落への偏見は失くなりつつあるのかなという気がした。このことは、学校教育の結果なのかそれとも親の世代が子どもたちにこの話題を敢えて話さなくなったことによるものなのか。はたまた、宅地造成開発によって路地そのものが消滅してしまったことによるものなのか。今は、所得格差の問題の方が大きいのだろうか。
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生まれ育った東京の下町では明治時代から地方からの職を求めて入れ替わり被差別部落についての認識は薄かった。東京という都市自体がそうなのだと思う。地方でも都市化が進み、この本の中でも祖父、祖母の時代まででは無いかとの話が各地の当事者の話に出てきたのはいいことだ。ただし、矢張り、事件が起きると潜在化していた目に見えぬものが魑魅魍魎の如く湧き出てくるのは人間の悪しき心のせいなのであろうか。地縁との結び付きを断つ以外に方法は無いのか?
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被差別部落出身のライターによるルポルタージュ。被差別部落って言葉自体がもう差別だな。被差別部落については学校で習った以上の知識がない為、初めて知ることや意外な事実が多かった。誰かが必ずやらなければならない重要な、時に高度な技術も要求される仕事が忌まれたり畏れられたりするものでもあるというのは分かるが、なぜそこに差別が必要となるのかがあまり理解できない。学校では『下には下を作ることで四民制度の下層を納得させる』とか聞いたが、それだけではないような気もする。じゃあ何だと問われても説明出来ないのだが。こういう話は誰とでも出来ることではないので、未消化な感じが残る。興味半分で触れられる話じゃないが、興味半分でしか触れることを許されないような。
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中上好きなので、手に取る。
部落=路地のもう少し踏み込んだ内容を期待したが、
すでに時代が違うのか。
ただし、すべてに足を運び、目で見て、書いていることは
(当たり前だが)信頼に足るし、愛情も感じる。
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路地という言葉が被差別部落を指す事を知ったのは、実はこの本を買った後、中上健次の「千年の愉楽」を読んでからだった。普通の紀行文かと思っていたが、全く違う。しかも著者本人が大阪の「路地」出身者ということで、今まで読んだ同和問題に関する多くの本とは全く違う。外部の人間、学者とか作家が取材したものにある、差別に関する悲しみや憎しみ、怒り、あるいは差別の増幅を恐れるがゆえの遠慮や歯切れの悪さがない。冷静に、淡々と聞き取り、記述していく。おそらく取材を受ける側も「同じ側の人間」と「外部から来た人間」とでは話す内容も違う事は想像できる。地域によって、混住が進んで路地が消えつつあるところもあれば、今なお路地として存在するところもあるが、総じて高齢化が進み、消えていくのが趨勢のようだ。未だ結婚に関しては根強い差別があるというが、それもあと数世代で消えていくだろう。職業差別に関しては食肉、皮革、演芸などが路地の者の仕事であったが、それも後継者不足と他からの参入で薄まりつつあるようだ。しかし本書はそうした「同和問題のテキスト」に留まらず、著者の私小説のような要素を大いに含んでいる。大阪の食肉業者に生まれ、幼い頃に路地を出た著者は、一通りの貧しさや暴力も経験したものの、さほど差別を受けた実感はなく、路地には郷愁を感じている立場であり、路地の出であることを隠そうとはしない。しかし罪を犯して逃げるように沖縄に移り住んだ兄を訪ねるくだりには、はじめて彼の苦悩が立ち現れてくる。もちろんその犯罪は路地故に起きたものとは言えないが、彼は人生の一部として考えると無関係でもないと感じているように思える。
とにかく、今まで読んだことのない、客観的かつ個人的な、不思議なスタンスのルポルタージュであった。
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部落についてより深く理解したいといった向きには向いていないかもしれないが、日本全国を歩き、各地の部落の人々と触れ合ったリアルな記録の臨場感は凄い。
