紙の本
生き方の肯定
2020/07/15 22:53
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オオバロニア - この投稿者のレビュー一覧を見る
精神科医の筆者が、旅行や留学、人や作品との出会いを通して感じたことを綴るエッセイ。人生の選択を内省したり、信じることを淡々と記した文章に、どこか救いを感じた。読者に何かを投げかけることはなく、ただ筆者自身がどう在りたいかが書いてある。だからこそ尊い。
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最初のほうは鬱鬱した紀行の味わい。
いじましいとかそういうんじゃなくて「鬱蒼とした」とか「曇天」の重さ。
なんとなくアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』を想起した。
後半は『週刊医学界新聞』に連載されていたというエッセイ。
論文では取りこぼしてしまうモヤモヤ。
脆さ・傷・付け込まれやすさ…弱点となりうるもの、を、抱えておきたい。
抱えた人を切り捨てる社会を容認したくない。というようなこと。
出てくる本や映画や場所のすべてに触れてみたくなる。
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著者が精神科医であり、さらにこのタイトルからすると、ひどくまじめな本に見えるが、これはエッセイである。軽いとかいい加減という意味ではないが、学術的な本ではない。
著者は心のどこかで、常に客観視し続けている自分に恐れにもにた感情を抱いている。だけど、その「見ているだけ」という行為が誰かのためになることもあると、肯定に意識を転じることもできる。それは客観視ゆえの性質だと思う。
研究をしたり臨床をしたり、旅に出たり、著者はその客観的な視点でものごとを見つめている。それは一見非常にクールだが、やはり心に負担はあるようた。でも著者は前を向いている。その視点が心地よい。
精神科医でも悩み、考え生きているんですよ、と示されており。いかに患者に寄り添う仕事なのか考えさせられる。
「ホスピタリティと感情労働」は、「肉体労働」でもなく「頭脳労働」でもなく、日常で感じている感情を出している振りの己へのダメージについて書かれている。「感情労働」なんて単語を始めて聞いた。しかし読むと「なるほどなぁ……」と思う。
「見えるものと見えないもの」は、オカルトについてわたしが懸念する「見える人」にとって見えるものが、わたしにはわからない。証明できない。それゆえに、そこに拠り所を求められない(=実感できないから)ということ、例を用いて、実にわかりやすく説明してくれていて、すっきりした。
(ちなみにオカルトは否定しないけど、わたしの判断する領域じゃないなと思っている。わからないから)
書籍のタイトルにもなった「傷を愛せるか」は、著者の傷(トラウマやPTSD)に対する真摯な気持ちが伝わり、エッセイというより祈りにも似ている。
冬の香りがする良書。オススメ。
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この人には『環状島=トラウマの地政学』とか、『トラウマの医療人類学』などの小難しい感じの本があり(この人の経歴もちょっとスゴイ感じやし)、この『傷を愛せるか』もそういう方面の本かな~と思っていた。1ヶ月くらい前に図書館でぶらぶらしてたら、この本がエッセイの棚(914)にあって、エッセイ?と思ってぱらぱらっと見てみたら読めそうだったので、借りてきて読んでみた。
タイトルが内容に合ってるのどうかはちょっと私にはわからんかったけど、この本に入ってる文章はこの人の生活が垣間見える感じで、わるくなかった。
▼日本にも強く波及しつつある米国のネオリベラリズム(新自由主義)が危険なのは、弱みにつけ込むことがビジネスの秘訣として称賛されることで、弱さをそのまま尊重する文化を壊してしまうからだとわたしは思う。(p.104)
いま、立岩真也のよりみちパン!セ『人間の条件 そんなものない』をじわじわ読んでいるところだが、この「弱さをそのまま尊重する文化」のあたりが似てる気がする(文章のスタイルはぜんぜん違うが)。
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医学者から見た人の内面。と言っても直接表現されているわけではない。何回も考えさせられながら読んだ珠玉のエッセー。自分は傷を真正面から見ることが出来るのだろうか。
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傷を否定せず、傷と一緒に生きる、弱さを受け入れ生きる。
タイトル見ただけで、それを言わんとしている本なんだろうなと思った。そう教えてもらい、楽になったことを思い出した。
筆者は精神科医師。トラウマ、DV、性的虐待が専門。
医学界新聞に書いたエッセイだそうです。
