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テーラワーダ仏教と脳科学の第一人者の第一人者同士の対談ということで、興味深い。どちらの著者の作品も読んだことがあるので、対談の内容も比較的わかりやすかった。
ただし、スマナサーラ長老もあとがきで述べているように、多少話が噛み合っていないと感じる部分もあった。
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スリランカ初期仏教長老のスマナサーラ師と脳生理学者の有田氏による対談。日本では北方仏教の伝統宗派が非常に力を持っているし、またスマナサーラ師自体もかなり他宗教に対してラディカルな発言をしているので、決して日本で広く受け入れられている宗教者とは言えないけれども、それでも100冊以上の本を著し、そのうち『怒らないこと』は数十万部を売り上げている。一方脳生理学者の有田氏は「セロトニン道場」を開くくらいにセロトニン物質の重要性を説く、まあ「セロトニン信奉者」である。
有田氏は、瞑想は脳神経のセロトニン物質を増やし、心のバランスを保つとしと主張し、スマナサーラ長老も瞑想の効用を説くので比較的和やかに対談が進む。
ところが後半になって有田氏が、快に作用するドーパニン神経と、不安・不快に作用するノルアドレナリン神経と、二つをコントロールするセロトニン神経の3要素を組み合わせによって心の状態が決められるという「心の三原色」を提案し、しかもそれが仏教の「三毒」である「貪・瞋・痴」に比せられると説くから、話は全くかみ合わなくなる。そもそも仏教が諸悪の根源と説く三毒のバランスによって心が形成されるなんて理論を、仏教徒が受け入れられるはずがない。だいたいドーパミンの快と、「貪」の貪欲を混同するなんて問題外だし、人生は苦であるという命題を持つ仏教に、ドーパミンだのノルアドレナリンだのの効用を説いたって仕方がない。というわけでスマナサーラ師はかたくなにこの説を否定するが、有田氏はムキになって食い下がって「セロトニン、セロトニン」と念仏のように連呼するから、一体どっちが宗教者なのか分からなくなる。
有田氏のように化学変化によって感情が発生することが仮に事実だとしても、人間のあらゆる感情は、心のあらゆる作用によって化学物質の分泌を促すのである。その点を身落とすと、脳科学は「脳至上主義」に陥り、宗教はおろか、心理学や文学とも折り合いが付かなくなる。
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言葉ってすごいな、
意味があって音(響き)があるのは大事だな、と思った
“思考は言語によって構成されている”
世界って不思議
究極は言葉を超えたところにあるんだけどw
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2人の話が噛み合っていないところもあったが、仏教ってなんだろう?ということと、脳の仕組みが分かりやすく話されていて、面白かった。
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心の三原色については洗練された。悟りとはすべてを受け流すことです。ということは無気力とはネガティブな気力が満ちた状態でしょう。ということでうつって積極的。
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私は科学の話が好きだ。
もちろん、科学の非力さ・いたらなさも踏まえたうえで、科学の話は興味深い。
セロトニン・アドレナリン・ノルアドレナリンについては、いろいろなところでよく聞く。
あるいは、幻覚についても、一般的に起こりうる脳の現象として、認識されている。
仏教の瞑想のなかで、それらはもちろん作用しているのだけれど、いわゆる「解脱」の段階はさらに奥が深そうだ、と感じた。
仏教は科学的だ、と思う。
日本の仏教でなく、原始仏教は。
心の安寧について、より多くのことが科学的にもわかれば、仏教について深く知らない人たちの生きづらさも、より緩和されるのではないか。
たとえ科学に限界があったとしても、それを求めていくのが人間なのだろうな、と思う。
生きとし生けるものが、皆、幸せでありますように。
それは、科学が望む世界でもあるのだろうな。
【memo】
P109 他者の心が自分の心と一致して、それによって共感で震えだすと、この前頭前野が動き出します。
泣く行動をやめたり、コントロールしようとしたりすると、その後、苦しみが残る。
セロトニンが重要!
P202 仏教は、厳密に客観的でなくてはダメ。
個人的な体験を論理的にとらえる、それが仏教。
「快」の存在という部分でもめている感じがした。