作者が書いている通り、結局は作者自身の旅なのだが、部落を知らない人間にも確実に伝わる文章だと思った。
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被差別民について深い考察や指摘があるわけではない。どちらかというと、路地(被差別部落)の痕跡をたずね、自分の半生を回顧することで自分自身をたぐり寄せる旅の、むしろモノローグに近い。
だからといって『浅い』かというとそういうことではなく、やはり差別は『構造』であることをあらためて考えさせられた。差別自体は希薄になり若者たちはほとんど気にも留めない現代でも、構造自体は残っており、きっと折にふれ浮上してくるのであろう。
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「日本の路地を旅する」読んでみました。
出目や生業で穢多、番太、非人と呼ばれた人と雑種賎民が部落民で、この本では多種多様な人達の区別を行わずに、路地出身の筆者が見たもの感じたことが、淡々と素直に書かれていていい本ですね。
路地と私の生活は「玄人と素人」や「彼岸と此岸」に近いような、漠然としていても明確な境界があり、案外、ワンウェイで行けるけど戻れない感じがします。もう少し勉強せねば・・・
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路地とは、所謂「非差別エリア」を指す言葉で、その言葉を生んだのは和歌山県新宮市の路地出身の作家故中上健次。著者は大阪の同和地区である更池の出身で、その「路地」という表現をいたく気に入り使い、以来数十年の日本各地に点在する路地を巡る旅を淡々と繰り返している。本書は旅をしつつ自身の半生を語る。旅をして知るのは、地域によって路地での暮らしとその生計は地域性がある。例えば東北地方には存在しないと思っていた著者は本州最北端の青森にも路地を存在することを知る。夏は太鼓を作り、冬は動物の剥製作りで生計を立てている現実を知る。剥製師は「テンで3万・犬で7,8万・熊で15万で注文を受ける」と言う。続けて「弟子になりたければ150万で全てのノウハウを教える。太鼓は1ヶ月で100万、剥製は10回で50万。これで基本は全て含まれていて、開業できる」と言う。「生きた民俗学」を学んだ気がするロードムービー的ルポルタージュ。
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隠されてることでもあるので実質的なことはほとんど何も知らなかった。寝た子を起こすなということもあるけど、知ることも大切かも知れない。
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2021/10/01
大阪出身昭和55年生まれ、小学校のころ同和の特別授業があった。
人間って教科書もなんとなく記憶にある。
両親共に関西出身、母親が〇〇やから家安いわなどと、、、言った記憶もあり、わたし世代だと、どこどこは部落と知っている程度に差別はあった。私自身は、ただ住んでいるだけでこういう言われをしてしまうなら、正直なところ、その土地にはあえて住みたくないなと思っている。あえて人には言ったりしないが、これを差別というならそうだと思う。
昭和50年、埼玉育ち、両親は福島、熊本の40代の夫は部落というとなにそれ、穢多非人もなにそれただ無知なだけかと思う。
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日本の路地を旅する
著者:上原善広
発行:2009年12月15日
文藝春秋
初出:「実話ナックルズ」2002年~連載、「新潮」2005年9月号&2007年4月号