私は大きなトラウマ、傷を負って、生きるか死ぬかみたいなことを経験してきていないけど、擦り傷、切り傷くらい?の傷をつくってかな?と思う。人に傷つけられること、人との軋轢、人との違いで、自分で自分を傷つけること。
傷、自分の負の部分、痛みや悲しみを人はよくないものというし、それを表には出せない空気がある。
そうした周りの空気が一層、本人を苦しめる。
そんなの当たり前とふつうに受け止めたらいいのになぁ。
例えば、転んで、膝をすりむいて、血がだらだら流れたら、かさぶたになるのを眺めて、治るのを見守る。傷のあとが残る傷も、ずっと痛む傷も、時々うずく傷も、いろいろある。
自分の身体にできた、痕跡とは上手に付き合っていくもの。
そうやって、心にできた見えない傷とも付き合っていく。
世界との違和感、傷を抱えた人を見てきた、作者の目は客観的であり、優しい。
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トラウマ研究の第一人者の方。すごく優しい気分になるエッセイ集である。読後感が良い。トラウマを治療する人の人間性が現れているのだろうか。
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虐待や暴力で受けた傷から、自分を傷つけていく。
するとその衝動に、周囲も傷ついていく。
それをどこかで少しでも、連鎖させない方向に持っていくには受傷した本人が
「このことは消えない」
けれど、それはもう、ここで一度、
「このことはもういい」と思い定めること。
そこに未だ傷はあるが、徒らに触れないことで
痛みから解放される必要があると思う。
逃げとは、これは違って。
その傷を無視するのではない。
傷があるのを自覚しながら、それ以外のことにも目を向けゆるやかに再生するために、不必要な痛みや、周囲に痛みを見せることから生じる軋轢を減らすことが大事かな、と考えるのだ。
私自身も苦しい経験をし、セラピーも受け、専門家として援助した経験もあるのでそう考えている。
深すぎる傷、癒しきれない傷というのは現実にあるもので完治すれば良いが、これは難しいな、と自分がクライアント側であっても思う時がある。
くっきりと線の引かれた「完治」という状況。
もう平気だという状態を目指すのは当然だが、
それよりも。
その傷以外のことに、人生の時間や視線を向けてみようかと考える時初めて回復への道がついたように、自分では思う。
だから、この本の内容の紹介を読んだ時、こういう切り口の精神医学のエッセイが出てきたのか、と、とても惹かれた。
現実のトラウマとの向き合いは、時間がかかる。数週間や数時間というレベルではない。数年、数十年の場合だってある。
その時間に、本来だったら出来ていたことを考えると、傷に振り回されるより、そっとその傷に手を当て、これ以上痛まぬようにして、痛み以外のことに向かっていくほうが、ずっと良かったと思うのだ。
解決らしい解決だけが正解ではないこともある。
ここには痛い場所がある。
自分の痛みだから、なかったことにできない。
痛みも持って生きていかなければならない。
だとしたら。
痛かったね。つらかったね。
といたわってでも、どうにか凌いでいくしかないのだ。
その傷と生きた時間が長くなり、ふと、そうだったともう一度目が向いた時には、もう傷は癒えて、痕は残っているが血は流さなくなっている。
そういう癒し方もあるのだと、教えてくれる。
別に大きな悩みを抱えていなくても、ふっといたわられる瞬間がある本なので、心静かになりたい時、繙かれることをおすすめする。
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トラウマ関連の書籍を読んでいて、だんだん辛くなってきて、どうしよう、、と思っていた時に出会ったエッセイ。
宮地尚子先生の『トラウマ』はまだ読みかけで、どうしても状況をリアルに心に描いてしまって苦しくなるので、読み終えるにはもう少し時間がかかりそうなのですが、その中から感じる、ほんわりとあたたかいものが気になって、先にエッセイを読ませていただきました。
手当てをすること。
包むこと。
恥じないこと。
傷とともに、生きつづけること。
幸せを、祈り続けること。
読み終えた時、心の中に静かなあたたかさが訪れました。
こんなふうに誰かと関われたらいいな、と思いました。
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付箋をぺたぺた貼りながら読む。有意義で充実してなきゃいけないんだなあ、のんびり、スカスカじゃだめなんだなあ、そういうのは「無駄」と見なされるんだなあ、とひそかに反発を感じる著者に共感する自分もいれば、人生の終わりに 有意義だったと想いたいと明言し、常にそれを判断材料に生きている人を眩しく思う自分もいる。
変わるときには閉じなければいけないのだ。というのは、個人的にお守り的な言葉だな。
人は傷の上にやさしさを、やさしさの上に、強さを築くのだ。たぶん。
