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宗教の素養が無いと難しいと思われる。フランクルからこの著にたどり着いたが、一般的では無いので★2。
・フランクルによれば、人間は生きる限り何らかの仕方で(超越的な)意味を信じているのであり、そうである限り、無神論者を含めすべての人が神信仰を持つとみなされるのは、必然的と言ってよいであろう。さて滝沢であるが、インマヌエルの原事実(日本でいう仏性に近い)は、すべての人に、いや極悪人の元にも「一厘一毛の緩みなく臨在している」のであった。…このようにフランクルの「意味」と滝沢の「原事実」は限りなく共鳴しあうのである。
→さて、私は「意味」(または価値)は必ず「誰にとっての」意味という形でしか生じないと考えている。「全ての人にその人にとっての意味がある」と言い切り、なおそれがその人を救うことになる理論であるとは考えない。
ただ、例えばある人がその人に寄らない苦しみにあったとして、でも、それでも、その人生をどう生きるかを決める自由はまだ’あなたは’持っている、そう考えることは救いになりませんか?と言うことは出来ると思う。でも、どう生きるかを人生から試されるという意味がどんな人生にもあって、それで人は救われているんだ、とは言えないと思う。
上記の引用ではフランクルの「識られざる神」を主に扱っている。そちらに当たっていないので、何故フランクルが超越的な意味があることを主張したのか分からない。
・よくキリスト教は愛の教えであるといわれるが、もしそれのみならば、他の宗教家、思想家が説いたものに較べると、相対的に勝っているとしか言えないであろう。キリストのもたらされた救いが、絶対であることの決定的根拠は、そうした道徳の教えに盡(つ)きるものではない。そうではなくて、神ご自身、聖三位の生命に、人をして再び与らしめる可能性をもたらしたところにある。
→そう考えれば、ユダヤ教やイスラムより深いけれど、より哲学・形而上的になって人間側に引き寄せられて捏ね回されているとも考えられる。仏教がそこに到達していると考えれば、ユダヤやイスラムの伝承でもそこに到達している可能性はあるのではないか。キリスト教としても一般的な考え方で無い気がするし。ここまでしてしまって、聖三位=神=人間まで行くと、原罪前の人間と神の関係、存在意義って何?って思ってしまうけれど。