10日ほど前、角岡伸彦著「ホルモン奉行」(新潮文庫)の読書メモを投稿したところ、友人から本書の著者の名前があがった。角岡は兵庫県、上原は大阪府、どちらも被差別部落出身であることを公表しているノンフィクションライター。上原は解放同盟はじめ出身者の論客から批判されることが多い。角岡も1冊、批判本を出している。なにが問題なのか詳しくは知らないが、一部の人の、同和対策事業で国から出たお金による富み方に対して批判的であるのかもしれない。僕は雑誌などで断片的なものをのぞき、彼の本は読んだことがなかった。今回は、大宅壮一ノンフィクション賞の作品で、評価の高い本を読んでみることにした。
表紙にもあるように、中上健次にならって、被差別部落を「路地」と呼ぶ。プロローグはその中上の出身地である新宮の路地、本編のはじまりは上原の出身地である大阪府松原市の路地からスタートする。読む前、正直言って、いまどきどこの路地へ行っても昔の面影(板葺き屋根や共同トイレなど)はないし、それこそ油かすやサイボシを売っている店ぐらいはあるかもしれないが、全国回っても本になるような興味をそそることってあるのだろうかと思っていた。
大阪の更池と呼ばれる路地は、著者の出身地であり、そこを訪ねた部分では、現在のその様子をルポするのではなく、自分の出自について歴史を交えて書いている。父親が〝どえらい人〟だったようで、著者自身は6歳に路地を出たそうだ(父親が買ったので団地を出た)。その父親の先祖がどのようにしてこの地にたどり着いたのか、その父親がどんな仕事をして、どんな家族に対する態度を取ったのか、といった話がその章では中心になっている。他の章もそういうパターンが多く、現地のルポというより、その路地の歴史を詳しく調べてトピックを語っていく。なかなかよく調べているし、興味深い話も多い。もちろん、それらを信用できるのかどうか、批判の多い人だけに不安は残るが・・・
父親は実家の農業を継いだが、田畑の半分を潰して食肉店を始めた。事業は成長を続けたが、BSE問題と翌年に同和対策関連の法律が終了したことが打撃となって、多くの食肉店が廃業する中、父親の店は持ちこたえ、現在も堺市に工場を建てるまでになっているとのこと。著者がいうには、父親は商売のためなら右翼でも共産党でも解放同盟でも同和会でも極道でも使ったし、一歳の我が子をうるさいからと平気で窓から放り投げる人間だったという。路地の中でもとても評判が悪かったが、本人はそれをなんとも思わなかった。当時の路地で成功するには、それぐらいの冷徹さが必要だった、としている。
著者は、更池で子供会の世話役をしていた竹本さんからこう聞いたことがあった。「上原のお父ちゃんもみんな貧乏やったから、学校もろくに行かんと肉仕事してたやろ。あれは重労働やんか。みんな結婚も早い。そこに法律ができて急に金回りがようなったもんやから、青春を取り戻すかのように遊びに出て家庭崩壊。子供はぐれて『��っぱり部落は怖い』とこうなるわけや」
<東北>
東北の路地の多くは、元戦国大名が徳川幕府の命により移封されてきたときに従ってきた路地の者たちによって造られたため、城下町にあることが多い。
東北では、牛よりも小動物や犬皮をなめすことが多かった。
弘前市の路地。「追掛稲荷」しか残っていない。祀られているものの表示「長吏乞食 追掛長助」。長助がこの路地を拓き、代々、継承された世襲名。大坂の出身で、関ヶ原に破れて落ち武者になって津軽に逃れた。
秋田市の路地。近くの港町から寛永の頃(1624-43)に移住してきたといわれるが、実際は、今の茨城県から左遷された大名・佐竹義宣に従ってきた者たちが始祖とされている。「下町」「ラク町」と東北では路地のことを呼んだ。
<東京>
墨田の路地は、明治初期に滋賀県から移ってきた路地の者たちに始まっている。最初は浅草新谷町に集まって暮らしていたが、環境改善のために警視庁命令で1873年に移転した。
関八州の路地の頭で、東北から広島にまで力が及んだ浅草弾左衛門は、ルーツが大坂摂津。鎌倉に移り、頼朝と出会って長吏頭に任命されたと弾左衛門は記している。400年後の1590年、徳川家康からエタ頭として任命されて、約300年間、エタや非人を統治した。
<滋賀>
湖西地区のある路地。一見、普通の住宅街に見えるが、同じAという路地でも、NとHの二つの地区に分かれていて、仲が悪い。明治4(1871)年の解放令後、今後は牛馬の解体と皮なめしの仕事は辞めようということになった。その仕事をしているといつまでもかわただと蔑視されるから。しかし、5軒の家がそれに反対した。彼らは村八分になって近くの空き地に追放された。それがH地区になっていく。現在もN地区は共産党が強い。共産党は「寝た子を起こすな」主義で、環境改善などに取り組む。路線が違う。