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精神科医、医療人類学。開くこと、閉じること。繭のなかの変態。冷静に観察すること。「なにもできなくとも、見ていなければならない。」だれかが自分のために祈ってくれること。エンパワーメント。肉体労働、頭脳労働、感情労働。ヴァルネラビリティ。「スタンドアップ」鉱山のセクシャルハラスメント。など
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2018年29冊目。
「傷を抱えながら生きるということについて、学術論文ではこぼれおちてしまうようなものを、すくい取ってみよう」あとがきに書かれている著者の言葉。まさにその通りの一冊だった。
「医師は傷ついてはいけない」という固定観念があるかもしれない。宮地さんはそれを退け、自身も大いに傷つくことができ、その痛さ、もどかしさ、無力感に蓋をしていないと思う。だから言葉がすごく「近い」感じがした。医者や研究者らしく客観的であるよりも、主観や実感が伴った言葉は、洗練されていて、やさしい。なんとなく、「待ってくれていた」と思わせてくれる本だった。
どのエッセイにも感銘を受けたけど、その中でもヴァルネラビリティ(脆弱性)に関する考察はすごく興味深かった。
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男性の被害者を見ていると、性被害そのものよりも、そのために傷ついた「男らしさ」を必死で取り戻そうとすることのほうが、逆に傷を深めていってしまうという印象を受ける。(中略)ヴァルネラブルであってはいけないという縛りこそ、ヴァルネラビリティになってしまうという逆説が、そこにはある。(p.110)
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何事においても、「戻りたい」「取り戻したい」という衝動と向き合うには、大変なパワーがいると思う。それを備えていられた頃との落差によるどうしようもない無力感。今の自分ではダメだという焦燥感。「こうありたい」という未来への希望ではなく、「こうあるべき」という過去への義務感に対する疲弊。「取り戻したいと思うほど過去の自分は優れていたのか」という、見え隠れする自分の傲慢さに対する猜疑心と嫌悪感。そういう負の気持ちが増幅していって、自滅していく。
レジリエンスとは、「元に戻る力」以上に、「基本的な目的を保持し続ける力」であると、何かで読んだことがある。築きあげてきた家が崩れたのであれば、元あった家の姿のままを再現し、建て直すことが全てではない。「安心して暮らせる場所が欲しい」という基本的な目的を思い出せば、「今の自分にとっての安心」に基づいた、新しいタイプの家を建てることに目が向くかもしれない。落ちてきた崖を、落ちてきた方向(取り戻したい過去)に向けて登り直すのではなく、未知である崖の反対側を登ってみる意志が生まれるかもしれない。崖の下でも暮らしていける方法を見つける適応が可能になるかもしれない。
自分が痛んでいることに対する罪悪感を抱くこと。そうして罪悪感に囚われている自分を見て、さらに嫌悪感に染められていくこと。そうやって、何重にも自分を苦しめる思考が覆いかぶさっていくこと。これほど辛いことはないと思う。
「弱さ」や「傷」を、いけないもの、恥ずべきことと思わないでいい。いけないもの、恥ずべきことと思わずにはいられない自分がいるのなら、おそらくそんな自分をも包むようにいたわればいい。すべて抱えたままでいい。そんな感覚を、読み進めるにつれてじわじわと染み込ませてくれる本だった。
抱えたままでいるのであれば、相変わらず痛むとは思う。だけど、どこかで「それすらも抱えていていい」と思うことができれば、次々と覆いかぶさってくる自己卑下が���止まるときがくるかもしれない。自分に真っ黒な布を何重にも覆いかぶせてきたその外側を、「もう十分だよ」と、柔らかい白い布が包んでくれる。そういう希望の兆しを、この本からもらえる人は少なくないのでは、と感じた。
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傷をないものとして、平気な顔して過ごすより、傷ついた痛みを感じて、受け入れて過ごしたほうが人に優しくできる強さを身に備えられるように感じた。
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思っていた内容とは違っていたけど、淡々と綴られるエッセイにはただ揺蕩うだけのような、なににもならないけどなににもしなくていい穏やかさが感じられた。手当ての意味と役割。ただそれだけでいい。
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結構良い本だったと思うけど積読でダラダラ読んでたのもあって印象に残った部分が思い出せない エッセイとかであっても付箋をつけながら読むのを習慣にしたい
人生は基本苦であって人に傷つけられたりあるいは人を傷つけたりしながらそれでも私たちは生きていかねばならない訳ですが、日々生まれるそういった傷に対して一つ一つ丁寧に向き合っていきたいですね