<山口>
長州藩は高杉晋作が奇兵隊を結成後も増兵が急務だった。吉田稔麿(としまろ)という若者が路地の者たちを兵士として登用する「屠勇取立」というアイデアを藩に上申した。徳川300年でもはや闘うことを忘れた武士階級より、「多年鬱屈」している路地の者たちを使うほうが得策だと考え「屠勇隊」編成を考えた。応じた者はエタ非人の名を除く条件で。彼は翌年に新選組の池田屋事件で殺害されるが、「維新団」「一新組」「茶筅隊」という名で編成されて第二次長州征伐で幕府軍と戦った。その戦いぶりは藩の幹部からも絶賛された。
同じころ、江戸の浅草弾左衛門も賤民身分からの解放を条件に、自身の部下たちを幕軍に協力させたいと江戸城に願い出ていた。しかし、硬直化していた江戸城の決定は後れ、維新を迎えてしまう。決断が早ければ、長州の屠勇隊と戦っていたかもしれない。
<岐阜>
昭和2(1927)年、北原泰作二等兵は、陸軍観兵式に出席していた昭和天皇に突然かけ寄り、軍内部に蔓延している部落差別の内情を告発する直訴状を手渡そうとした。「北原二等卒の直訴」と呼ばれる。彼は水平社の活動家として知られるようになり、参議院副議長を務めた松本治一郎の秘書にもなったが、治一郎は菅直人内閣で復興大臣をした松本龍の養祖父。松本龍は宮城県知事に��する高飛車な発言で大臣辞任している。
<長野>
上諏訪温泉のある諏訪湖のほとり、路地Nは、代々、番太(街道警備や牢屋の仕事)を務めていた。路地のなかでも表役と裏役に分かれ、別の公務についていた。表役というのは城に上がって挨拶をし、御用向きを聞き、書き物もする役。裏訳は処刑などの汚れ仕事。なぜ分かれたのかは不明。
<新潟>
佐渡の路地の特徴の一つは、本州と違って非人とエタの区別がないこと。
路地に詳しいある人が、以前、著者にこう語っていた。「この現代に被差別部落があるかといわれれば、もうないといえるだろう。それは土地ではなく、人の心に生きているからだ。しかし一旦、事件など非日常的なことが起きると、途端に被部落差別は復活する。被差別部落というものは、人々の心の中にくすぶっている爆弾のようなものだ」
<鳥取(島根)>
1890年から4年間、島根県松江市に住んでいた小泉八雲は、「松江とその周辺には四つの異なった特殊階級の人たちがいる」としるしている。「ハツチヤ」「小屋の者」「山の者」「エタ」などと呼ばれている。「小屋の者」はもう一つのエタ系の路地、「山の者」とは非人系の路地、「ハツチヤ」は鉢屋がなまったもの。鉢屋とは江戸時代まで番太だった。著者が訪ねた路地は鳥取側だったが、文化的にも地理的にも島根の松江の方が近い。
伝承によると、承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱(935-941)で平将門、藤原純友についていた者たちが、敗残兵となり、一部が盗賊となって京の町に出没。自暴自棄になっていたが、空也上人と出会い、諭されて悪行を悔い改めた。空也から「兜を鉢として叩いて托鉢し、竹細工を売り、都では盗賊などを退治するように」と言われた。彼らは全国を回るようになると、「鉢屋」と呼ばれるようになった。彼らは他にも、竹細工や万歳、鳥追いなどの芸能をしながら生計を立てていたという。
<沖縄>
琉球には路地はなかったが、ずいぶん昔にヤマトから路地の者たちが移り住んだという史実が僅かに記録されている。念仏者とか京太郎とかと呼ばれた。彼らは門付け(家の入口で芸をする)をしていた。もともと内地で路地人として生きてきたが、何らかのきっかけで琉球に移り、明治まで首里城郊外で過ごした。京太郎という名前から、京都から来たと考えられている。
エイサーのうち、道化師のように白く化粧をした人を京太郎というが、彼らが元祖。エイサーは袋中(たいちゅう)上人という浄土宗の念仏者が慶長8(1603)年ごろに琉球にたどりつき、浄土念仏を伝えたのがルーツとされる。一方、京太郎たちの芸の中に念仏踊りが含まれていたことから、庶民の間に広まったと伝わる。つまり、京太郎の伝統芸の進化したものが現在のエイサー。